郷愁
殺意などない。
そう自覚してしまったのはいつだろう。
僕は既にこの娘に対して殺意など抱いてはいない。むしろ、飼育者のそれに近い感情を抱いているのかもしれない。
つまり、薫は僕の所有物であり、家畜と同等の価値を持っている。
「まったく……お前は呆れるほどよく食べますね」
三日も餌やりを忘れていたのだから理解できなくもないが、粥とは言えよくこの量を食べられるものだと呆れてしまう。
「おかわり」
「……遠慮という言葉は?」
「今更でしょ」
にっこりと笑って言う姿が憎たらしい。しかし、あと一膳分は鍋にあるので器に移してやる。
料理自体は嫌いじゃない。これだけがつがつと食べる姿を見ると行儀が悪いとは思うが悪い気がしないのも事実だ。
「そんなに空腹でしたか?」
自身の特殊な体質を忘れると一般的な人間の感覚というものとの差がわからなくなってしまう。
「そりゃ、一瞬おばあちゃんが見えるくらいには」
「は?」
おばあちゃんとは、年老いた女性のことだろうか?
「空腹で死にかけると幻覚見るんだって」
薫は粥の匂いを楽しむように吸い込みながら言う。あれだけ食べてまだ楽しむ余裕があるらしい。
「……大袈裟な。たかが三日の断食で餓死するはずがないでしょう」
「三日も食べなかったの初めてだから」
薫は再び匙を動かし粥を口に運ぶ。
この娘はきっと豊かな国で恵まれた生活をしてきたに違いない。飢えたことも、凍えたこともないような生活を送っていたのだ。
「薫」
「なに?」
声を掛ければ不思議そうに首を傾げる。
「お前の祖国はどんな場所でしたか?」
別に興味があるわけではない。
だからといって無関心でもない。
異界の話を聞いたところで僕はそこに辿り着くことはないだろう。けれども異界の話を聞くことで、少しばかりなにかを得ることがあるかもしれない。
純粋な好奇心とは少し違う。魔術師として、なにか得るべき物があるのかもしれないと考える。
「どんなところって、気候的に? 風景? 感情的? それとも技術とか?」
質問が曖昧すぎると彼女は言う。
この考え方は意外と魔術師向きなのかもしれない。
「なんでもいいです。お前の知っていることを」
薫の思考回路は理解しにくい。けれども同時に興味深い。
「物質的には豊かでも、心が貧しい国、かな?」
「は?」
想定外の抽象的な答えが返ってきた。
「うーん、空腹って意味の、物質的な飢えはないけど、なんっていうのかな……寂しいって、そんな感じの飢えがある」
「飢え、ですか?」
薫の言葉に興味を惹かれた。
「うん。心理的に貧しい。そんな感じ。みんな寂しくて、不安でさ。ずっと画面越しの繋がりとかそういうのばっかり求めて、人間の温もりとか触れられたときの痛みを忘れちゃうんだ」
「痛み?」
それは触れる、ではなく攻撃を受けるだとかそういうものではないかと思い問う。
「いとこのねーちゃんがいっつも言ってる。人間って本当は痛みしかわからないんだった。生きていることは痛いことだって」
「それはまた、随分個性的な考えですね」
薫の生い立ちに関わる根本的な部分なのかもしれない。
「でも、私は結構気に入っているよ」
そう言った薫の器は既に空だ。いつの間に食べ終えたのだろう。
「お前も、飢えているのですか?」
思わず訊ねた。
「物質的に? 精神的に?」
「両方です」
そう答えれば、薫は困ったような眉のまま不器用な笑みを見せる。
「今は満たされてるよ。いっぱい食べたし、スペードがいるし」
「は?」
「スペードが居てくれると寂しくない」
口を拭いながら薫は目を伏せる。
「家に居ても母さんいっつも留守だから、ひとりぼっちだった。でも、ここに居ると大抵スペードが一緒にいてくれるもん」
「お馬鹿さん」
無意識に、手が薫の頭を撫でた。
自分がなにをしているのか理解出来ない。
「僕はお前を買い取った。買った家畜を逃がしたくない。それだけです」
「せめて愛玩動物がよかったな」
家畜呼ばわりに怒りもしない薫がおかしい。
「お前には贅沢すぎます」
「ちぇーっ」
薫から手を放せば、微かに名残惜しい熱がある。
もっつ触れていたい。
もっと、もっと。
気がつけば、薫を腕の中に閉じ込めていた。
「ど、どうしたの?」
「黙りなさい。家畜は飼い主の所有物でしょう?」
らしくない誤魔化しは自分でも馬鹿げているとわかっている。
「もしかして、寒いとか?」
「は?」
「私毛皮ないからなぁ。犬や猫みたいにもふもふ感はないよ」
本気で心配したらしい薫に呆れてしまう。
「なにを馬鹿なことを……」
けれども温かい。
セシリオに触れるときよりは柔らかく、それでいてどこか懐かしいような感触。
そう、これはまるで郷愁。
「薫」
「な、なにさ」
「……黙っていなさい」
予想以上に色気のない声にがっかりした。
「え?」
頬に触れれば柔らかく、腰に手を回せば細くしなやかだ。
「やはり、男とは違いますね」
「いや、まぁ、一応生物学分類上は……ってなに? あんた今まで私のこと男だと思ってた?」
薫は呆れた顔を見せる。
「いえ、男だか女だかわからなくなるような知り合いが居るもので」
細く見えてもここまで丸みはない。
滑らかな肌もここまで柔らかくはない。
「薫」
「なに?」
「どこにも行かないください」
口が勝手に言葉を発した。
こんなの、僕らしくない。なんとも情けない言葉だ。
「どうしたの?」
「お前は僕の所有物です」
「……うん、私はどこにも行かないよ。あんたに消費されるまで。要らなくなったら塵箱に放り込めばいいよ」
薫の手が頬に触れる。
温かい。
セシリオは絶対にしない仕種。
なのに懐かしい。
一体僕の頬に触れたのは誰だっただろうか?
「……カルメンは僕の髪に触れることがあっても頬に触れることはありません。ニネッタもアマリッリも僕に触れたがらない……アリエッタにはそもそも自発的に触れたことすらない。としたら……前に僕の頬に触れたのは誰でしょうか?」
全く記憶に残っていない。
「……結構女の名前出てきたね。でも、全員覚えていたわけじゃないんだ」
「……女なんて最終的には全員同じ顔に見えてきます。言え、男でもカモは大抵同じような顔に」
元々他人の顔なんて仕事を終えた後にまで覚えていない。ましてや殺した女の顔なんて覚えているはずもない。
「ミカエラ、ラファエラ、アナエル、ミーナ、ベッツィ、ローラ、デネブラ、アナ、アリー、ベアトリス、ティフ、ヴィクトリア……あとは顔も思い出せませんね。いや、同じ名前も何人かいたような気がしますが……」
「今のリスト何?」
「……昔、駆け出しの頃に結婚詐欺に引っ掛けた女達ですが?」
「……最低」
薫がじろりと睨む。が、それが愛らしいような気がした。
「ふむ。愛玩動物に昇格してあげてもいいかもしれませんね」
「は?」
「家畜にしては生産性がありませんから」
人肉を食う趣味はない。
「まあ、そこまで癒しがあるわけでもないのですが……お前の存在意義はきわめてあやふやですね」
「……あんたが一番失礼なこと言ってるよ」
「いいんです。僕ですから」
苛めたいような気もする。
どうやら、これが情が移るというものらしい。
セシリオを馬鹿にできなくなった。
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