ロンドン橋 

 亮は、リビングのカーペットにできた陽だまりの中で片膝を立てて座り、長いこと紙の資料に目を落としている。じっとして動かないのをいいことに私は、陰影のはっきりした彼の横顔をスケッチしている。さっき、ちらとこちらを見たが、なにも言わず視線を資料に戻した。

 事件が解決したというのにもかかわらず、相変わらずのあの調子。容疑者が逮捕されたあの日、帰ってきた亮に、「犯人、捕まったみたいだね。お疲れ様」と声をかけたら、なんでかスルーされた。良い知らせを期待していた私としては、暖簾に腕を押した格好となり、危うくつんのめりそうになった。

 この状態がいつまで続くのか、いよいよ見当が付かない。ここまで長引くとは正直思わなかったけれど、この生活にもさすがに慣れた……というより半ば諦めて、順応している私がいた。


 夕方のニュース番組の中で、それは報じられた。 

 亮の勤めている警察署を背にした記者が、連続殺人事件の容疑者の逮捕を伝えた。途中、記者会見の模様が差し挟まれた。

 青い制服を着た署長と黒いスーツの捜査一課長が事件の概要を、また逮捕までの経緯を説明した。今後は、犯行に至った動機や事件の全容を明らかにするべく、被疑者への取り調べを中心とした捜査を進めていくとの方針を示した。記者からの質問に対して、事件の詳細については、捜査に支障をきたす恐れがあるためコメントできないとし、それ以前の事件に質問が及ぶと、個別の事件に関しては、現在事実関係を確認中だと言い、会見のシーンは終了した。

 

 彫像と化していた亮が、おもむろに硬直を解いた。その場で立ち上がり、資料を横向きに持ち替えたかと思うと、突如としてそれを引き裂いた。一枚が二枚に、さらに重ねて二枚が四枚に四枚が、八枚が……と、紙片を倍々に増やしていく。千々になって、千切るのが難しくなってきたところで、あえなくゴミ箱行きとなった。 

「急にどうしたの?」

「いや、別に」

「別にって、仕事に必要なものなんじゃないの?」ゴミ箱から一片、摘み上げる。

「かもしれないが、今は感情を優先した」

「なによそれ」

「入り用になったらまたプリントするから構わない、そう言ったんだ」

「さようでござんすか」私は紙切れを手放す。ヒラヒラと裏表、再度ゴミとなる。

「ちょっと出てくる」

「兄さん来るの今日だけど?」

「晩ご飯までには帰ってくるよ」そう言い残して、家を出ていった。


 次から次へと押し寄せてくるインターネットニュースを、風見鶏よろしく、風の向くまま気の向くままにネットサーフィンしていたら、インターホンが鳴った。確認しにいくと、モニターに兄の顔が映し出されていた。

「いらっしゃい」

「お邪魔します。と、はいこれ」

 おそらく良さげな白ワインを受け取る。ビールは苦く、赤ワインは渋い。白ワインなら飲めるという私の味覚に合わせてくれたみたい。「わざわざ、ありがとう」

「いいよ、どうせ貰い物だから」

「なら、持ってきてくれたことに対して、ありがとう」 

「うん。あれ、亮は?」

「少し前に出かけた」

「そうか、いないのならしょうがない」

「私では、物足りないですか?」

「いやいや、そういう意味じゃなくてだな」顔の近くを飛ぶハエを払うかのように、手を振る。「その……なんだ? 亮とはうまくやっているのか?」

「どうなんだろ? いえね、事件が解決したというのに、ロクに口も利いてくれないものだからさ」

「そうか……そうするよりほかない、か」

「なにか知っていたりする?」

「もし知っていたとしても、俺の口から言えることは、なんにもない」両人差し指で作ったバッテンを口元に当てて、ミッフィーの口をする。だからといって、ミッフィーのようにかわいらしくはない。「ところで、この前大学に来たのって、結局なんの用だったんだ?」

 と、話を逸らす。とはいえ、仕事柄警察に近しい兄から、亮の近況を知れるとは、私としても思っていない。

「あれは単に、近くまで行ったから、ついでに寄ってみただけだよ」

「それだけか? なにかあったんじゃないのか?」

「ありがと。でもなんでもないよ。お茶、淹れてくるね」

 ティーポットにアールグレイの茶葉を入れ、お湯を注ぐ。

 いざ面と向かうと、なにを話したらよいものか、適当な話題が見つからない。紅茶を蒸らしている間も、最近あったこととか見聞きしたことなどに考えを巡らすが、これというのは出てこない。それは兄としても同じようで、にらめっこの状態のまま時間だけが過ぎていく。

 耐え切れなくなり先に笑みをこぼしたのは、兄の方だった。「なんだよ。なにかないのか?」 

「そっちは?」

「俺の方は、うん。他愛のない話って、どこに入口があるんだろうね」

「それじゃあさ……夢」

「夢?」

 果たして夢が、久しぶりにする兄妹の会話としてふさわしい話題なのかどうか、私は知らない。ともかく、口をついて出たのがそれだった。「あのまるでとりとめのないあれというのは、一体なんなんでしょう?」

「夢というと、寝てる間に見る方の」

「そう。叶う叶わないではない方の」

「怖い夢でも見るわけ?」

「そういうわけでもないんだけどさ」

 兄は、じっと黙って私を見ている。

「なに? 人の顔ジロジロ見て」

 ふふっ、と笑い出した。

「なになに? 怖いんだけど」

「悪い悪い。いや、昔澪が小さい頃、怖い夢見たとか言って、枕を持って俺の部屋に入ってきたことがあったなと思って」

「なにそれ、全然覚えていない。そんなことあった?」

「あったあった。そうそうそれで、澪にベッドを取られちゃったんで、仕方なく俺が澪のベッドで寝たんだった」

「結局それって、ベッド入れ替えただけのことじゃん」

 私は、呆れて笑うしかなかった。

「それはそれとして、その時の夢の内容まで忘れちゃってる?」

「まったく」

「そっか。怖い夢ならなおさら、覚えていたとしてもおかしくないんだけどな。まぁ、いいや」

「覚えていないと、おかしいってこと?」

「別におかしかないよ。おかしくはないけれど……そこら辺も含めて、一から説明した方がいくらか理解し易いと思う」

「内容にしてもそうだけど、どうして夢を見るのかっていうメカニズム? が、そもそもの疑問としてある」

「こちらとしても専門外だから、知識が多少あやふやなのには、目をつぶってくれ」

 そう言って、紅茶をすする。釣られて私もカップを口に持っていった。

「まずもって睡眠には二種類ある」

「レム睡眠とノンレム睡眠」

「そう。で、そのうちのレム睡眠の時に夢を見ていると言われている……言われているんだが、ノンレム睡眠の時にも見ているっていう説もあるから、あくまで意見の一つとして聞いてほしい」

「話半分に聞いておけばいい?」

「そうしてくれ。レム睡眠は、身体の状態としては眠っているんだけれど目は動いていて、ということは、脳も活動している。寝ている人のまぶたを開けてみると、目がぐるぐる動いている。チャンスがあったら、今度やってみたらいいよ」

 お茶菓子に出したチョコチップクッキーをくわえ、ボリボリ咀嚼し、嚥下する。「んで、えっとこの時、動いている脳がなにをしているのかというと」

「夢を見ている」

「わけなんだけど、本来の目的はというと、脳みそに溜まった情報を整理することにある。でもって夢は、その際に生じるノイズ的な現象ではなかろうかと」

「じゃあ、夢が見せるイメージは、そこまで重要じゃない?」

「どうなんだろうね。精神分析は、現実におけるなにかしらのメタファーだとして意味を見出そうとしているが、正直なところ、どうとでも取れるしな。だから、夢自体に意味があるのかどうかは、なんとも言えない」

「どう解釈するかは、見る人の自由だと」

「そうねぇ。たとえば夢で見た、溶けた時計だとか、背中の燃えたキリンを絵にしたりするっていうのは、あれも夢を理解するアプローチの一つでしょうね」

「ダリ?」

「ダリ。夢は、現実とは違うルール……があるのかどうか知らないが、に即しているから超現実的なのは当然で、ということは本来、科学とは相容れないんだよね」

「どこか歯切れが悪い気がするのは、そのせい?」

「まぁな。寝ている間に見るおよそ脈絡を欠いた、場面も人物も時系列もでたらめなイメージというのをどう説明したらよいものか、科学はまだその方法を見つけられずにいる」

「ふ~ん、そっか。じゃあさ、見たり見なかったり、見た覚えはあるんだけれど、内容はあんまり覚えていない。そういうのも説明できない?」

「それについては、覚えているいないに関係なく夢は見ているらしい。ただ引っ張り出せないというだけで」

「んん?」

「感覚とか感情が伴っていないために、思い出すとっかかりがない。だからすぐ忘れてしまう。反対に、汗びっしょりかいて飛び起きる夢なんかは、覚えていることが多い。つまりここで、さっきの話に繋がってくるわけだな。澪が枕を持ってきたというあれが」

「もう、わかったわかった。感情がフックになるって言いたいんでしょ? 家の鍵みたいにいつもの場所に、思い出を引っ掛けておけるような」

「そういうこと。夢に限らず感情に訴える出来事というのは、大概のちのちまで覚えているものだ。夢の国に行った時とか、彼女に振られた時の記憶とか、さ」

 兄の流し目と目が合う。

 もしかしたら兄はまだ、例のタバコの彼女のことを根に持っているのかもしれない。気まずくなるだけだから、そちらへ話が及ばないよう引き返す。

「言われてみれば、心当たりあるかもしれない。要はインパクトのある夢でしょ?」

「ちなみにどんなの?」

「撃ち殺されちゃう夢。長い筒をした銃で遠くから、こういうやつで」見えない銃を両手で構えるポーズを取ったら、スナイパーライフル、と指摘された。

「あれはなんて言うんだろう。望遠鏡みたいな」

「スコープ?」

「たぶんそれ。を覗いているのが私で、狙っているターゲットはというと、それも私」

「それもう、ほとんど自殺。で、自分に向かって引き金を引いちゃうんだ」

「でね、これがまた見事におでこを撃ち抜いて、というより撃ち抜かれたのか。ま、どっちにしろ同じことなんですけど」

「それで、びっくりして起き上がった、と」

「ううん。撃たれたあとは、夢の中でまた眠りに落ちるような、真っ暗な穴の中にどこまでも落ちていくような、そんな感じだった」

「もう、なんと返したらいいのやら」

「という夢を見た」

「さっき、寝ている時に情報を整理していると言ったが、じゃあそれがどういう情報なのかというと、起きている間に見聞きした記憶なわけで……その撃たれる光景というのも、前に映画かなにかで見たんでしょう」

「さもありなん」

「整理しなきゃならないほど雑多で大量の情報に晒されている生き物は、寝るという行為でもって外界をシャットアウトして、情報から身を守っている。あんまり働いていると、脳も情報を処理するのに疲れちゃって、日常生活もままならなくなる」

「犬とか猫も夢を見るって聞いたことある」

「寝る生き物だったらだいたい見るよ。でも、イルカは見ないらしい」

「なんで?」

「簡単に言うと、イルカは脳みそを二つ持っているから」

「一匹につき?」

「そう。脳を二つずつ。右脳と左脳が分離しているために、互いに独立している」

「ほかの生き物はくっついている?」

「脳梁っていう連絡橋が間を繋いでいる。もちろん人間も」

「脳が分離していることが、夢を見ないことに繋がってくる?」

「まさに。そもそもなんで二つに分かれているのかというと、イルカの暮らしている環境を考えればわかってくる」

「海の中?」

「水中で暮らしているとはいえ肺呼吸する動物なんで、ちょくちょく海面から顔を出して息継ぎしないことには、溺死する。そういうわけで、常にどちらかの脳は起きている」

「溺れるイルカなんて見たくないかも」

「それで本題だが、どうも夢というのは、両方の脳を使って見るものらしい」

「ああだから、分離が問題になってくるんだ」

「脳梁を介して情報が行き来することで生じているらしく……たとえて言うなら、映像を映し出すスクリーンがあって、それを見る観客がいて、両者が揃ってはじめて、夢は上映される」

「映像の作り手がいて、受け手がいる……あれは寺山修司だったっけかな? 演劇の半分は観客が作るって言ってた」

「それというのは……演者と観客は共犯関係にあるということか。それで言うと、イルカは脳が分離しているから、関係性そのものが作れないんだね。物理的に」

「イルカが現実主義者だということはわかった」

「地に足の着いた生活を送ってらっしゃるということで」

「それ、ツッコんだ方がいい?」

「っと、だいたいこんなもんですか。俺の知っている夢に関する知識は」

「専門外にしては、十分過ぎるくらいだと思うけども」

「これ以上喋るとボロが出る」

 それから話題はとりとめなく移ろい、すっかり落としどころを失った他愛のない雑談は、突如として終わりを迎えることとなる。玄関の鍵が開く音がした。亮がビールの六缶パックを手に下げて帰ってきた。


 亮を交えた三人で、ボトルを開ける。取り立てて祝うことなどなにもないけれど、とりあえず、グラスをぶつけて乾杯した。

 亮に話し相手を代わってもらって、私は晩ごはんの支度をする。といっても兄が来る前までにすでに、下ごしらえは済ませておいた。ので、メインに取りかかるべく鍋に水を注ぎ、火にかける。

 まな板と包丁の間に一片のニンニクを挟んで、体重を掛けて押し潰す。皮を剥いてみじん切りにして、オリーブオイルを敷いたフライパンで炒める。火が通って、香ってきたところに鷹の爪とベーコンとシーフードミックスを加える。沸騰したお湯に塩を投下して、パスタを茹でる。

 その間に、サニーレタスを水洗いしてちぎって、前もってオリーブオイルやレモンで作った液に漬けておいたスモークサーモンにスライスした玉ねぎ、つまりはマリネ。を、この上に載っける。香り付けのローリエの葉は取り除き、胡椒を挽いて味を整える。

 頃合いをみて、小房に切り分けたブロッコリーをパスタの鍋にぶっ込む。心なしかブロッコリーの緑色が映えてきたら、パスタを一本吸って硬さをみる。ざるに取って、フライパンに移す。バターを一欠片落として、振ってよく絡ませて、味見する。なかなかの出来に、特に私から言うことはない。

 炒めたじゃがいもと玉ねぎとを、ミキサーでしっちゃかめっちゃかにしたスープを冷蔵庫から出して器によそう。仕上げに、パセリを散らす。

 お喋りに夢中になって二人が手伝わないので、私は、女中か給仕かのようにキッチンとダイニングの間を行ったり来たりする。

「ここに一本の横線があるとします。十字になるよう縦線を引きます」

 と、兄が宙に二本の棒線を描く。

「一般的な座標がそれですよね。平面の」

 料理に手をつけることはなく、ワイングラスに口をつける。ボトルは少し見ないうちに、半分以下にまで減っていた。なかなか食べはじめそうにない二人のやりとりに耳を傾けながら、私はスープを掬う。

「そこに奥行きを作れば空間になるし、てな具合に軸を足すごとに、次元が増えていく。ここまではいいか? まず最初に点が打たれる。この点というのがゼロ次元。次に線が引かれて一次元。さらに面に広がって二次元。ついでに空間が立ち上がって三次元」

 二人は中学校で習うような数学の話をしている。なにがどうなったらこの話題に行き着くのか、話の流れがまるで見えてこない。

「この座標の上をxとかy、つまり変数が動く。変数は互いに相関関係にあって、xの値が決まれば自ずとyの値も決まってくる。数同士が関係し合うことから関数という」

 私は自分の分だけサラダを取り分けて、もしゃもしゃ食べる。

「それでゼロというのは」

「ば、だな」

「ば、と言いますと」

「場所の場。ゼロはあらかじめ場所を用意している。なんにもない状態のくせして、全てはそこからはじまる……というより、場がないとなにもはじまらない。関係性うんぬんより前に、もうすでにゼロがある」

「なんだか難しそうな話をしてるね」

「ん? ああ。訊かれたことが訊かれたことだからしょうがない」

 亮がなにを訊いたのか、多少なりとも興味あるが、教えてくれずに話は進む。

「ゼロの起源はインドにあって、もとを辿るとサンスクリット語で、シューニャ、という言葉に行き当たるそうだ。意味合いとしては空っぽ、なんにもない、無」

「ゼロと聞いて思い当たるのは、そんなところですかね」

「それからあまり馴染みのない、膨らむっていうのがある」

「ボールを膨らませるとか、そういう」

「そうそう。空気を入れたら、ぺちゃんこのボールもパンパンに膨らむ。とはいえ、中身は空っぽのまま。見てくれが変わるくらいで、本質的にはなにも変わらない。というような意味が最初から、ゼロには含まれていたらしい」

 話が一段落したみたいでようやく、フォークを手にして食べはじめた。その向かいに座る亮はというと、腕組みをして、うんうん唸っている。しばらくして、

「それでは、当のゼロはどこから出てきたんでしょうか?」

「それはまぁ、特異点とか言うよな。昔々、なにもないところに無があった。いや、なにもないところには、なにもないすらもなかった。それなのに突然、インフレーション、急膨張し出した」

「ビッグバンですね」

「宇宙が大爆発を起こして、膨らんで、冷えて、長〜い時間の間になんやかんやあって、そして今に至る。めでたしめでたし」

「そしたら特異点はどこから出てきたんでしょう?」

「どこからとかそういうんじゃなくて、宇宙を観測した結果、膨らんでいることがわかった。であるなら、遡ると特異点に行き着くであろうと」

「では、なにきっかけで膨らむんです?」

「あのなぁ、なにごとにもはじめの一歩はあるものだが、じゃあ、なにをして一歩目なのかというと、いささか微妙なんだよ」

「そういうもんですか」

「ビッグバン以後が宇宙の歴史なのであって、ビッグバン以前は、知る由もない」フォークにスパゲッティを巻きつける。「知り得ないことについては、沈黙しなければならない」

「……ですか」

 どうやら納得しかねるらしい。亮の尖らせた唇を見ればわかる。

 結局最後まで、なにが本題だったのかよくわからなかった。しかし、興味を持てそうな内容でもなかったので、どうでもよかった。

「ねぇ、澪はどう思う」

 今の今まで、蚊帳の外にいた私に水を向けてきた。

「えっと、なにが?」

「今の会話、聞いていたでしょ? なんにもないゼロの状態から、なにがどうなって一が生じてくるのかという」

 兄は黙々と食べている。

「それで私に、なにを思えと」

「ここに真っ白な紙があるとして、やおら筆を持って描きはじめて、やがてなにがしかのものが形を取って現れてくる。ゼロから一を作るところの絵描きとしてはその辺、どう考えているのかなって」

「と、言われても……描くことそれ自体には、それほどはっきりした考えはなかったりする。なにを描くかだから」

「にしても、ベースとなる考えがあって、描こうとするモチーフも立ち上がってくるんじゃないの?」

「思いついちゃったからには、形にしないと落ち着かないってのはあるけど」

「けど?」

「そうなったからそうなったとしか」

「その思いつきとやらが、どこから来るのかが知りたい」

「そうねぇ……そういうことなら、ふいに向こうからやって来るようなこともあれば、逆に、こっちから見つけに行くことだってあるし。っていう感じかな」

 はぁ、と溜息をつき、なんか違うんだよなぁ。と、小さくぼやく。

 亮の言動に私は、イラッときたが、三人で食事ができるせっかくの機会ということもあって、感情をぐっと抑える。「じゃあわかったそれなら、カンディンスキーって芸術家がいるんだけど、その人が」   

「ちょっと待って」

「なに?」

「なんでここで外国人の名前が出てくるんだ? 澪に訊いているというのに」

「それは……」

「人からの受け売りなんて聞いていないし、どうでもいいんだが」

「いや、だって……」人の気も知らないで。

「だって、じゃなくてさ」

 私の目をじっと見据えてくる亮の目は、すでに若干赤らんでいる。たまらず私は目を逸らす。喉の奥が、きゅっと締まっていく感覚に襲われる。

「もういいだろ」一言、兄がたしなめる。

 好き勝手言われて、面白くなくなった私は席を立つ。食べかけのスパゲッティの皿をラップに包んで、冷蔵庫のドアを閉める。二人の視線を背中に感じつつも、無視して寝室のドアを閉めた。

 明かりの消えている暗い室内、レイアウト感覚を頼りにベッドに飛び込む。マットのスプリングに無事受け止められた。

 亮のあの態度もどうかと思うけど、それを軽く受け流すこともできずに席を立ち、毛布を被ってふて寝するような、子ども染みた自分の振る舞いにも嫌気が差す。


 ダイニングでは、そこはかとない罪悪感を覚えた天野が、今更ながら食べはじめていた。

「澪に対してちょっと、当たりが強いんじゃないか?」

「すいません」

「俺に謝ってどうする」

「…………」

「とにかく、あとでちゃんと謝っとけよ」

「はい。……あのところで、蜂谷さんは知ってました?」

「なにを?」ビンの首を握って傾ける。雀の涙が数滴落ちて、中身が空になった。

「カンディンスキー」

「ああ。いや、カンディンスキーは知っているが、あいつが入れ込んでいるのは知らなかった」

「そうですか」

「あいつから聞いたが、ロクに話もしていないそうだな」

「彼女は一般人ですから」天野は立ち上がって、キッチンに向かう。

「話せないこともあるのは、わからんでもないが……しかしそれも、もとはといえば事件のせいか。それで、あれからどうなった?」

 冷蔵庫からビールを取り出す。「模倣だったと供述したそうです」

「そうか、まぁそうなるわな。だって創口からして、凶器が違うのは明らかだったわけだし」

「同様の事件であれば、あわよくば罪を連続殺人の犯人におっ被せられるんじゃないか。というような打算が働いたのだと」

 天野が注いだビールを蜂谷は口にする。「だが目論見は外れ、それどころか逆に、やってもいない罪まで背負うところだった?」

「ええまぁ、そんなところです」天野は苦笑するしかなかった。「そろそろ、一人分の殺しで起訴されると思います」

「そっか。じゃあさ、真犯人の方は? あれだけのことをしておきながら、捕まる様子がなさそうだが……目星くらいは付いているんだろ?」

 天野は首を振る。「なんかもう、めげそうですよ。このまま解決しないんじゃないかっていう考えが、頭の片隅にずっとある」頬杖をついて、ビールの気泡の消滅を見つめる。

「素人考えに過ぎないが、事件の性質を見誤っているのかもしれない」

「なんですかね」

「思うに、連続しているってことは手口のほかにも、なにか別の規則性があるんじゃないか?」

「かもしれないですけど、なにか考えでもあるんですか?」

「うん。たとえば事件の発生場所を線で結ぶと、メッセージが浮かび上がってくるとか、そういったシーンが映画なんかであるじゃない?」

「ありがちですね。ミステリーとかサスペンスに」

「作為的なのは実際の事件だってそうだろ」

 それはそうだ。天野は、小さくつぶやく。

「今までの現場は覚えてるか?」

「ちょっと待ってて下さい」

 蜂谷は天野が席を外している間に、テーブルの上のものを片付ける。テーブルを拭いていると、紙の地図を持って戻ってきた。さっきまで澪が座っていた椅子に座る。

 亡くなった人はお星様になると言い、またホシとは警察の隠語で犯人を指すことから、天野は、点在する事件現場の一つ一つに五芒星をマーキングしていく。二人は、星々を結んで披露し合う。酔いに任せて、好き勝手に新たな星座を創作しては、思い思いの名前を付けていく。

 ひとしきり星々を弄んだ末に気がついた。それはほとんど二人同時だった。 

 星座というのは、見かけの配置から古代人が名付けたもので、虚心に眺めてみると相当無理のある形をしている。ヤギだのヒツジだのと言われても、それと知らなければ見つけられない。結び方を知らなければ、夜空にオリオンはなぞれない。そこには恣意性があり、事件現場自体に意味があろうとなかろうと、それこそ事件を起こした当人にしかわからない。

 天野は見切りをつけると、地図を小さく折り畳んだ。

 蜂谷は立ち上がり、「ちょっとトイレ借して」

「突き当たりを右です」

 アルミサッシに手をかける。ベランダの室外機に腰掛けた天野は、一匹のホタルになる。煙を吸い込むと、煙草の先がチリチリと赤く灯った。


「以前は吸ってなかったよな」

「吉見さんがおいしそうに吸っているのを見て、それで」

「ふ~ん、そう。吉見?」

「一緒に捜査をしてる、前に一度大学で会ったかと」

「大学で? ……あーはいはい。そういえばいたっけ、そんな人が。今もまだ一緒に捜査してんの?」

「ええまぁ。事件が解決していないので」

「あれ俺、余計なこと言った?」

「そんなことは……ああ、そうだ。その吉見さんがね、前に言っていたことなんですが、コミュニケーションの元々の意味を知っていたりします?」

「いや、全然。ただ綴りで言えば、community、communismと同じ頭をしている。companyもそうか」

「なんでもラテン語由来の言葉で、comの部分が、共通の、とか、一緒に、といった意味なんだそうで。で、その下にくっついているmunicationが、通行を可能にする、舗装する。というような意味合いなんですって」 

「へぇ、あぁそう。しかしあれだな、カタカナって単に音を模しているだけだから、もとの言葉のニュアンスは抜け落ちているのな。それで?」

「それで吉見さんが言うには、捜査とはつまり、コミュニケーションを図れるよう、刑事と犯人との間に橋を架けることなんだそうです」

「それはそうかもしれないが、犯人に接近する路は悉く絶たれていて、コミュニケーション不全を起こしているのが現状なんだろ?」

「おっしゃる通り、ロンドン橋みたいなもんですよ」

「なぜにロンドン橋?」

 天野は童謡の一節を口遊む。

 それを聴いた蜂谷の脳裏に、昔読んだ絵本の内容が蘇った。

 マザーグースにおけるロンドン橋は、現実世界のロンドン橋と同様、幾度となく崩落の憂き目に遭う。落ちる度に手を替え品を替え再建するが、いずれも弱点があり、いずれにせよ落ちることに変わりはない。

「なるほどねぇ」

「ご存知でしたか」

「昔、澪に教えた覚えがある」  

「……僕は澪から教わった」

 そう言ったきり、天野は口をつぐんだ。

 蜂谷は、グラスに残ったビールを喉に流し込む。

「おひらきにしますか」


 ふて寝しているうちに、本当に寝入ってしまったらしい。

 目を開けると、すぐそばに亮の顔があった。腕を枕代わりにして、寝息を立てている。いたずら心の芽生えた私は、親指でそっとまぶたを開けてみる。黒目があらぬ方向を向いていた。これでは、どんな夢を見ているのかわからない。いつの間にか抱きしめていた枕を亮に押し付けて、ベッドから這い出る。

 兄はリビングのソファで、ブランケットにくるまって寝ていた。頭隠して足が出ている。キッチンを見ると、シンクが片付けられていた。二人ともわりかし几帳面なたちなので、食器の並びからでは、どっちが洗ったのかわからない。

 お風呂が沸くまでの間、ココアを飲むことにした。

 ミルクの入ったマグカップを電子レンジの中心に置く。電子音がうなる中、橙色のスポットライトの下、ターンテーブルの上のカップが時計回りに回転する。一見止まっているようにも見えるカップの周囲を、把手が見え隠れする。

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