リフレーミング 

 姿見の前で、どっちの服を着て行こうか迷っている。ドラマにありがちなワンシーン。あの状況に今、私は置かれている。

 昼食を一緒に食べないか。と、さっき亮から連絡があった。仕事中に電話を掛けてくること自体が珍しく、まして昼食に誘うなど今までなかったことなので、どういう風の吹き回しなのか訝しく思った。おいしいもので腹を満たして、私の機嫌を取ろうという腹積もりなのか、と。ついついネガティブな方へと考えが及び、電話口では素っ気ない返事をしてしまった。そのくせ私の心は、態度とは裏腹に、呆れるくらい素直に動く。

 間を取って第三の選択肢、襟のついたワンピースを着ていくことにした。

 出かける支度を済ませたが、約束の時間までは、まだそれなりにある。ひとまずソファに座る。しかし、そわそわして逆に落ち着かない。時計の針は、一応動いてはいるようだが、足踏みしているんじゃないかと思えるくらいに全然進まない。時間が経つのがまどろっこしく感じられ、居ても立ってもいられず、玄関のドアノブを握った。


 案の定、指定された時間よりも早くレストランに着いてしまった。

 店先に置かれた黒板には、本日のおすすめメニューが書いてある。ウェイターに名前を告げると、人の列を横目にテーブルへと案内された。予約してくれていたらしい。この辺のところ、抜かりがない。

 とりあえず飲み物だけ頼んで、亮が来るのを待つことにした。

 約束の時間を過ぎても一向に現れないので、電話を掛けてみる。間もなく留守番電話サービスに繋がった。メッセージを吹き込むほどでもないので電話を切った。料理が運ばれてくるまでには現れるだろうと踏んで、ウェイターを呼んで、いくつか注文する。

 予想はちゃんと外れて、先に料理が来た。冷めていくのをただじっと眺めているだけ、というのもどうかと思った私は、ピザに手を伸ばした。伸びたチーズをフォークで絡め取る。一口頬張る。胡椒をもろに噛んでしまい、舌がぴりりと痺れた。

 四切れ目を食べている時に、亮が店の出入り口に姿を見せた。

「待った?」皿に残った半円形のピザを見て、「だろうね」 

「電話したんだけど……」

 ケータイを取り出して確認する。「ホントだ。震えに気づかなかったみたいだ」 

「来たからいいよ。許したげる」

「ん、ゴメン。……それ、もらっていい?」

「食べかけでよければ」

 亮が手に取った冷めかけたピザは、チーズの伸びがいまいち足りない。それでも三口で食べ切って、続け様に二切れ目に手を伸ばした。

 近くのテーブルの片付けにきたウェイターを捕まえて、亮は炭酸水とマルゲリータピザを注文する。メニューの写真を見る限り、注文したピザには輪切りのトマトが載っていた。

「今頼んだピザって、上にトマトが載っていたよね。私、トマト食べられないんだけど……」

「知ってる。でも、取り除けば食べられるでしょ。俺それ、食べるから」

「そうしてもらえると、助かります」

「ケチャップとか、ペースト状になっていれば食べられるみたいだけど?」

「原形を留めていなければ大丈夫。ブツがダメなのよ」

「もとは同じトマトじゃない」

「それを言ったら、麦茶とビールは同じだし、ぶどうジュースとワインでは区別がつかない」

「醤油に味噌、きなこに豆腐。全部大豆からできている」

「ほら、全部違うじゃん」

「わかったわかった。そういうことにしておきましょう」

 亮の顔には笑みが浮かんでいる。

「なんか、あれだね……久しぶりに会話らしい会話をしている気がする」

「……かもしれない。なかなか構ってあげられなくてゴメンね」

「そんなことは、うん。でもしょうがないよ」

 事件が解決しないばっかりに私は、やるせない思いをしている。どれもこれも、顔も名前も知らない誰かさんのおかげ。

 UFOキャッチャーの要領で、フォークの先に輪切りトマトを引っ掛けて、皿の端に寄せる。円形の凹みができたピザを食べる。小さい頃の私は、少しでもトマトが触れたのなら、なんであれそれはもう口にできなかった。今では、触れた程度であればわりかし気にせずに食べられる。

 亮は咀嚼していたサラダを飲み込んで、空になった口を開く。

「ところでさ、訊きたいことがあるんだけど、いい?」

「よくない」

「アートとデザインの違いってなんなの?」

 ほら、またはじまった。

 亮はここへ、会話らしい会話をしに来たのではないのだとわかり、私の気持ちは冷めていく。まぁでも沈黙よりはマシか、と思い直して、付き合ってあげることにした。「全然違うよ。別物」

「素人目には、その全然違うものの区別が付かなかったりするんだよ。ぶどうジュースとワインみたいには」

「違いなんていくらでもあると思うけど……一番わかりやすいのは、アートは一点物だけど、デザインはコピーするのが前提、みたいなところがある」

「それは俺も思った。この世に一つしかないものだから、それが希少価値となって、時に何億なんて値が付いたりする、それは理解できる」

「あんまり金金言うのもどうかと思うよ?」

「ならデザインは?」

「そちらに関しては、商売に向いている。大量生産できるから」

「なんなら商品自体がもうすでにデザインだし、企業のロゴマークもそうだし」

「広告もそうだね」

「商品が知られていないことには、話にならないから、どこに行っても広告が打たれている。街角に駅に、新聞雑誌、テレビにネットに」

「宣伝カーを走らせたり」

「人通りのある場所に、人目に付きやすいところに」

 大量に出回ってナンボの世界だから、とかく広告とデザインは相性がいい。目にする回数が多いと、それだけ認知されやすくもなる。実際に買うかどうかは、置いといて。

「なんだ、わかってるじゃない」

「それじゃあ、ウォーホルはどうなるの?」

 頭の中でカラフルなマリリン・モンローが倍々に増えていく。「……そりゃ、例外はあるよ」

 大量消費社会を背景に生まれたポップアート。その中心的人物であるアンディ・ウォーホルは、ファクトリーと名付けたアトリエで作品を機械的に大量生産し、そして大量に消費された。

「例外……ねぇ」

 亮の口先が尖っている。私の出した答えが、素人目で付けた区別とさして変わらなかったことが、どうやら不満らしい。

 ポシェットを肩から下げた女性が、私の脇を通って、赤いピクトグラムのある方のドアに手をかけた。

「……そう、だからコピーであることを逆手に取ったんだよ」

「どういうこと?」

「ちょっとウォーホルから離れるけれど、トイレのピクトグラムってあるじゃない?」

 私の視線の先にあるピクトグラム。亮は振り返ってそれを確認する。

「あれはデザインでしょ?」

「デザインだねぇ」

 飲食店でトイレを話題にするのはどうかと思ったが、思いついちゃったものはしょうがない。私は声のボリュームを若干、落としている。

「円の下に逆三角形、でもって黒いのが男性用。同じように円の下に三角形、こっちは赤くて女性用」

「そうね。あれはスカートのつもりなんだろうね」

「たとえばそれを、形はそのままに、色だけを入れ替えたらどうなると思う?」

「ややこしくなる」

「どうして?」

「どうしてって、それは……色に従うと、形に背くことになるし、逆に形に従うとなると、今度は色に背いてしまう」

「そうそう」

「これはあれだな、ジレンマだ」 

 二つの相容れない要求によって人は、トイレを前にして足止めを余儀なくされる。

「元々はさ、赤にしても黒にしても色自体に、どっちが男でどっちが女かなんていう取り決め、なかったと思うんだよね」

「それはそうかもしれないが、一度そのように決まってしまったからには、慣習に従わざるを得ないというのはある。ランドセルにしてもそうだし」

「そお? 私、黒いランドセルだったよ」

「じゃあ、浮いた存在だったんだよ」

「うんと、まぁ、それは否定しない。という私の過去は一旦、置いといて。さっきの色使いがあべこべのピクトグラム。入ろうとしたトイレが、もしそんなデザインだったとしたら、どうする?」

「我慢するか、ほかを当たるか」

「なんでそんなデザインになっているのか、考えたりはしない?」

「まだ余裕があったら、多少は」

「アートには、そういうところがあるよね」

「え? トイレを目前にして粗相させるようなところが?」

「あのね……。要は、問いを投げかけるようなところよ。当たり前のものとして受け入れられちゃっていることが、実は、当たり前でもなんでもないのだということを、アートでもって指摘する」

「たしかにどっちかっていうと、答えというより問い寄りだよね。だって現代アートは、わけのわからないものばかりだもの」

「わけ、わかられたらそれまでだもの」

「投げかけるだけ投げかけて、あとは各自で考えて下さいって感じに丸投げして。投げっぱなしジャーマンとはこのことだよ」

「それはちょっとわからないけど」

「わからないなら別にいいよ」

「それはそれとして、どう違うのっていう話だったけれど、突き詰めれば、どっちもどっちだよね」

「なんとなくそんな気はしていた。アートを説明するのに君、なんでかピクトグラムを持ち出してきたし」

「きっちり割り切れるかといえば、全然そんなことはなくて、アートみたいなデザインがあって、デザインみたいなアートがある。アートとデザインの境界線の、まさに線の上にウォーホル作品はあるんじゃないかな」

「綱渡り状態にあるわけか」

「昔ドイツにあったバウハウスって学校では、アーティストがデザインを教えていた、なんてこともあったし……ヒトラーに解体されちゃったけど」

「それは残念。ちょっと思ったんだけど、さっきのピクトグラムの件。いわゆるトランスジェンダー的な人たちなら、色使いがあべこべであっても関係なく、どちらでも好きな方、空いている方に入れるんじゃない?」

「それは、入れるでしょうね。むしろ、その人たち向けかもしれない」

「いわゆる普通の人たちにとっては不便だけど」

「そうね」

「そうそう、それからさ……」

 なにかを言いかけて、あとが続かない。口を半開きにして固まっている。私はこの顔に既視感を覚える。

 亮は、予想した通りの動きを見せる。ポケットからケータイを取り出し、ディスプレイを確認する。ちょっとごめん、と、断って電話に出た。 

「……ええ、大丈夫です。……今ちょっとレストランにいましてですね……いえ、構わないです。昼食がてら電話を待っていただけなので。……わかりました。直接現地に行けばいい感じですか? ……はい。のちほど」

 なんで私を昼食に誘ったのか、そのわけが今わかった。電話が来るまでの間の時間潰しだったということが。

「というわけで、そろそろ仕事に戻るよ」

「問題、早く解決するといいね」

「…………」

 返事はなかった。ここまで徹底していると、逆に笑えてくる。笑わないけど。

「いってらっしゃい」

「行ってくる」

 財布から取り出した紙幣をテーブルに置き、すっかり炭酸の抜けた単なる水を口に含んで、亮は店を出て行った。

 私は店内に独り、取り残された。


 事故の影響で発生した渋滞にはまり、車は、少し進んでは止まり、止まっては少し進んでを繰り返している。前の車のフロントガラスから、その前の車のブレーキランプが赤く点っているのが見える。

 いつものように皆川がハンドルを握っていて、いつもと違って吉見が助手席に座っている。ヤボ用があるとのことで、上原とは現地で別れた。

「今日は起きているみたいですね」

「乗り物に揺られていると眠たくなるんだ」

「子どもみたいですね」

「ほっとけ」

 窓に映る景色がさっきからずっと変わらない。歩道を行き交う人の顔ぶれだけが変わっている。ウーバーイーツのバッグを背負った自転車が、車の脇をすり抜けていった。 

「知ってます? 最近も交通事故があったそうですよ、この辺り。どうやら事故多発エリアみたいですね」

「知らなかった。いつの話だ?」

「そこまで前じゃなかったはず、ニュースでもやっていましたよ。車二台が絡む事故で、片一方の運転手は、ほとんど即死に近かったそうです」 

「お気の毒に……前。進んでるよ」

 皆川はアクセルを軽く踏み、前の車との間隔を詰める。車が列を作っている間に、歩道を走るサングラスの中年男性が、次々と車を追い抜いていく。

「私と仕事、どっちが大事?」

「なんだ? 急に」窓の外にやっていた視線を皆川の横顔に転じる。

「っていう二択があるじゃないですか。あっ、別に深い意味はないです。沈黙が気詰まりでして……で、どう思います?」

「逆に皆川は、どっちが大事だと思っている?」

 問い返して、一旦皆川の見解を聞く。

「私ですか? 私は、そうやって比べること自体が不毛だと思いますね。だって全然別物じゃないですか、恋人と仕事では」

「どうって、問いとしてどうなのかってことか」

「大事というならどっちも大事なのに、比べようもないもの同士を比べている気が……こっちは重さだけど、こっちは長さみたいな」

「単位が違っている」

「そうです。だから質的に違うものをなんでこう、ごっちゃにしちゃうかなって。お金ないとデートにも行けないし」

「デートに行った先でも、色々とかかるしな。いくら夢の国といえども、ちゃんと金銭を要求される」

「夢を見るのもタダじゃないんです」

「そもそもで、あらゆる価値をごっちゃにしてしまっているのが金なんだけどね」

「と言いますと?」

「本来なら比べようのないものを、間に金を挟むことで、数値化して並べている。値段の付いているものならなんでも、金と交換できる」

「ああ、そういう。なんでもお金で解決しようとする社会に住んでいると、どうしてもごっちゃになる。そう言いたいわけですか」

「その時に問題になるのが価値観だな。なにに重きを置くかという」

「Aさんにとって大事なものが、Bさんにとってはそうでもなかったり」

「っていう不一致があるせいで、男女の間にすれ違いが生じたり、世の中に争いが絶えなかったりする」

「音楽性の違いで解散するバンドがあったりして」

「世の中には色んな人がいて、人それぞれだから」

「それ言っちゃうと話、終わっちゃいますけどね」

 事故現場に差し掛かる。片方の車は右目が潰れ、もう片方は顔面が凹んでいた。交通整理の手信号に従い、破片の散らばった道路を通過する。渋滞の原因を越えたことで、車間距離も広がり出した。

 吉見は、目的地まで間もなくというところで、天野に一本電話を入れる。

「もしもし、天野? 今構わないか?」

「ええ、大丈夫です」

 受話口の向こうで、金属が触れ合うような音がする。

「食事中?」

「今ちょっとレストランにいましてですね」

「なら掛け直そうか?」

「いえ、構わないです。昼食がてら電話を待っいただけなので」

「そうか、そろそろでそっちに着くから、落ち合わないかと思って」

「わかりました。直接現地に行けばいい感じですか?」

「そうだな。じゃ、またあとで」

「はい。のちほど」

 吉見は電話を切った。

「またやるんですか? 写真を翳すあれ」 

「ああ」

「写真はあるんですか?」

「天野に頼んでおいた」

「ああ、そう……あの、私もついていっていいですか?」

「好きにしろ」


 交差点を曲がり、河川と平行に走行する。河川自体は、小高い土手によって見えず、前方は、大型トラックの尻によって視界が遮られている。現場付近のバス停のベンチに、天野が座っていた。


 頭上を電車が走り、くぐもった走行音が下に響いてくる。

「あっちの件、どうでした?」

「どう見ても別件だった」

「一連の事件と類似性があるとのことでしたが」

「情報の上ではな。刃物による殺人だというのが一点。犯人はその刃物を持って逃走中だというのが一点。通り魔による犯行の可能性がなきにしもあらずというのが一点」

「それでしたら、同一犯の線も捨てきれないのでは?」

「犯行が稚拙だったんだ。なにせ血痕を踏んだ形跡が見つかった。詳しくは鑑定結果を待つけれど……それでも、あっちの事件に関しては、解決するのも時間の問題じゃないかと思う」

「これまでの事件と同じ犯人であれば、そんな愚は犯さない、と」

「そんな感じ」

 翳した写真には遺体と、背景には橋脚の落書きが写っている。写真の背後の現在の状況はというと、遺体に隠れていた砂地が露わになった程度で、ほかに変わりはない。落書きは事件以前からあったようだ。

「橋脚って、グラフィティ描かれがちですよね」

 スペルが独特な立体感を持って描かれている。テレビ番組ならピー音で規制されるような卑猥な単語。

「人目に付きにくいからな」

 とりわけ電車の走らない夜間は、街灯もないので真っ暗になる。

「捕まえてもまた出てくる、消してもまた描かれるというイタチごっこ」

「捕まえようとすれば捕まえられないこともないが、落書き程度で四六時中見張ってるわけにもいかないし、やつらもやつらで、見つからないことをポリシーとしている」

「一ついいですか?」二人のやりとりをそばで見ていた皆川が口を挟む。「写真とにらめっこしているだけでは、いつまで経っても犯人に辿り着けないような気がするんですけど」

「俺もそう思っている」

「だったら、一体なんなんでしょうね。この時間は」

「そうは言っても、手掛かりになるようなものが遺体と現場くらいしかないんだ。それとも、なにか意見があるっていうのであれば聞くよ、言ってみ?」

「そうきますか、わかりました」

「お、なんだ? なにかあるのか」

「十三という数字には、なにか意味があるのではないかと」

「刺し傷の数か」

「ええ。犯人が意図的に残していったものといえば、それくらいだと思うんですが」

 むしろ、図らずも犯人が残していってしまったもの、吉見はそれに用がある。

「たまたまそうなったんじゃないかと、俺なんかは思う。数を数えながら人を刺すとは思えない」

「たまたまがそう何度も続きますかね」

「たとえ意味があったとしても、それは犯人にだけ通用する意味であって、他人がそこを深掘りしたところでなにも出てきやしないだろう」

「とはいえ結果的には、警察と真犯人しか知り得ない、いわば符牒になっていません? 現に、さっき確認しに行った事件の被害者、刺し傷が七箇所だったから、すぐに犯人が違うと判断できたわけですし」

「ん? 七箇所だったんですか」

 天野が会話に割って入る。

「まぁな。しかし、あれはほかの点で十分相違が見られた。結果的に、あれとこれでは帳尻が合わなかった、それだけのこと」

「七と十三では、だいぶ差がありますよ。それに、被害者全員に共通している点を見過ごすというのは、いかがなものかと」との指摘が、天野から入る。

 二対一で、吉見は不利な状況にある。数字それ自体に意味はなくとも、十三箇所というのはたしかに、これまでの被害者に共通している点ではある。天野が言うように、放ってはおけない事実なのかもしれない。吉見は折れた。

「ん〜、わかった。皆川が言うように、もし十三に意味があるとするなら、たとえば、どういう意味なんだ?」

「たとえばそうですね、十三日の金曜日ですとか」

 そんなことだろうと思った。吉見は一応、天野に訊いてみる。「十三日の金曜に事件があったか?」

「金曜日に一件あったと記憶していますが、十三日ではなかったですね」

「じゃあ、まったく関係ないな。さぁ、仕事仕事」

「あっ、ちょっとまだ」  

 吉見は、無視を決め込む。

「いいんですか?」と駆け寄ってきた、天野。

「気にするな」

 振り返ってちらと、皆川の様子を伺うと、じっと動かずその場に佇んでいた。

 かつてこの場所で起きた出来事を、今ここに思い描こうと思えば、色々と材料が要る。必要な材料が揃っていない場合、観察事実が依りどころとなる。

 そこには、なにがあるのか。

 そこから、なにが見えるのか。

 そこでは、なにが聞こえるのか。

 つまりは単純に、事件を取り巻く環境に身を置いて、犯人が感じたものと同じものを共有しようと試みる。カメラのレンズは遺体周りにしか向けられていないが、画角の外に広がるこのだだっ広い河川敷全体も現場に違いない。靴の底が石を踏み当てて、石同士が擦れ合い、不快な音がした。

 辺りに目を凝らし、微風が頬に触れてくるのを感じ、耳を澄ましながら吉見は、テレビで見たニュース映像を思い出していた。

 いつだったか、この地域一帯に記録的な大雨が降った。その影響で河川は洪水を起こし、河川敷は一時、水に沈んだ。川をまたいで架かる鉄橋、グラフィティの描かれた橋脚はもとより、橋桁すれすれまで水が迫った。茶色い濁流が有象無象を飲み込んでいく。そんな河川の様子を各局が逐一報じていた。あの日、非番だった吉見は、窓を叩く雨の音を聞きながら、いつまでもテレビ画面を眺めていた。

 今となってはあの濁流を思い起こさせる痕跡は、どこにも見当たらない。何事もなかったかのように、川は穏やかに流れている。それでも吉見の頭の中に、記憶として残っている。

 ケータイを手にした皆川が、近づいてくる。

「上原さんです。代われって」

 皆川からケータイを受け取り、電話を代わったことを告げる。

「どこで道草食っているのかと思えば、河川敷の草食ってたんだな。お前ら」

「切りますよ」

「待った、待った」

「なんの用です?」

「まっ……よし、まだ繋がっているな。駅周辺の防犯カメラの解析があらかた終わったんだが、これといった人物が見つからなくてよ。それでどうも、川を歩いて渡ったんじゃないかっていう意見が出ているんだ」

 吉見は、そんなアホな、と思いながら適当に相槌を打つ。

「今、橋を渡ればいいじゃないか、とか思っただろ」

「ええ、すぐそばにあるので」

 川縁の方へと歩きながら、受話口に耳を傾ける。

「防犯カメラ、あるいはドライブレコーダーの目を避けたんじゃないかと。そこにいるんだったらちょうどいい。ちょっと見てくれないか? どうせ、成果は得られていないだろ」

「ええ、まぁ」図星だった。

「鑑識が散々探し回ったあとだからな。それはいいとして、カメラを向けるとすれば普通、事件、事故が起こりそうな場所だろ? レジ周りとか、交差点とか。ということはつまり、撮影範囲が限定的なんだな」

「浅いところを歩けば、渡れないこともないですね」

「深さはどのくらいだ?」

 魚が数匹、流れに逆らって泳いでいる。「膝が浸かるくらいですかね」

「よし。それなら渡れるな」

「それとさっきの話ですが、ライブカメラは調べたんですか?」

「ライブカメラというと?」

「川の水量を観測する定点カメラのことです。どこかにあるんじゃないかと」

「ああ、なるほど。盲点だったわ」

 彼岸に連なる高層ビルを仰ぎ見て、カメラのありかを探す。しかし、当然ながら見つけられない。そこにあるのかどうかすら、わからない。

「わかった、それはこっちで確認しておく。暗くなる前に帰ってこいよ」

 電話が切られた。ディスプレイを太ももで拭いて、皆川にケータイを返す。

「なんて言ってました?」

「あまり遅くなるなよ、って」

「それって、子どもに対して言うセリフですよね」

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