苛立
もともと自分がどんな人間だったかさえ思い出せない。
自分の出自が不幸だと思ったことはないが、平凡な家庭環境であったとも思えない。特に、兄との関係は普通ではなかったと思う。しかし、それは既に過去のことだし、他人と比べてものすごく不幸だったとも思わない。
ただ今は、他人の不幸が心地良いと感じ、自らを冷ややかな目で見つめることができる退屈な人間だと感じている。
「セシリオ」
「なんです?」
「僕は貴方と出会った頃、どんな人間でしたか?」
初セシリオとの出会いは確か四百年程前だ。師に初めて仕事を貰った時、最初の依頼人が彼だった。
「そうですね。ウラーノには負けますがどうしようもない
「今でも魔力と知識には絶対の自信がありますが?」
控えめに言っても世界で片手の指に数えられる魔術師だと自負している。
「あの頃の貴方は、そうですね、師に愛されているという絶対的な自信がありました。いつも見守ってくれる師匠が居て、その師が自分を高く評価してくれていることを知っている。そう言った自信ですね。あの当時、家族とか仲間とかそう言った物を持たなかった僕からしてみれば、すぐに殺してやりたいくらい憎たらしい嫌悪の対象でしたよ」
「ほぅ」
意外な評価だ。
愛など知らない。
あるのは自分勝手な押し付けがましい感情だけだ。
「貴方はすぐにそう言った話ばかりだ。愛だの恋だの怪電波を送受信し続けている」
最も送信先は受信出来ていないようだが。
「ふふっ、スペード、貴方もそのうち理解できますよ。ああ、僕の可愛い奥さんが預言をくれましたよ」
「預言?」
あの娘にそんな力があっただろうか?
「国が動くと。どうやら異世界から何かが紛れ込んだようですね」
「ほぅ。僕のほかにもあれを見た者がいたとは……」
確かに、彼女であれば感知くらいは出来たかもしれない。
「あれって?」
「異界の歪みとでも言うのでしょうかね。そう言ったものです」
空間の歪み。
崩御と即位の間に起こる現象は二百年前に一度だけ目にしたことがある。とても大きな魔力が動き、あらゆる方面に影響が出る。
「崩御の前触れですかね?」
実際あの王がどうなろうが知ったことではない。むしろさっさと退いてくれた方が国が変化するだろう。
「恐れ多いことを」
セシリオは笑う。
「思ってもいない癖に言わないで下さい」
「ばれましたか。でも、宮廷騎士に聞かれると厄介ですよ」
彼もまた王になど興味がない。気に入らない人間は消せばいいとしか考えていないのだ。
「だからこうしてここに居る。セシリオ・アゲロの店に騎士は入りたがらない」
誰だって、普通はセシリオ・アゲロには関わりたくないのだ。
「照れます」
「誉めてませんよ」
全く。これに訊いたのが間違いだった。彼の感覚は普通とはかけ離れている。
「それで? ディアーナはどう動くつもりです?」
「月の女神の意志に従うだけです。いや、僕の機嫌ですかね。気の乗る依頼だけ引き受けますよ」
「相変わらずですね」
セシリオはいつだって変わらない。彼の軸は、既に忘れられた神、付きの女神への信仰だ。
「今更です。ところで、調べてほしいことがあるんですけど」
「なんですか?」
急に仕事の話を持ち出されて驚く。
「アラストル・マングスタが拾った少女を少し」
「……あのみすぼらしいのは女だったんですか?」
あの銀の男が土砂降りの中拾ったのは女だったのかと驚いてしまう。
「おや? 見たのですか?」
「ええ、クォーレとの取引に向かう途中に。あの噴水の前でなにやらみすぼらしいものが倒れていましたが?」
しかしわざわざ確認しに行こうとは思わなかった。
「
「ええ、見ましたよ。それが?」
全く。本題が掴めない。
「戻らないんですよ。あの子。それで、アラストル・マングスタの動きが気になっています。
セシリオ・アゲロの元に情報が集まらないはずがないが、あの双子ほど情報収集ができる部下は他に居ないのだろう。
「それで? マングスタの元に転がり込んだのが異界の娘だと?」
「ええ、おそらくは、彼女も不本意だったのでしょうが」
セシリオはよほどその娘に興味があるらしい。
「僕は師匠のいたずらかと思いましたよ。あの人は退屈になるととんでもないことをやらかしますからね」
あの人がアザレーアで大人しくしているはずがない。
「クォーレ・アリエッタが詳しいかもしれませんね。彼女は今どこに?」
「ローザに向かうそうですよ。まぁ、今回は僕が個人的に調べるのも悪くないですね」
まあ、暇つぶしにはなるかもしれない。
「本当ですか?」
「ええ。旨い酒を奢ってくださるなら」
「ふふっ、ナルチーゾの葡萄酒を持ってきてもらいましょう」
「名案です」
どうやらウラーノが来るらしい。
あれで顔が広い。使えるだろう。
「では、僕はこれから一仕事ありますので」
「珍しいですね。セシリオが自ら動くとは」
彼は多くの部下を抱えている。もう既に危険な現場に足を運ぶ必要はないだろうに。
「僕の奥さんを侮辱した男ですからね。とびきり苦しい毒を盛ってやりますよ」
「おお、こわいこわい」
相変わらず悪趣味な男だ。妻と毒を愛しすぎている。
「そういえば、時の魔女がこのムゲットでなにか動き始めたと言う噂を聞きましたが」
「あの人は……相変わらずですね」
出来ることならば会いたくない。
あの女に会えば、何かがまた歪む。
「セシリオ、僕も失礼します。十日後にまた来ますよ」
「ええ、いい情報を待ってますよ」
期待されても困る。
あの人がこのムゲットに居るなら、なにも出来まい。
どこか臆病になっている自分に苛立つ。
外に出れば、憎いほどに笑い月が輝いている。
「ねぇ」
上から声が降る。
「ん?」
「スペード・J・A」
「なんです?」
屋根の上に黒い髪の少女、セシリオの養女が居た。彼女に話しかけられるとは、少しだけ驚いてしまう。
「逃げたよ」
小さくてもよく響く声。
「は?」
彼女の言葉は少なく、しかし、事実しか言わない。
「あの子」
何を言われているのか理解するのに時間が掛かった。
「ルシファー、怒ってる」
それだけ言って玻璃は消えた。
アラストル・マングスタの元に居たはずの異界の娘はどこかへ逃げたらしい。彼の上司であるルシファーが怒るのは、部下の失態か、それとも。
少なくとも、異界の娘に感心があるのはセシリオだけではないらしい。
「全く、厄介なことになりそうですね」
ルシファー、あの緋の悪魔は敵に回したくはない。
そう考えながら、足は遊郭へと向かっていた。
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