アーモンド 

 もう一杯、頼もうかどうしようか。吉見は指先でグラスの中の氷を転がしながら、逡巡していた。

 黒いエイトボールが一つ、緑色をした羅紗の上に転がっている。キューに撞かれた白球が黄色い的球めがけて転がり、球同士が衝突し合い、クッションに弾んで、うち幾つかがポケットに落ちる。というような音は、今日は聞こえてこない。店内には吉見のほかに、一組のカップルがボックス席に座っている。楽しげな様子は伝わってくるが、会話の内容までは聞こえてこない。

 このバーは、署からも駅からも離れている。多少アクセスが悪くとも、顔見知りに出くわすよりはマシだと思っている。吉見は時々ここに、憂鬱な気分と漠然とした不安を紛らしに来ている。

 誤報騒ぎ、あれは一体なんだったのか。原因は今もわかっていない。なにがどうなってああなったのか、誰もわからないときている。少なくとも、木っ端一兵卒に過ぎない吉見のところまで情報は下りてきていない。

 某氏の起こした事件は、単品の殺人事件としてつつがなく処理された。がしかし、起訴され、被疑者から被告へと呼称を改める際に、連続殺人事件の犯人が未だに娑婆を泳いでいることが世間の知るところとなった。それに伴い、誤報の原因を追求、糾弾するメディアないしジャーナリズムもあったが、当の警察が知らぬ存ぜぬ我関せずで通したために、次第にトーンダウンしていき、騒ぎはうやむやのまま立ち消えていった。

 ある意味、公共の電波を介した私信とも言える誤報に対して、犯人がなんらかの反応を示すことを警察は期待していたが、梨の礫だった。相も変わらず飽きもせず被害者を増やして回っている犯人に、警察は為す術なく振り回されっぱなしで、対応は後手に回っている。事態は好転する兆しを一向に見せず、坂道をどこまでも転がり続けている。

 吉見は立ち上がるきっかけを失い、いつまでも氷を転がしている。唇は麻酔をかけられたみたいに痺れていて、だいぶ感覚が鈍っている。今ならたとえ噛まれたとしても、痛みなく血を流せそうな気がした。


 来客を告げる、ドアの片隅に仕掛けられたベルが鳴る。

 何気なく音のする方に視線を向けると、見知った顔と目が合った。その人物は、一直線にこちらへと向かってきて隣の止まり木に腰掛けた。

「え~と、あ……」しかし、名前が出てこない。

「蜂谷です。二度目まして、ですよね」

「そうでした」どうしてここが? と、訊ねるより前に気づく。共通の知人といえば一人しかいない。「天野ですか」

「どこに行ったら会えるか訊いたんです。そしたらここだと」

「会いに来た、私に?」

「ええ」

「なにか、ご用件でも?」

「まぁいいじゃないですか、堅苦しいのは。それよりせっかく来たことですし、一杯飲ませて下さいよ」

 蜂谷はカクテルを注文する。それははじめて耳にする名前で、たしかメニューにも載っていなかったような気もするが、バーテンダーは二つ返事で、背後の棚からボトルを選び取っていく。

「聞くところによると、色々と大変だったみたいですね」

「お騒がせしました」 

「いえいえ、私はなにも」

 シェイカーに少量ずつ注ぎ入れ、リズミカルに振って液体を混ぜ合わせる。逆三角形のグラスが差し出され、蜂谷の目の前で注がれたカクテルは、青かった。かき氷にかけるブルーハワイ。あの色をしている。「青いんですね」

「よかったら、飲んでみます?」

 咄嗟には、断るセリフが見つからなかったので、「じゃあ、一口だけ」

 グラスのプレートに指を添えて、吉見の方へと押しやる。

 グラスの細っこい脚を摘んで口をつけたそれは、色味に反してクセはないものの、思いのほかアルコール分が高かった。グラスを返して、吉見も同じものを頼む。

 会いに来たと言っていたわりに、特になにを話すでもなく、淡々と酒をすすっている。吉見の方から話題を提供するにしても、共通の話題といえば一つしかない。しかし、一般の人が近くにいる手前、事件を話題にはしづらい。たとえそれが一人二人であっても仕事の話は避ける。いつか身につけた職業倫理が吉見にそうさせる。

 言葉を選んだ末に、「あの、チェシャ猫ってわかります?」

「チェシャ猫ですか? どこかで聞いたことあるような、ないような……ああ、アリスのですか。不思議の国の」

 と、その時、どこからともなく、紫のツートンカラーの化け猫がカウンターの上に現れ出てきた。しかし、特になにをするでもなく、白い歯を見せてただ笑っている。

「そうです」

「一瞬どちらの猫ちゃんだか、ピンとこなかったですけれど。が、どうしました?」

「笑いはあるのに猫がいないという状態は、あり得るのでしょうか?」

 猫の身体が尻尾の先っぽからスーっと消えていき、ついには耳の先まで消えて、ニヤニヤ笑いだけがそこに浮かんでいる。

「あーなるほど、そういうあれですか」

 どうやら、伝わったようだ。チェシャ猫のメタファーが。

「難しいでしょうね」

「できませんか」

 蜂谷の顔が左右に揺らめく。

「表情というのは笑顔であれ泣き顔であれ、顔あってこその表情ですからね。なので、顔から切り離して表情だけを取り出そう——」

 蜂谷の口から出てくる言葉が意味をなさない。単なる音の連なりとして聞こえる。

「————」

 ぼんやりした視界の中で、ビーフィーターの兵隊が職務を放り出して踊り狂っているのを見たのが最後。目の前が真っ黒になった。


 会話の途中で、吉見がカウンターに突っ伏した。もしも~し。呼びかけてみるも、返事がない。ただの屍のようだ。頸動脈に指を当てて脈を取る。口元に手を当てて呼吸の有無を確認する。

「お連れさん、大丈夫ですか?」

 見兼ねたバーテンダーが声をかけてきた。

「ええ、診た限り救急車の必要はなさそうですね。あっ私、医者でして」

 そう蜂谷が付け加えると、わかりやすく安堵の表情を浮かべた。

「私が来るまでに、すでに結構飲まれていました?」

「もうよした方がいいと、お声がけする程度には」 

「そうでしたか。すいません、タクシー一台お願いしてもよろしいですか?」


 店の前で車が停まる音がした。支払いを済ませた蜂谷は、バーテンダーに手伝ってもらい、吉見をタクシーの後部座席に押し込んだ。

「ご心配とご迷惑をおかけしました」

「とんでもない。お大事になさって下さい」

「ああ、そうだ忘れていた」

「なにかお忘れものでしょうか?」

「ご馳走様でした」

 バーテンダーは、虚を突かれたのか真顔になった。しかし、すぐさま意味を解したようで、破顔した。

 吉見の隣に座り、運転手に行き先を告げる。


 オーライ、オーライ。ギアをリバースに入れた車を誘導する声が聞こえる。

 遠くの方から電車の走行音が聞こえる。

 壁の向こうから人の話し声が聞こえる。

 聞こえてくる環境音に違和感を覚える。がしかし、それらに気を回す余裕がないほどに頭が痛む。あろうことか、人の頭の中をコートにして、千の天使がバスケットボールをしている。痛みから逃れるように寝返りを打つ。枕に顔を埋めて、自分のものではない臭いを嗅ぎ取った。

 吉見は反射的に毛布を払いのけて、上半身を起こす。

「ここは……どこだ?」

 見回してみて、見知らぬ部屋だった。カーテンレールに上着が掛かっている。着ているワイシャツは上二つのボタンが外れ、はだけていた。なぜ自分がここにいるのか、覚めやらぬ頭を無理矢理に回す。

 ほどなくして断片的にではあるが、昨夜晒した醜態を思い出した。バーで酔い潰れて、便座に手を付いてひとしきり嘔吐したことを。そして、その無様なマーライオンを介抱してくれた人間がいたことも。吉見は思わず、両手で顔を覆う。

 溜め息を吐き切って腹を決める。一夜にして重くなった腰を持ち上げて、部屋のドアノブを握り締めた。

「あ、起きました?」蜂谷は、見ていたテレビを消す。「ブラックアウトしたのでね、どうしたものかと思って、とりあえずうちまで運んだ次第です」

「大変ご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、それで気分はどうです?」

「……頭が痛いです」

「それはしょうがないです」笑いながら台所に向かう。

 水の入ったコップを手渡される。吉見は、それを一気に飲み干した。「それから飲み代、立て替えてもらっちゃっていますよね?」

「お気になさらず。前に天野がごちそうになったみたいですし」

「ええと、あれは埋め合わせでして」

「なんの?」

 どう説明したらいいものか、言い淀む。

「まぁ、いいじゃないですか」

 蜂谷がそう言うので、お言葉に甘えることにした。

「あのうそれと、トイレをお借りしてもいいですか?」

「ついでにシャワー浴びてきたらどうです? もう用意していますんで」

 三点ユニットバスに加え、三つ折りにたたまれたバスタオル、一回分の歯ブラシまで置かれてある。まるでどこかのビジネスホテルのようだった。


 洗面所から出ると、ソファの上のたたまれた毛布が目に留まった。部屋は片付いている、というより、普段からあまり物が置かれていないようだった。落ち着いた色合いの家具で統一された部屋に一つ、あまり似つかわしくないと思える絵が飾ってあった。

 炸裂したトマトの絵。

 キャンバスをストライクゾーンに見立てて、そこに思いっ切りトマトを投げつけた、というような趣の絵で、端々にまで種や汁が飛び散っている。割れてはみ出た果肉にグロテスクな印象を受ける。ただ一ヶ所、右上にある汚れが気になった。絵の具を重ねればそれで済むはずなのに……よくよく見るとそれは汚れではなく、焦げた痕のようにも見えた。

 蜂谷が背後に近づいてきて、「それね、妹が描いたんですよ」

「妹さん……たしか、天野と付き合っているとかいう」

「聞きましたか」

「ええ、それも会ったその日に」

「そっかそっか」

 恋人が絵描きであるなら、時折顔を出す天野の美術の知識にも合点がいく。

「妹はトマト、食べられないんですけどね。青臭いのが受け付けないらしくって。それでもどういうわけだか、顔青くして描いてた」

「トマトに対して、なにか思うところがあったのでは? でなければ、わざわざ絵にすることもないのではないかと」

「私も描いた理由については知らないのですが、あいつなりの引っ越し祝いだったのかな? 投げて寄こしてきたんですよ、これを」人差し指の第二関節で絵をノックする。「額に入った状態で、フリスビーの要領で。あれにはビビった」

 角の部分が怖かったのだそうだ。それが冗談なのかなんなのかわからず、どう返したらよいものか、吉見はリアクションに困った。

 蜂谷はニッと笑う。「そろそろ朝ごはんにしましょうか」

「あっいえ、ホンっとにお気遣いなく」

「まぁまぁ、そう言わずに。コーヒーはブラックでよろしかったですっけ?」

 お気遣いなく。この言葉が虚しく聞こえるくらいに吉見は、もうすでにだいぶ気遣われている。


「昔から朝はパンとうちでは決まっておりまして、ご飯は炊いてすらいない、というか炊飯器自体、家に置いていないんです。昼夜は外食が多いので」

「いえいえ、私もパンはよく食べますので。ありがとうございます。いただきます」

「まぁ、男の一人暮らしなんてこんなもんですよ」

 さして親しくない人間と向かい合わせになって、陽の差し入るダイニングで朝食をともにするというのは、なんだか変に意識してしまって、落ち着かない。

「この間のことなんですがね、もう少しで創作の発端が聞けるところだったのに、横槍が入ってなあなあになって、結局聞けなかったんですよ」

 吉見はトーストにバターを塗りながら、蜂谷の話に耳を傾ける。

「知識として知っていたとしても、ものを作る人間が実際、なにを考えてものを作っているのかについては、当人から聞かないことには知りようがないのでね」

「ちなみにその知識というのは」

「そうですね……それがなんであれ感情が動かないことには、なにもはじまらないっていうのはわかっていて」

「動機の段階ですよね」

「ですです。感情を司っている大脳辺縁系の、とりわけ扁桃体。この辺深くにあるやつ」

 自分の右耳辺りに指鉄砲の銃口を向ける。「この辺縁系、哺乳類の脳なんて言われ方をするような部位でして」

「それというのは……」

「感情は動物にもありますんでね」そう言って、一片のトマトを口に運んだ。

 トマトを食して顔色が変わらないところを見ると、兄妹といえども味覚までは似ないものらしい。

「動物にも見られるような、プリミティブな機能が人間にも備わっていて、本能とかそういうの。が、もの作りの初期段階に関わっている」

「アニマルスピリット的な」

「ふ~ん、ほぉ、アニマルスピリット。意味的にはその通りですが、すでにどこかの分野で使われている言葉だったりします?」

「経済学で、まま使われる言葉ではありますね。先行きの期待や不安に背突かれて、感情に走ったり、非合理的な行動を取ってしまうというような。その様子がどこか動物っぽいというかなんというか」

「なるほど経済の。私、そっち方面にはとんと疎くって」

「だからといってはなんですが、人間も根っこの部分では、どうしようもなく動物なんじゃないかと、そう思わないでもないですね」

「ええ、人間と動物の間に境界線などないですよ」

「ただ人間の場合、理性でもって感情をコントロールしている」

「おっしゃる通り、人間の人間らしい部分である新皮質が上から分厚く、哺乳類の脳に突き動かされる衝動を抑えてますね」

「抑え切れないとなると」

「まぁ、それは……ね」

 と、蜂谷が言葉を濁すのは、普段から事件の捜査に関わる二人にとって、今更言うまでもないことだから。

「あの、そういえば、モチーフって言葉なんですが」

「そうでした、それでした。脳は、五感を通して外界から情報を取り込んでいるわけですが、この時、記憶しておくのかどうかの評価を下しているのが、これまた辺縁系なんです」

「覚えておくべき情報かそうでないかを選り分けている。その基準は?」

「価値、かな」

「金銭的な価値とは違いそうですね」

 ふふっ、と一笑に付された。

「そうですね。個人的な、あくまで当人にとっての、です。なので、価値観なるものが取り沙汰されたりするんですよ」

「他人の預かり知らないところでもありますものね」

 吉見は、スクランブルエッグにケチャップをジグザグにかける。

「記憶に関係することで知られた海馬がありますよね」

「タツノオトシゴの形をした」

「あれも辺縁系の一部でして、扁桃体と隣り同士の位置にあって、常に密に情報をやりとりしている」

「ということは……感情を伴った出来事というのは、記憶に残りやすい?」

「そういうことです。記憶というのは、その際味わった感情によって重み付けされている。日々起こる出来事、そのほとんどは吹けば飛ぶような事柄なので、覚えるに値しない。つまり、すぐに忘れてしまう」

「重たければ?」

「価値のある情報として、いつまでも覚えている。脳が事態を重く見たからこそ、忘れない。楽しい思い出はもちろん、苦い思い出であればなおさら」

「トラウマはというと」

「重い方ですね。それもマイナスに大きく振れる。事あるごとに思い出し、思い出すことによりその時の感情までもが一緒に蘇るから、苦しいわけです」

 吉見は食べ終わり、冷めかけたコーヒーを口に含んでいる。蜂谷はというと、ずっと喋っているので、まだ半分ほどしか食事が進んでいない。

「前置きが長くなりましたが、外界から摂取した情報を再度、なんらかの形で外に出す。その際に核となるのが動機であり、モチーフなわけです」

「表現にしろ、表情にしてもそうですが、表に出てこないことには、人がなにを考えているのか、わかったものじゃないというのはありますね」

「だから情報と言うんですけどね」

「……そういうことか」

「そうして発露した情報には、その人なりのものの見方が反映されている。こちらとしてはそれを読み取って、あとは解釈するよりないですね」

 蜂谷は会話を切り上げて、傍らのフォークを手に取った。

 ふと、そういえば今何時なのか、吉見は周囲を見回して時計を探す。

「時間ですか? そもそも部屋に時計置いていないんですよ。一人でいると、秒針の音が気になって気になって」

 そこでテレビを点けると、ブランチのワイドショーがはじまっていた。

「やっべぇ……さすがに長居しすぎました。そろそろお暇します」

「私も一緒に出ますので、ちょっと待っててもらえます?」


 駅に向かう道中も、蜂谷の話は止まらなかった。蜂谷の妹が以前、もの作りに関して、こんなことを言っていたそうだ。

 まっさらなキャンバスを前にした時、すぐさま思うままに描きはじめるのではなく、まずは脳に手を突っ込むのだと。しばらく脳みそをまさぐっていると、なにか触れてくるものがあるらしい。不確かで曖昧なものでも、こねくり回しているうちに、描きたいイメージがはっきりしてくる。筆を取るのは、それからだと。

 なにとは言いませんが、頭の中に渦巻くわだかまりを、作り手のようにうまく吐き出せないがために、こじらせた挙句自棄になって、極端な行動を取ってしまうんじゃないかと、私なんかは思いますけどね。蜂谷はそう言った。

「では、私こっちなんで」

「なにからなにまでお世話になりまして」

「いえいえ。それじゃあ今後とも亮のこと、お願いします」

 改札口を抜けた先で二手に分かれた。エスカレーターを登り切ると、線路を挟んで蜂谷と向かい合う格好になった。別れた直後にまた顔を合わせるというのは、事前にわかっていたことだとしても、やっぱり気まずい。

 ほどなくして反対側のホームに電車が到着した。車両の横幅の分だけ二人の距離が縮まる。電車の小窓から手を振る蜂谷が見える。そこはかとなく気恥ずかしさを覚えるが、吉見も手を振り返した。

 間もなく発車した電車を見送る。ところで、会いに来た用件とはなんだったのか、聞きそびれたことに吉見は、今頃になって気がついた。

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