第39話 夜
彼は覚えているだろうか。
もしかしたら忘れてしまったかもしれないけど。
桜が散り際の季節、私は初めて目の前で人が倒れると言う事態に直面した。
転校初日の朝だった。
私より少し小柄な少年だった。
ただ、名札の色や制服から、同い年の子だと分かった。
「ああ、またこいつか……」
近くにいた教師に助けを求めれば、彼を見た途端、
溜め息混じりの悪態をついていた。
倒れた相手に対する反応ではなかった。
* * *
保健室に運ばれ、横たわる彼は静かに寝息を立てていた。
いきなり倒れたとは思えない程、健やかな寝顔だった。
ただ、初対面の私でも分かるぐらい、疲れが滲んでいた。
寝不足なのだろうか。
教師は大丈夫だと言っていたが、なんとなく彼の寝顔を眺めていた。
多分、心配だったのだろう。
その上、目の前で人が倒れたのだ。
衝撃と混乱が抜け切れていなかったせいかもしれない。
「……っ」
一瞬、苦しげな表情を浮かべた。
直後、彼は徐々に目を開けた。
「起きた?」
声をかければ、彼は私の方を見た。
「……っ」
息を呑んで、彼は私から目を逸らした。
「倒れたのよ、校門前で」
「……」
「覚えてる?」
「……」
彼は何も言わなかった。ただ小さく、首を振った。
「そう。保健の先生は怪我はないって言ってたけど。念のため、病院行った方がいいと思う」
「……」
それでも彼はこちらを見ようとしなかった。
お節介だったのかもしれない。
何も言わず、席を立とうとすると、
「……運んだのか?」
小さな声が聞こえた。
「え?」
「悪かった、重かっただろ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
彼の声と言葉から、私が彼を保健室に運んだのだと勘違いしていると理解した。
「保健室に運んだのは、先生だから気にしないで」
「……それでも」
なおも彼は言った。
「それでも迷惑かけただろ」
「……」
「悪かった、迷惑かけて」
ぶっきらぼうに聞こえるその声は、相手への気遣いが滲み出ていた。
「……律儀ね」
顔を逸らしたままなのは、気まずいからかもしれない。
「別に気にしなくていいのに」
「気にするだろ、普通」
「そう?」
「そうだろ」
言いながらも、彼は決して私の顔を見ようとしない。
それがなんとなく、気に喰わなかった。
「ねぇ、なんで目を逸らしたままなの」
「それは……」
「話すなら、相手の目を見て話してよ」
「……悪い」
言いながら、顔をこちらに向けてくる。
そして、眩しそうに目を細めた。
「見惚れた」
「は?」
きょとんとして、すぐに意味を理解した。
「よく言われる」
実際、私を見て、見惚れる人は多かった。
「美人とか、綺麗だとか……」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「?」
「夜みたいだなと思って」
「……夜?」
思わず自分を見下ろし、長い黒髪を摘んでみせた。
「暗いってこと?」
確かに私の容姿は黒で統一されたような外見だった。
黒の制服と相まって、暗闇色に見えてしまうかもしれない。
「いや、それなら見惚れたなんて言わないだろ」
若干呆れた様子で、否定された後、
「そうじゃなくてだな……」
「?」
「夜って落ち着くだろ」
言いながら、彼は私を見ていた。
「なんか見ていて、落ち着く色だなって思ったんだ」
その声こそ柔らかくて、落ち着いた色をしていた。
「……口説いてる?」
彼の態度から、そんな気はなかったのは分かっていたが、
なんとなく、気恥ずかしくなった。
「……え、あ」
彼は彼で目を泳がせて、自分の言葉に恥ずかしくなったらしい。
「悪い……忘れてくれ……」
短い会話の中で一番、小さな小さな声だった。
詩人のような言葉を告げた人と同一人物だと思えないような、
狼狽えっぷりだった。
「……ふ」
その姿に思わず吹き出した。
「笑うなよ……」
「だって、」
言いかけて、ふと思いつく。
「ねぇ」
「……なんだよ」
「忘れる代わりに、名前を教えて」
「は?」
ポカンとする彼に、私はまだ笑みを浮かべたまま、
「名前。そうしたら忘れてあげるから」
「なんだよ、その上から目線……」
心の声を洩らしながら、彼は私をじっと見つめた後、
「……勇人」
自分の名前を口にした。
「如月勇人。それが俺の名前だ」
「そう。私の名前は九条梓」
私は手を差し伸べた。
「これからよろしくね、勇人」
* * *
『――梓』
声が聞こえた。
聞き覚えのある声で、両親とはまた違う呼び方で、
聞き慣れた音だった。
「……?」
徐々に意識が浮上していく。
白い天井が目について、それから、
「梓」
横に目を向けると、そこには辛そうな顔をする彼がいた。
「……勇人」
「起きたか?」
「……起きたけど」
でなかったら返事なんかできない。軽口を言おうにも、言葉が出てこなかった。
酷く眠かった。
「……ここは?」
考えれば分かるのに、ぼんやりとした頭は考えることを放棄していた。
「――病室だ」
勇人の言葉に、私はようやく自分の状況を理解した。
* * *
「……ふ」
「梓?」
呼吸器に繋がれた梓が何故か笑っている。
「前と逆だなと思って」
「前?」
「覚えない? ほら――」
梓は笑いながら、何かを話そうとして、口を噤む。
「梓?」
「何だったっけ?」
梓は首を傾げながら、何かを思い出そうとする。
「―――覚えてないかも」
酷く眠そうだった。
その姿が酷く痛々しく思った。
――梓が倒れて、病室に運び込まれた。
その知らせを受けたのは、つい先程だった。
梓の両親に会った瞬間、息が止まるかと思った。
梓の両親の顔は覚えていない。
会ったことがあるかすら、分からなかった。
ただ向こうは俺に気付くなり、言ってきた。
『救う方法があるなら、助けてほしい』と。
鬼頭先生から聞いたのだろうか。
俺は彼女の両親に罵倒されたって仕方がない。
彼女の今の状況は、俺が原因なのだから。
「――勇人?」
呼ばれて、ハッと我に返った。
「どうしたの?」
「……梓」
「?」
呼吸器に繋がれた彼女が小さく首を傾げた。
どこか動きが鈍くて、辛そうな仕草だった。
「梓」
「何?」
「『手術』、受けないか?」
無意識にそんな言葉が零れ落ちた。
「……殺せるの?」
『手術』が何を指しているか、理解したらしい。
梓の第一声がそれだった。
「殺せるの? 聖女様」
確認するように、気遣うように、彼女は言った。
「……分からない」
無理にでも肯定すればよかったのかもしれない。
だけど、梓に嘘は吐けなかった。
「なら、」
「それでも」
梓の言葉を遮って、俺は言った。
「それでも俺がしたいんだ」
小さく息を呑んだのは誰だったのか。
「だから受けないか、手術」
沈黙が落ちた。
長いようで、短い静寂だった。
「辛いよ」
ぽつりと呟いた。
「辛いよ、人を殺すの」
梓の声だった。
「それでもいいの?」
気遣いの声だった。
「……」
俺は無言で、梓のことだけを見ていた。
やがて、梓は小さな声で、
「……分かった」
と言ってくれた。
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