5話 優しい別離

 俺がはねるような挙動ではあるが走れるようになったころ、アンナがうれしそうになにかを報告してきた。


「アンナね、もうちょっとで『ようちしゃ』にいくんだよー!」


 ようちしゃ。

 俺のあずけられている乳児および乳幼児および幼児監視施設は、とある巨大学園に属する施設なのである。


 この巨大学園には年齢に応じて様々な施設がある。


 保育所(もっとも若くて生後六か月~四歳まで)

 幼稚舎(四歳から六歳まで)

 初等教育科(六歳から十二歳)

 中等教育科(十二歳~十五歳)


 このあたりまでで進路が決まった者は専門教育科(十五歳~二十歳)に行ったり、まだまんべんなく学びたい者は高等教育科(十五歳~十八歳)に行ったりと、分岐が始まる。


 基本的に保育所にいた者はそのまま同じ学園の幼稚舎に上がるし、初等、中等とスイスイ進んでいくようだ。

 つまりアンナはあと半年ほどで、別な監視施設へと繰り上げられるのであった。


 アンナは俺に祝ってほしそうだったが、俺は真顔でかたまった。

 彼女は気づいていないようだが、保育所を卒業して幼稚舎に行けば、俺とアンナは別々の教室に配属されることになる。

 つまり別れの時が近づいているのだ。

 俺はアンナの進級を素直に喜ぶことができなかった。


「『ようちしゃ』っていうのはね、せいふくがあるんだよ」


 どうやらアンナは、俺が『ようちしゃ』というものを理解していないと思っているらしい。

 制服があるだとかみんな四歳よりお姉さんなんだとか、現在放映中の女児向け映像娯楽の主人公の妹も四歳なんだとか、いろんなアピールポイントを語ってくる。


 これは俺が『すごーい』とやらないと終わらないやつだ。


 まあ、俺は大人だ。

 本心がともなわなくとも、『口先だけで祝う』という建前を使った会話もできる。


 アンナのような信頼できる年上女性とめぐりあえたのは幸運だったが、俺の人生には常に『別れ』がつきまとっていた。

 百万回の転生経験――今回はまだ、この世界は俺に牙をむいてこないが、いずれ陰惨にして悪辣にして非道なる真実の姿を俺に見せつけることだろう。

 そうなれば『別れ』はすなわち『死別』となる。特に俺を思いやる者ほど、残酷な現実に打ちのめされ苦しんで死ぬことになるのだ。


 それを思えば『卒業』という別離のなんと優しいことか。


 まるでこの世界が平和であるかのように錯覚してしまう――そんなわけはない。俺が生まれる世界が平和だなんてこと、あるはずがない。俺は百万回も転生しているからくわしいんだ。


 ……俺にできることは、後腐れなく、アンナを笑って見送ってやることだけだ。

 現在まだ三歳(今年四歳になる)の彼女はとても大人で、ふとした瞬間――たとえば俺が投げた食器を拾う時などの行動の素早さに、大人の女の強さを見せつけてくれたものだ。

 かと思えば女児向け映像作品について語る彼女はとても熱くて、まさに童心を持った大人という感じの三歳児だった。


 半年間、彼女と保育所で過ごした記憶がよみがえる。

 俺が口に入れようとした積み木ブロックを没収したり、俺が口に入れようとした小石を没収したり、俺が口に入れようとしたほかの子の手を没収したり……あれ、アンナに奪われてばっかりじゃないか俺?


 そうだ。アンナは簒奪者さんだつしゃだった。

 俺のお気に入りの立方体積み木ブロックを奪った彼女への恨みは忘れていない。


 俺は立方体にあこがれていた。円柱でもなく、三角柱でもない。立方体の安定感こそが、まさしく俺の目指す姿だったのだ。

 将来は立方体になりたい――そう願ったことは一度や二度ではない。安定。それこそ俺があらゆる人生で望んで、しかし手に入らなかったものだから。立方体は俺の理想を体現する形状なのだ。あこがれないはずがなかった。


 でも俺は二足歩行だった。

 立方体には――なれない。


 だから立方体を常にそばにおいていた。一体化したいとさえ思った。俺は気になるものはとりあえず唇で触る癖があるものだから、いつも立方体を唇で触っていた。

 アンナは、その立方体を俺からとりあげたのだ。


 だから――こんな女、知らない。

 行くならさっさとどこにでも行ってしまえ。


 そう思うのに――

 俺は、泣いた。


 アンナをぎゅっと抱きしめて泣いた。


「レックスくん?」

「やだ」


 一歳児の俺にはそれ以上言葉を重ねることができなかった。

 けれどアンナは俺の言わんとすることがわかったらしい――わかってしまった、らしい。

 彼女は別れに気づいてしまった。

 卒業とは、別離なのだと気づいてしまった。


 彼女は泣いた。

 俺も泣いた。


 俺たちは抱き合って泣き続けた。


 もはやなんで泣いてるかわからなくなって、声をはりあげつつ、なんで泣いてるかわからないよー! という気持ちをこめて泣いた。

 疲れて寝た。

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