8話 二歳児は使命を思い出す

 くしゃみではない。

 俺の名前だ。


 ミリムをむかえに来たミリムの両親に言われてしまったのだが、ミリムは『パパ』『ママ』より先に俺の名前を口にしたらしい。

 俺の両親とミリムの両親が、俺たちを挟んで会話をしている。


「うちのミリムはおとなしくって、ハイハイもほかの子より遅かったし、言葉もなかなか話し始めないから、ちょっと不安だったんですよ。でも、おたくのレックスくんのおかげで、ようやく言葉を……」


 ミリムパパの言葉に、俺は達成感と感動を覚えていた。

 だってしかたないだろう。ミリムはもう俺の妹みたいなものだ。俺の姿を見つけると腰の黒いしっぽをブンと一回振るし、表情はとぼしいけれど、耳としっぽでだいたいの機嫌がわかるようになってしまっている。


 もはやミリムは俺の家族も同然だった。食事の世話もおしめの世話も俺がしている。

 そのミリムが初めて話した言葉に、『レックス』なんていう、俺自身さえまだ発音が不安な難読名前を選んだんだから、こんな感動はない。


 心をいましめているが――

 二歳児相当の精神性の俺には、この喜びをおさえるのが不可能だった。


 両親の足もとで俺とミリムは抱き合っている。

 俺はだっこしているつもりなのだが、俺もミリムもそう体の大きさがそれほど変わらないため、俺がミリムを膝にのせて抱きしめている状態になってしまう。

 後輩の親の目の前で、後輩と熱烈なハグだ。背徳的な気分になってくる。


 抱きしめているミリムがぶるりとふるえた。トイレだ。俺は素早くミリムを床に寝かせ、所定の位置からオムツをとってくる。誰に言われるまでもなくテキパキとオムツ交換をこなす。保育士たちが近づいてくる。触るな。ミリムは俺のだ。


「レックスくん、ほんとうにありがとうね」


 ミリムママに言われる。

 俺は当然のことをしたまでだと言おうとしたが、まだ俺も言葉がしっかりしていなくて、感じている使命感についてじゅうぶんな表現ができなさそうだったので、力強くうなずくだけにとどめた。


「それにしてもレックスくん、しっかりしてますね……二歳ってこんなにいろいろできるものなんですか?」

「うちの子は天才なんですよ」


 隣でパパが「おいおい」と仕方なさそうに笑っている。


 ママの言葉に俺は照れた。

 天才。それは百万回の人生を思えば、俺をあらわす表現として絶対にありえないものなのだけれど、ママに言われると皮肉でもなんでもない真実みたいに思えてくるから不思議だ。


 俺はほこらしげにミリムの汚れたオムツをかかげた。

 これは俺のトロフィーみたいなものだ。

 しかし保育士が回収していった。トロフィーは奪われ、適切な手順で処分されるだろう。惜しい……いや惜しくない。どうせまた出る。


 それにしても、こうまで褒められるとやはり自信がついてくる。

 俺はこのまま保育士を目指すのもいいか――そう思い始めて……


 ハッとした。


 ……魔法の訓練をなにもしていない!


 生まれてから今まで、激動の二年間だった。

 生後数ヶ月は親の監視下に置かれ、一歳になってからはだいたい保育士と……………………


 ………………名前を思い出せない!?

 なぜだ!? あんなになついていたおねえちゃんの名前が全然出てこない――そう、おねえちゃんが卒保育所してからもう半年がたっていた。二歳の脳には、半年という期間は長すぎる……おねえちゃんはその美しい思い出だけ残して、すでに過去の人になってしまったのだ。


 ともかくおねえちゃんに管理されていた。


 そして二歳になってからはミリムの世話だ――もちろん家に帰ればいぜんとして両親が俺を見ており、俺は隠れて魔法の練習をするタイミングを完全に見失っていた。


 このままではまずい。

 もし俺の仮説通り『赤ちゃんをVIP待遇するのは、赤ちゃんが魔法的に最強だからで、年齢を経るごとに魔法の力はおとろえていく』というのが正しかった場合、俺はとっくにピークをすぎてから二年たっていることになる。


 なんということだ。俺はあくせく生きるうちに、いつのまにか老いていたのだ!


 二歳の肉体を見下ろす。ようやく走るのが安定してできるようになってきた今日このごろ。言葉もずいぶんハッキリしてきて、今では赤ちゃんの世話さえできる。

 だというのに、俺の魔法の力はおとろえているのだ!

 いや、俺の『赤ちゃんこそ魔法的に最強生物』という仮説が本当に正しいかさえ、確認していないのだ!


 洗脳されていた。


『平和な日常』というテクスチャにすっかりだまされていた。

 一枚めくればそこには醜く悪意に満ちた世界があるに決まっているのに、それに対抗する準備をおこたり続けていた。

『敵』は危機感なく生きる間抜けな二歳児を見て、ほくそ笑んでいることだろう。

 保育士どものあたたかなまなざしがその事実を端的にあらわしている。


 だが、俺はピンチをチャンスに変える二歳児だ。

 これまでただの二歳児のようにのほほんと生きてきたおかげで、『敵』も俺などとるにたりないその他大勢の二歳児だと思い込んでいるはずだ。


 天寿をまっとうするためにも、今から準備をおこたってはいけない。

 不遇で不才で不運な俺が、普通に生きるためには、不断の努力が必要なのだから……


 俺はいよいよ魔法勉強に本腰を入れることにした。


「れくしゅ」


 だがその前に、ミリムがおなかすいたと言っているので、そのお世話からだ……

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