コインのレトリック
戻ってみると、そこにはいつもと様子の違った署があった。プレスの腕章を付けた記者と目が合った。
屋内に入ると、署員が方々からの対応に追われていて、慌ただしく動いている。というような状況で一人、所在なさげに突っ立っている皆川を見つけた。
「あ、おかえりなさい」
「ちょっと来い」皆川の腕を掴んで、人気のない場所を探す。
ついさっきまで一緒だった天野と、いつの間にかはぐれている。しかし、天野のことにまで気を回している余裕が、今の吉見にはない。証拠保管庫の文字が目に付く。室内に誰もいないことを確認し、ドアを閉める。
「一体なにがどうなってる」
「それがどうも、警察とメディアの間で行き違いがあったみたいでして」
「なんでまた」
「と、私に言われましても……」さっきまで吉見が掴んでいた箇所を、まるで子猫でもいたわるかのように、反対の手で撫で擦っている。
なにか得体の知れない疲労感に襲われた吉見は、キャスター付きの椅子を引き寄せて、ぞんざいに座った。
皆川が、なにも言わずに爪を見ているので、負けじと吉見も沈黙を保つ。なにはともあれ一旦、気持ちを落ち着かせようと、意識して呼吸をする。深く吸って吐いてを繰り返しているうちに吉見の鼻は、微かにする煙草の匂いを嗅ぎつけた。壁に染み付いたタールの匂いに誘われて、思わず煙草をくわえようとしたところ、皆川に奪い取られた。反対の手に持っていた箱も一緒に没収される。
「全面禁煙です」
「別にいいだろ」
「これは預かっておきます」
皆川は、よりによって内ポケットに箱をしまった。無理に取り返そうものなら、セクハラだの痴漢だのと叫ばれることは必至。そしてここは警察署内。現役警察官の巣窟で、現行犯逮捕はまず免れられない。吉見は煙草を諦めた。
手持ち無沙汰とストレスから、吉見は意味もなく、机に置いてあったボールペンを回したり、芯の出し入れを繰り返す。しばらくそうしていたら、ふいに皆川がポケットからケータイを取り出した。どうやら太ももが着信のバイブレーションを感じ取ったらしい。電話に応じながら、横目で吉見を窺う。
「誤報……ですか」
「端的に言えば、そういうことになる」
「だとしても、いつどこでそうなったんですか」
「それは、俺に訊かれても……」上原は、フクロウみたいにどこまでも首を捻る。「原因はどうであれ、結果はこの通り。町の電気屋がニュースを流していてくれたおかげで、お前は署に戻ってこられた」
「それがなにか?」
「悪かったな、事後報告になって。連絡している暇がなかったんだ」
「それは別に、よくないですけど」
ちらと皆川の顔を見るが、さっきから目が合わない。
「果たしてどのタイミングで事実関係に齟齬が生じたのか、それは俺にもわからない。幹部連中は把握しているのかもしれないが、俺のところまで情報は下りてきていない。どうせ末端だしな」
さしあたり吉見が理解したのは、警察とメディア、及び視聴者との間には認識の乖離があるということ。警察組織に属している吉見にしても上原から事情を聞くまでは、一視聴者に過ぎなかった。
「今にして思えば、一連の事件だと受け取れなくもなかったかもしれないな。手掛かりが少ないことを理由に、メディアには、部分的な情報しか提供していなかったわけだし」
「そういえばこの前、先ほど捕まった被疑者が起こした事件が、連続事件の一つとしてカウントされているのをネット記事で見ましたよ」
上原と合流してはじめて、皆川が口を開いた。
「どういう伝え方をしたら、こうなるんだろうな」
「遺体には複数の刺し傷があった。強い殺意があった。みたいな表現でしたかと」
「そうか。ええと、あれはなんだっけ。こういうのをどこかで……」頭を回転させているつもりが、目玉まで一緒に回している。「コインのレトリックだ」
「なんです? それ」
「コインは円形であり、かつ、長方形でもある。円形なのは見ての通りだが、コインを立てて上から見ると長方形に見えるだろ? あのほら、自販機のコインの投入口は長方形をしている」
「同じコインでも見方によって形が違って見える?」
「わけだ。コインには二つの側面があることを知っているから、俺たちはあれが誤報であると見分けられる。しかし、世の中的にはそうではない。側面のあるなしにかかわらず、庶民はコインをコインとして認識している。殺人事件は連続殺人事件として。仕方ないよな。だってそう報じられているのだから、それを事実だとして受け取るしかない」
「つまりなんですか? 一つの事件に対して二つの事実が存在しているということになるんでしょうか」
「なってしまっているんだな、現に。一体に捉え方次第でどうとでも取れるのが事実というものだが、この事案が一つの具体例と言えそうだ」
警察、メディア間のディスコミュニケーションにより生じたと思われる今回の事態。表面上似通った別件の犯人が、あたかも連続殺人事件の犯人であるかのように世間に伝播している。今のところ、二つの事実が存在していることを知っているのは、警察のほかにもう一人、連続殺人事件の真犯人だけ。
「いや~俺も、最初に聞いた時は寝耳に水だった。情報の取り扱いに注意していたら、まさかこういう事態になるとは。皮肉なものだな」
「今どういう状況にあるのか、概ね理解しました」しばらく黙って、上原と皆川のやりとりを聞いていた吉見が口を開く。「で、いつになったらこの誤報は訂正されるんです?」
「訂正はしない」
「は?」
「報道が流れた結果、お茶の間には既成事実ができた。連続殺人事件の犯人が捕まったという事実がな。それを正したところで、いたずらに混乱を招くだけで、なんのメリットもない。そう判断したようだ」
「そんな嘘、バレるのも時間の問題なのでは?」
「だが警察は、その嘘に乗っかることにしたんだ」
「意味がわからないです」
「思いがけず生じたこの状況を逆手に取ることにした。これでどうだ?」
もしかして、と吉見は、頭に降って湧いたバカげた思いつきを口にする。「そうすることによって、真犯人が憤慨して自ら名乗り出てくるとでも?」
「とうに行き詰まりをみせているこの事件、そんな中でおそらく犯人も予期していなかったであろう展開を迎えた。それならいっそのこと、環境が変化した流れの中で犯人を泳がせてみよう。ってな考えだ」
魚影すら捕捉できていないというのに、なにが泳がせるなのか。釈然としない吉見だったが、言い返そうにも言い返せるだけの材料が手元にはない。これといった手掛かりがなく、目撃者もいなくて、先の見通しもついていない。という具合に、ないものばかりを数えている。
「言いたいことは……多々ありますが、とりあえず脇に置くとします。そうするとなると、会見はどうするんでしょう? 表に結構来てましたよ」
「会見はやる。やらないとプレスも帰ってくれないだろうし」
「どんな言い訳の用意があるんです?」
「詳しくは聞いていないが、上の人らには、なにか考えがあるんだろう」
時が経てばわかるのだという。
流れ出てしまった誤報に対して、嘘も方便的な措置を取ることで、事件は新たな局面に入る。とはいえ、犯人に直接働きかける手段ではないので、吉見ら捜査員の置かれている状況にたいした変化はない。犯人が行動を起こすのを待つだけという、およそもどかしい時間を過ごすことになるのは、目に見えている。
「あの……ところで、捕まった方の犯人は今どうしてます?」と皆川。
「んああ、取り調べの最中だ」
「そもそも、どういった経緯で逮捕に至ったんですか?」
上原は、俺も又聞きでしかないんだけどな、と前置きして、「どうやら、現場に現れたらしい」
「放火犯は野次馬の中にいるとか、よく言いますよね」
「事件発生前後に付近の防犯カメラに映っていた人物が、事件から何日かして、再び現場に現れたんだと」
「忘れものでもしたんでしょうか?」
吉見はふと、捕まった被疑者の名前を忘れていることに気がついた。テレビに出ていた顔と一緒に覚えたはずなのに、それが思い出せない。凡庸な名前だったという印象しかない。
「自分のしでかしたことの顛末を見届けたかったんだろうよ」
「それで捕まってしまったら、元も子もないと思いますが」
「テレビかなにかで自分が起こした事件の反響を知り、気になるし、ある程度時間も経ったし、ということで様子を見に来た。おそらく、そんなところだろう」
「ところが現場には、捜査員が待ち構えていた」
「うん。でまぁ、行動確認をして、逮捕するに足る証拠を見つけたんだと思う。が、それがなにかは俺も知らない。そっちの事件については、関知していないんでね。そこから先は、お前らも知っての通り」
ふいに上原は、天井を見上げた。吉見と皆川も釣られて上を見る。三人の視線の延長線上には、たしか取調室があった。そういえばそこに被疑者がいるのかどうか、吉見は知らない。今の今まで気にも留めていなかった。
腕時計を見て、「伝えなきゃいけないことは全部、伝えたかな。じゃあ、俺はそろそろ行かないといけないから」上原は、皆川を伴って部屋を出ていった。
ドアが閉まり、静まり返る。吉見は殺風景な部屋に独り、取り残された。
あまり人の出入りのあるところではないためか、スチール製の棚にはうっすらと埃が積もっている。番号の付いたダンボール箱が、所狭しと並べられていて、中には様々な事件の数々の証拠品が入っている。それだけ未解決の事件があるということを、ものが語っている。
後ろ髪を引かれつつも、山積した過去から吉見は目を背け、ドアノブに手を伸ばす。がしかし、手は空を掴んだ。銀色のノブがみるみる遠のいていく。
これはポルターガイスト現象でもなんでもなくて、反対側のノブを天野が引いていた、ただそれだけのこと。
「……間が悪かったですかね」
中途半端に差し出された吉見の手を見てのこの言葉。吉見は、素早く手を引っ込める。
「いや、別に。なんで俺がここにいると?」
「さっき廊下で、上原さんと皆川さんとすれ違ったので、それで」
「それはそうと、ここだろ?」
「こことは?」
「喫煙室だった保管庫」
「ああ、そうです」
「煙草持ってるか」
「ええ」
「一本くれないか」
「切らしたんですか」
「吸おうとしたら皆川に没収された。禁煙だからって」
差し出された箱から煙草を一本抜き取り、没収を免れたライターで火を点ける。深々と煙を吸い込み、細く長く吐き出した。「今までどこに行っていたんだ?」
「蜂谷さんと電話していました」
「蜂谷。どこかで聞いたことあるような」
「法医学の」
「ああ、それでか」
「警察から鑑定書と画像が送られてきて、確認を求められたんですって」
「ということは、今回の被害者に蜂谷先生は、ノータッチだったというわけか」
「ええ、検視の段階ですでに別件だと判明していたので、ほかのところに解剖の依頼をしたみたいですね」
「ああ、そう。それで?」
「それで、今回の事件の被害者と連続殺人事件の被害者とを比較検討してみたところ……」
「なんだって」
「違ったって」
「やっぱりそうか」
「遺体からでは関連性は認められない、とのことでした。それはもう、素人でもわかるくらいだそうで、とにかく創口の形が違うと」
これまでの犯行に使われた凶器は、全て同じ形状のものだと判明している。そして凶器が同じであることが、連続殺人事件の犯人が同一人物であることを示す唯一のアイデンティティ。
「なら、当然犯人も違うと」
「いうことになるでしょうね」
これで二つの事件は、完全に別物だということがはっきりした。しかし、誤報のために事件は一緒くたにされて、巷ではすでに解決したことになっている。
「しかし、逮捕されたなんとか氏、連続殺人の犯人ではないとはいえ、人一人殺した容疑はかかっているわけですし……なんとも言えないですね」
「それで警察は、その誤解を解いてやらないんだとさ」
「へぇ、となると……」天野は視線を窓の方に向ける。ブラインドカーテンの隙間から外の様子が窺える。「一般市民は実情を知らなくてもさして問題はない。ということなんですかね」
「さぁ、どうだか」くわえ煙草で応じる。
外から署の様子をレポートしていた報道陣が、続々と建物の中に入ってくる。その中に一人、流れに逆らって出て行く人がいる。吉見はそこに、一人歩きしはじめた事実の後ろ
姿を見た気がした。
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