幕間・沱白棗
「ねえ……ねえ、ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」
放課後、特に用事もないから真っ直ぐ家に帰るために歩道を歩いている時だった。
少し控えめな声が聞こえた。それがどうやら僕に向けられたもののような気がして、僕は足を止めた。後ろを振り向くと、そこには白メッシュの混じる黒く長い髪を緩く三つ編みに纏め、淡い水色のカラーレンズの丸眼鏡をかけた女の人が立っていた。
「えっと……僕、ですか?」
「ええ」
念のため聞き返すと、彼女は頷いた。
「突然ごめんなさい。久しぶりにこの町に帰ってきたのだけれど、ちょっと土地勘とか忘れちゃって……それで道を聞きたいの」
目を細め申し訳なさそうに言う彼女に僕は頷きそうになったけれど思い止まる。「道を聞きたい」と知らない人に聞くこと自体何も怪しいことじゃない。だけれど、普通はスマートフォンのマップアプリなんかで調べたりしないだろうか。
「……僕もこの町に住んではいるけど、そこまで詳しいわけじゃないですし」
別に調べないことも悪いことじゃない。ただ、僕はこの町に住んでいながらも。土地勘は薄い。というより無いた正しい。正直なところ道案内ができる自信が無い。
幸いにも交番が近いことは覚えている。そこへ案内しようと思って断りの言葉を言おうとしたのだけれど、彼女はそれを遮った。
「大丈夫。わざわざスマホのマップで調べるほどのことじゃないの」
「……えっと?」
彼女の言葉の意味を理解しきれず僕は首を傾げる。
「道を聞きたいとは言っちゃったけど、別に建物へじゃないの。とある、人への案内をお願いしたくて」
「人、ですか」
「そう。君が一番知っている人」
彼女はまた目を細める。だけどそれは先程の表情とは違い、随分と穏やかな笑みを浮かべていて。また口を開く。それは彼女は僕に案内、いや、会わせて欲しい人の名前を言う。
「――――
これは僕が、知らない何かを知る話。
「――――ロギ、のところですか?」
「……うん?今のって……」
「え?」
「あっ、あー……ううん。こっちの話だから、気にしないで。そう、その人」
やらかした。と思わせるように表情を隠すために口元を片手で覆い隠し、誤魔化すように笑う。
「……貴方は、ロギとどういう関係なんですか?」
「獅琉君との関係?それに関しては追々話そうか。歩きながらでも」
暗に早く案内しろと言っているようで、僕はとりあえず自宅へと歩く。彼女もそれについてくるように僕の隣を歩く。
「とりあえず自己紹介からかな」
一応話をしてくれるらしい。
「私は
「……ロギの高校時代」
「想像つかない?まあそんなものだよね」
沱白棗と名乗った彼女の第一印象は随分と飄々としている感じだった。若い女性で大学生と言われれば、それを疑うことはしないだろう。ロギと高校時代からの友人と言っていたから、おそらくは彼と同じ年齢か、それに前後するのだろうか。
「あの、今日はロギに会う予定だったんですか?」
「ん……まあ少なくとも
「じゃあ、僕が今から伝えますけど……」
念のため、彼女が本当に不審者じゃないのかを確認したくて、ロギに連絡を取ろうと制服のジャケットからスマートフォンと取り出した。すると、沱白はそれに手を添えるようにして押さえ止める。
「いやあ?そういうのはね、面白くないんだよね」
「……」
「そんな警戒しないで?獅琉君のことだからさ、そういうの嫌がるでしょ?人と会うのとかさ。彼、高校生の時から人と会うのが本当に嫌いな人だったからさ」
沱白の言い訳に僕はどこか納得してはいる。ロギは仕事でも人に会わないといけないとわかると、口には出さないけれどすぐに嫌そうな表情を隠すことなく露にしてしまう。
「だからアポなしで行くのが一番いいの。まあそれでも嫌な顔はされるんだけど……私のこと知らせたら何処か行きそうだし」
沱白の話に僕は思わず頷いてしまった。
「しかしまあ……」
会話の最中、彼女は周囲を見渡す。
「随分と様変わりしているね。この町」
「そうなんですか?……どれぐらいいなかったんですか?」
「うーん……数年?数えてないなー。高校卒業してすぐに四国に行っててね。それ以来ずっと帰ってないんだよ」
「四国に行っていたのは進路とかの都合ですか?」
「んー……ちょっと違うかな。自分の都合で、就職とか進学とか、そういう進路でのことじゃない」
あまり聞いてほしくないことなのか、曖昧な答えを返してきた。
「……ロギとは、仲は良かったですか?」
少し話題を変えようと僕は話を切り出す。
「高校時代の話ってことだよね。それだと……まあまあかな。1年と3年の時が同じクラスで。正直に言っちゃえば、交流するようになったのは3年の時から。1年の時は同じクラスで、顔を何となく覚えている程度って感じだった。獅琉君に至っては私のことなんて覚えていなかったみたいで、3年の時に声かけた時は『誰?お前』って言われたからね」
当時のことを思い出して笑いながら話す沱白を横に、高校生の頃からロギは既にその人格だったのかと僕はため息を吐いてしまう。
「私が覚えている限り、1年の頃から獅琉君は距離を置かれがちだったね。孤立しているわけじゃないんだけど、親しい人を私を含めてクラスの皆は見たことが無い。学校の行事関連で話しかけた時は、普通に話ができるから人付き合いが苦手な人なのかなって印象を持っている人が多かったし、私も高校3年での付き合いが始まるまではそう思ってた」
「3年生で交流するようになったきっかけは?」
「……映画」
「映画」
「そう。3年の新学期初日の放課後、獅琉君は映画関係の雑誌を読んでたの。今思えば、それは単なる暇潰しのために読んでいただけだったのかもしれないけれど、その時の私は勘違いしていてね。彼が見ていたページは丁度私が見たかった映画の特集だったの」
当時のことを思い出してまた沱白はくすくすと笑う。
「で、それを勘違いしていた私は、獅琉君にほとんど強引に一緒に映画を見る約束を取り付けた。彼との付き合いはそこからだったね」
「え?ロギ、約束守ったの?」
「守ったよ?その次の日の放課後に一緒に映画館に行ったし」
「……」
僕の言葉に不思議そうに首を傾げる彼女に、僕の方がおかしいのかと思ってしまう。
「それからは楽しかったよ。学校でもだけど、外に出かけたり、お互いの家に行き来したり、私の妹も懐いたしね」
「妹さん?」
「うん。引き籠もりで人見知りも激しいんだけど、獅琉君には結構懐いていたの」
こうして沱白の話を聞いていたが、ロギの高校時代の姿が想像できないせいでどうしても炉偽の話をしているように思えない。
「あの……」
「うん?」
「ロギとは、その……付き合って、いたんですか……?」
「……ふふふ」
僕の問いに沱白は笑う。
「そういうのって気になっちゃうんだ?」
ロギと交流を持つ女性となれば、それを考えないという選択肢は僕にはできなかった。そしてこの先の回答は僕も予測していた。
「どうだと思う?」
この厄介な回答、というよりは問いを問いで返されること。すんなり答えてくれない辺り、二人は本当に友人関係にあるのか怪しく感じてしまう。
「仲は良かったですか?」
「それはさっきも聞かれた気がするね?」
「ロギは、自分のことを話さないから、なんというか……信じられなくて」
沱白は僕を見て、少し考える仕草を見せる。
「まあ、獅琉君は自分のことを話さないのは高校生の時からも同じだったかな。でもそうか……」
何か、物思いに浸る様な彼女は僕へと視線を移した。淡いカラーレンズ越しに見えた瞳の色はそのレンズの色が混ざったせいかどこか不気味で。
「――――
彼女が僕の名前を呼んだ。
「……」
僕はそこでとあることに気づいた。あまりにも初歩的な、それでいて致命的な、最悪なミス。
沱白は僕に名乗ったが、僕は彼女に出会ってから今まで一度も自分の名前を明かしていない。会話に夢中になって自己紹介をしなかったことに気づかないながらも失礼なことをしたなと思ったけれども。それなのに、彼女は僕の名前を知っていて、尚且つ僕とロギに関わりがあることを知っている。
「……あ、あの」
僕は足を止める。沱白もそれに倣って歩みを止めた。
「どうかしたの?」
彼女は不思議そうに首を傾げている。それが演技なのか僕には判別ができない。
「えっと……」
僕はどうしたらいいのかわからなくなる。きっと沱白から距離を取った方が良いのだろう。少しだけ後退りをして、その足音が随分と鮮明に聞こえた気がして、そこで気づいた。
「……あれ?」
「……」
随分と静かだ。誰も居ない。ついさっきまで僕達と同じように歩道を歩いていた人も自転車に乗った人も、道路を途切れなく走っていた車も。
僕と沱白の他に何も居なかった。
異界と呼ばれる場所がある。
僕達がいるこの空間ではなく、例えば天国や地獄という死後の世界と呼ばれるような場所だったり、自分が知る世界ではない外であったり。
そんな場所があるのかは僕にはわからない。だけれどロギはその異界について少しだけ話をしたことがある。彼は異界を都市伝説や怪談話に登場する怪物等の人に害を成す存在が作り出す場所だと言った。
人を襲うために、攫うために、何かしらの害を成すために。“それ”は自分の得意な方法を取るために異界へ、“それ”のテリトリーへと招くのだという。
異界へと入るきっかけは随分と些細なもので、たとえ何かしらのきっかけがあったとしてもそれに気づかずに入ってしまうのだという。
だから、僕達はその異界へと入ったのだろう。
「……うーん?電波がないようだね」
周囲を見渡していた僕の隣でそんな声が聞こえた。
どうやら異変に気付いたらしい沱白は自らのスマートフォンを取り出して画面を確認すると僕に見せてきた。電波状況を示すアイコンにバツ印が表示されていた。僕も同じように自分のスマートフォンを確認すると同じ表示がされていた。
「まいったね。気づかなかった」
「……随分と落ち着いていますね」
「それなら、真宮君も同じじゃない?それに、いつになったら、私が君の名前を知っていることを指摘するのかな?」
「……」
やっぱり、沱白は知っていて僕に近づいていた。どこまで知っているのか知らないが、この異界と呼ばれるような場所で落ち着いた様子でいることにも、何か知っているからこそなのかもしれない。
「どうして、僕のことを知っているんですか」
「知りたい?」
「……」
「そんな怖い顔をしないでよ。別にストーカーみたいなことをしたわけじゃないの」
車が通ることが無いからとガードパイプを乗り越えて反対側の歩道へと歩き始めた沱白を僕は慌てて追いかける。
「それも含めて私と獅琉君のことを話してあげるから、何処か落ち着いて座れる場所にでも行こうよ」
反対側の歩道へと辿り着いた沱白はOPENと札がかけられたカフェのドアを開けようとドアノブに手をかける。
「ん?んー……開かないね。ここはそういう場所なのかな?」
「開かないんですか?」
「うん。開かない。確かめてみて」
交代するように僕はドアの前に立つと、ドアノブに手をかけて開けようとドアを引く。動かない。鍵がかかっていて開かないのではなく、動かない壁を動かそうとしているような感覚に近い。つまりここ以外にもドアのような出入口が閉じられている場所は出入りすることはできないのだろう。
「まあ別に暑いとか寒いというわけでもないし、その辺でもいいよね」
沱白はバス停に設置されていたベンチを指差す。僕がそれに頷いたのを彼女は確認するとバス停へと歩く。先にベンチへと座る沱白の隣に少し距離を空けて僕は座る。
「まずは何から話そうか……いや、何処まで話したんだっけ?」
「えっと……ロギと映画を見に行って、そこから交流が始まって、妹さんとも仲良くなったところまで?」
「ああそうそう。そうだった。それでその一年を獅琉君と妹と過ごすようになったわけ。それとたまに
「君原さん?」
意外な人の名前を聞いて僕は思わず聞き返す。
「うん。君原ちゃん」
不思議そうに僕を見て首を傾げながら彼女は頷く。
「私と獅琉君の後輩。一個下のね」
僕が思っている君原と同じ人とは限らない。単に同じ名前の人だろうか。僕は話を止めてしまったことを詫びて続きを聞こうと口を閉じる。
「学生らしいといえば、たぶんそう。きっかけは映画だったけど、それ以外でも遊ぶようになったし。妹も獅琉君には会いたがるようになってね。いい傾向だった」
「引き籠もり、だったから?」
「……そう」
あまり言いたくないのかもしれないけれど、沱白は話を続ける。
「それで、私達には忘れることができない……いや違うかな。忘れることなんて許されないことが起こった」
きっとここからが本題なんだろう。さっきまで過去を思い出して嬉しそうに笑みを浮かべていたのに、今の表情は随分と大人しい。
忘れることが許されない出来事。と彼女は言う。わざわざ、『忘れることができない』から言い直したのだ。きっと良い話ではないのだろう。なんせ、この異界にいても冷静でいられること、僕を知っている理由を含めてのことなのだから。
「3年生の終わり……卒業間近になってね、私は最後の思い出作りをしたいって提案したの。別に難しいことじゃない。夜に通ってた学校で肝試しをしようって。季節外れにもほどがあるけどね」
苦笑しながら彼女は言う。
沱白の話を要約すると、こうだった。
沱白はロギと彼女の妹、そして後輩の君原と共に、深夜の母校を肝試しの様に探検をしようと提案した。当然、先生がそんなものを許可するはずもなく、こっそり忍び込んでのことだった。
沱白達が通っていた学校には、所謂旧校舎というものがあり、老朽化を理由に出入りが禁止されていて、新校舎から旧校舎へと通じる唯一の渡り廊下は常に施錠されていた。しかし、肝試しに行った日、何故か鍵が開いていたのだという。
当初、沱白達は校舎内を巡回している警備員が中に入っているのだろうと思っていた。そしてその警備員に見つからないよう、ほんの少しだけ旧校舎を見ようと、中に立ち入ったのだという。
それが良くなかったのだ。と沱白は言う。
「どうしてあの鍵が開いていたのかは、今もわからない。警備員が巡回のために開けていたのかもしれないし、鍵が古くてもう鍵としての役割を成せなかったのかもしれない。ただ私は、私はね……」
あの日を思い出しているのか、ここじゃない何処か遠くをぼんやりと見て、沱白は言う。
「―――“怪物”が私たちを招くために開けたんだと思ってる」
“怪物”と沱白は言った。
僕はそれを聞いて驚くようなことはしなかった。なんとなく。ではあるけれど、察してはいた。
「……“怪物”に遭ったんですね」
「うん。遭った」
出遭ってしまった。というのが正しいのだろう。だけれどそう言うことができなかったのは僕も本当は冷静を装っているだけで、驚いていたのかもしれない。
「旧校舎に入って、私達は“怪物”に出遭った。私も妹も君原ちゃんも驚いたり怖かったりで動けないのを獅琉君はね、助けてくれたの」
ロギは恐怖で動けなくなった沱白達に校舎の外へ出るように言った。3人が逃げる間、ロギは一人残り“怪物”と対峙していた。
ロギは高校生の時からすでに“怪物”と対峙する立場にいたのだろうか。
「獅琉君が私達を逃がそうとして、私達はそれに従って校舎を出た。だけどね、妹は校舎に一人戻ってしまったの。『おにいちゃんが死んじゃう』って。私は驚いたよ。いつも私にしがみ付いて離れるようなことをしなかったあの子が、私から離れて一人で走った。だから止めることができなかった。追いかけたけど、あの子があんなに速く走れるって知らなかったから追いつく頃には全部終わってた」
沱白は目を伏せる。もう話すことなんて辛いはずなのに、それでもどうにか話そうとしているように、僕は見えてしまう。
「あの時、何が起こったのか私にはわからない。どうしてそうなったのか、わからないの。私が見たのは、獅琉君と妹が……カノンが一緒に“怪物”の腕に貫かれていたの」
「……え?」
誰も居ないはずのこの場所で、まるで話の腰を折るように、小さな足音が聞こえた気がした。
気がした。のではない。これは僕が知っている足音だった。
反射的にその音がする方へと僕は振り返る。
「シンギの姿を見ないと思ったら、こんな所に迷い込みよって!」
「……クロ?」
時坂町の人々の帰り道を見守る土地神、“送り狼”のクロが僕達を呆れた様子で見上げていた。
「そうじゃ。別に偽物でもないわい」
「どうしてここに?」
「お主の気配を感じないからじゃ。いつも使う帰り道に居らんとわかったからの。そうなったら、わしはわしの役目を果たすために動くのじゃ」
僕の膝の上に飛び乗ってクロは隣に座る沱白を見る。沱白もどうやらクロを認知できるようで、僕の膝の上にいるクロを、異界に入った時の様に驚いた様子もなく見ていた。
「……お犬様?」
随分と独特な呼び方を彼女はする。きっとそれもクロを呼ぶためのものなのだろう。以前に「犬」と言った僕には怒ったのに、その呼び方に対してはクロは何も言わずに「ふむ……」と沱白を見上げる。
「お主は、蛇女じゃな?」
蛇女。
また知らない言葉が出てきた。
「それよりシンギ、さっさとこんな場所から出るぞ!」
「出られるの?」
「もちろんじゃ。わしを何だと思っておる?人々の帰り道を見守る送り狼ぞ」
ついてくるが良い。とクロは僕の膝から飛び降りて歩道を歩きだす。
「ま、待って!」
僕はベンチから立ってクロを追いかける。沱白もそれについてきてくれた。
クロは僕達の前を歩き、僕達はその後ろをついて行く。恐らくはそれで合っているのだろう。“送り狼”の後ろをついて行くというのはあまりにも不思議な感覚を覚えるが。
「……“送り狼”だよね?」
クロを指差し沱白は僕に訪ねる。
「うん。僕が通ってる学校の通学路にある
「クロって?」
「僕が勝手にそう呼んでるんです。不便だから」
「どうしてこう、言い方が合っているかわからないけれど、仲が良いの?」
「僕に憑いてきたんです。暇だからって」
「ああ……」
何を察したのか随分と憐れんだ視線を僕へと向けてきた。何かしら思い当たることでもあるのだろうか。
「まあ、紛いなりにも神様か。しばらくは君に憑りつくでしょうね」
「紛いなりにも神を幽霊のようなものに例えるでないわ!」
僕達の会話は当然クロにも聞かれているわけで。僕達の会話に言葉を挟む。
「まったく。このような異界に迷い込んで焦りもしないとは……本当に呆れるぞ。お主ら」
「“怪物”絡みとなれば、下手に慌てるといけないから」
「冷静さを欠くことは確かに良くないことじゃ。じゃが、冷静と楽観は別物じゃ。蛇女の口車にでも乗せられたんじゃろ?」
「ううっ……」
クロからのきつい一言に僕は言い返せなくなる。沱白とロギとの過去が知れるという魅惑にまんまと乗せられたのだ。
「幸いなのがお主らを襲う“よくないもの”が居らんかったことじゃな。本当に運が良いのう……」
クロは一度足を止め、僕達へと振り向くととある方向を指差した。それは細い路地へと続いている。
「ここをまっすぐ歩けば出られる。ここからはお主らが先に歩くのじゃ」
「クロは?」
「わしはその後ろを追う。本来、それがわしの役目じゃからな」
本来“送り狼”は帰り道を歩く人の後ろを見守る存在だ。だからこの異界から僕達がいるための世界へ帰るのを見守るために僕達を先に歩かせるのだろう。
「わかった」
僕は頷いて細い路地へと向く。ビルとビルの間にある路地は日の明かりが届かないのか薄暗い。その先の、おそらく出口と呼ぶような場所は向こう側の光が差しているのか白くて、景色を見ることはできなかった。沱白もクロの話を聞いて僕と同じように路地の方を向いていた。
「ああ、そうじゃ」
クロが思い出したように言う。
「ちゃんとまっすぐ歩くのじゃ。振り向いてはいかんぞ」
「それがここを出る条件?」
「それもあるが……振り向いたら最後、もう元の場所には戻れない」
振り向いた時に何が起こるのかはわからないけれど、振り向いたら最後、元の世界に帰ることができず、この“異界”に取り残される。ということだろうか。
一先ず、僕は彼女より早く路地を歩く。安全確認も兼ねてだ。クロがここを歩けば帰れるというのだから問題ないのだろうけれど、念のため。
沱白もそれを察してくれているのか何も言わずに僕の後をついてきてくれた。
「……ねえ、真宮君」
細く薄暗い路地を歩く中、沱白は僕に話しかけてくる。
「なんですか?」
「君は私を怒らないのかい?」
「怒る?」
「君は少なくとも私を責めることはできるよ。原因はわからないにしろ、君をこの“異界”に迷わせて、出るために行動しないといけないはずなのに、ここに留まろうと私は言ったんだから」
「……」
僕は思わず後ろにいる沱白へと振り向きそうになったけれど、どうにか踏み止まって、前を向いたまま口を開く。
「僕も、最初は沱白さんに怒りはあったと思います。でも、結局は僕がちゃんと断らなかったし、何より……僕が知らないことを知ることができるかもしれなかったから。言い方が合ってるかはわからないですけど、その魅力に僕が負けてこうなった。だから僕も悪いんです」
正直に言ってしまうと、沱白に対しての怒りの感情はたいして湧いていなかった。どちらかと言えば、困惑だとか、何が目的だったのかという疑問だとかそういう感情や思考が複雑に入り乱れていた。それを言葉でどう言ったらいいのかわからなかった。だから『怒り』と言った。
そして、その怒りも大して無い。
クロが言ったように沱白の口車に乗せられたという自覚はある。だけれどそれの魅力というのは確かにあったのだ。
一年と少し、一緒に暮らしてもほとんど知ることができなかった
だから、沱白だけが悪いわけではない。それを許した僕だって悪いのだ。
「……『僕も悪い』ねえ」
僕の答えを聞いた沱白は僕が言った言葉の一部を繰り返す。
「獅琉君に似てる……いや、似てきたのかな」
まるで懐かしむような声を後ろに聞いて、僕たちは路地を出た。
薄暗い路地を歩いていたからかほんの少し眩しいと思った。
だけれどそこはもう夜で、随分と遅い時間なのか人通りもほとんどなく街灯が周囲を照らしていた。
「……戻ってこれた?」
「みたいだね」
同じように路地から出てきた沱白も周囲を見渡しながら僕の言葉に反応する。スマートフォンの画面を見てみると電波状況は元に戻っていた。時間も随分と経過していたようで、既に深夜の0時を過ぎていた。唯一の救いはそれから電話やメッセージの通知が山の様に来ていることに僕は驚いた。
「うむ!問題なく戻ってこれたぞ!」
クロがスマートフォンの画面を見て呆然としていた僕の肩によじ登って、やれやれと言いたげに座る。
「まったく、こんなことはもう勘弁してほしいものじゃな」
「……ごめんね。クロ」
「ありがとうございます。お犬様」
沱白もクロに対して礼を言う。それに気を良くしたのかクロは「うむ!」と答えていた。
「戻って来たか」
呆れたような声が聞こえて、僕は振り向く。僕達が通ったはずの細い路地からロギが出てきたのだ。
「ロギ?……あれ?さっきはいなかった」
「そりゃそうだ。“異界”の道を通っていたんだ。すれ違うわけないだろ」
煙が昇る煙草を咥えながら僕達に近づいて、視線だけを沱白に向けた。
「ずいぶんと久しぶりな顔を見た」
「冷たいのも相変わらずね。獅琉君」
友人かはともかく、知り合いというのは本当だったらしい。嬉しそうな表情を浮かべる沱白に対して、獅琉の顔は随分と冷めている。
「今更、何で戻ってきた」
「そんな言い方しないでよ。私だって何もなく戻ってきたわけじゃないんだから」
話が読めない。下手に口を挟むこともできない空気に僕はどうしたらいいかわからず、二人を交互に見ていた。
「……今度ちゃんと話しましょう?真宮君も疲れているでしょうし」
そんな僕に察してくれたのか、沱白は言う。それを聞いたロギも僕を一瞥してからため息を吐いた。
「帰るぞ」
「う、うん」
沱白に背を向けて歩き出したロギを追いかけようと、僕は足を動かしかけて一度止めた。
「あ、あの沱白さん」
「ん?」
「いつか……ロギのことちゃんと教えてください」
沱白の話を聞いていたが結局、クロの介入で僕のことを知っていたことや、過去のことをちゃんと最後まで聞くことができなかったのだ。だから次の機会を得る必要があった。
多分沱白もそのことを気にしていたのかもしれない。僕の言葉に彼女は頷き、「私が教えられる範囲であればね」と了承してくれた。
彼女に軽く頭を下げて、それからロギを追いかける。大して距離も離れていないから走る必要は本当は無いのかもしれないけれど、走って追いかけた。
「あ、そうそう」
ロギに追いついた時に後ろで彼女の声が聞こえて、僕は振り返る。そんな僕に気づいて手を振る沱白は言葉を続ける。
「君原ちゃんによろしくね」
恐らくそれはロギに向けた言葉だろう。ロギはそれを聞いているのかいないのか、何も答えずに歩く。
「君原さんって?」
僕はどうしても気になってロギに聞く。ロギは咥えていた煙草を指に挟むようにして持つと口を開いた。
「君原は君原だよ。お前も知ってるだろ?」
「……もしかして、あの君原さん?龍御寺さんの秘書の」
「その君原」
随分と狭い世界だ。とどうしてかそんなことが頭の中を過る。
僕はもう一度、後ろを振り向いた。
沱白も既に僕達に背を向けて歩いているのが見えた。
だけれど……。
「え?」
真っ白な少女がふわふわと漂う様に、沱白の隣に浮いていた。
ケルベロス-特殊事件捜査班- 榎本英太 @enomotoeita0421
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