もぬけの殻 

 ドアノブを捻りながら、顔だけこちらに向ける。「んじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 私はドアの鍵を閉めて、いつものようにベランダに出る。エントランスから出てきた亮は、いつものように見上げて手を振り、駅の方へと歩いていった。

 ご飯を食べている時、ベットに入ってこれから寝ようという時、あるいは休日、ソファでくつろいでいる時などに藪から棒に、亮が質問を投げかけてくる。私はそれをグローブの先で受け取って、応えられる範囲で投げ返す。といった言葉のキャッチボールをするようになってしばらくが過ぎた。

 時には私の方から、話題を提供することもある。それに対して亮は、うんとかすんとか言うだけ。それならばと、最近あったこと、見聞きした話などを独り言のように喋ってみた。けれどもやっぱり反応は薄かった。というわけで私は、薄いカルピスみたいな味気のない日々を過ごしている。

 以前亮が、「一時期、硫化水素による自殺が流行ったんだけど、知ってる?」と、私に訊いてきたことがあった。

「あれはいつ頃だったっけ? ニュースでよくやっていたよね」

 家に引きこもりがちな私にとってテレビは、世間と繋がる窓。時折開けて、空気の入れ替えをする。世の中の移り変わりを窓から眺めている。

「そのニュースが問題だったんだよ」

 起きたことをありのままに伝える日々のニュース。視聴者に硫化水素の危険性を呼びかけているようでいてその実、自殺の手法をお茶の間に広めていた。

 ステップ1・混ぜるな危険と表記された洗剤同士を混ぜて有毒ガスを発生させる。

 ステップ2・ガスの充満している室内に身を置く。

 そうして新たな自殺マニュアルが世間の知るところとなった。家庭にあるもので簡単に作れるとあって、あっという間に流行した。

 今日もまた自家製硫化水素による自殺者が出た。なんて連日のように報じているうちに、自分たちがマッチポンプなのだと気づいたマスメディアは、遅ればせながら報道を自粛するようになった。

「なんでもかんでも情報を与えればいいっていうことではなくて、それが逆に、一般人に対して危害を及ぼすこともあるわけでさ」

「だから情報管理を徹底する、と」

「ガス漏れしないよう、元栓はしっかりと閉めておかねば」

 この落ちを言いたかったがために、ガスを話題にしたのではないか、という気がしないでもなかった。

 いつ何時起こらないとも限らないそういった事態を、亮が危惧しているのはわかる……けれども私としては、事件のせいで私たちのいつもの関係性に違和が生じるのは、御免蒙りたいなと思う。

 洗い物をし終えた私は、絵でも描こうと自室のドアノブに手をかける。


 ドアノブを押して屋上に出る。

 薄暗いところから屋外に出たせいで、陽差しが余計に眩しく感じられた。

 吉見は、煙草に火を点けながら屋上の縁の方へと歩いていく。錆びてところどころ塗装が剥がれ落ちた柵の外側には、比較的新しいフェンスが巡らされている。何気なく柵に手をかけたら、ささくれ立った塗装が刺さった。反射的に引っ込めた手の平を見ると、血こそ出ていなかったが、若干白くはなっていた。

 フェンスの網目から地上を見下ろすと、今まさに一台のパトカーが動き出した。


 刑事になってまだ間もない頃。吉見は捜査の一環として、先輩についていって、とある事件の被害者宅を訪ねたことがあった。

 居間に通された二人は家族から話を伺った。先輩は前のめりになり、必要以上に相槌を打ち、親身になって聞いていますよ、というような雰囲気を出していた。普段の彼を知っている吉見は、その装っている様相にいささか辟易した。

 ダイニングに目を向けると、テーブルの椅子。世帯人数分に加え、もう一脚余計にあった。

「お部屋を見せていただけませんか」

 会話が一段落着き、沈黙が訪れた際に先輩が切り出した。家族は渋ったが、そこをなんとか、なにか手掛かりになるものがあるかもしれない。半ば強引な説得に、そういうことでしたら……と案内してくれた。

 ドアを開けて、部屋にお邪魔させてもらうと本棚に出迎えられた。単行本、文庫、新書、漫画、雑誌、画集、絵本。種々雑多な本が、著者名、上下、巻数順に、背の順に並べられていた。蔵書を見る限り吉見は、趣味が広く、また几帳面な人だという印象を受けた。その本棚と背中合わせにデスクが配置されていた。ノートパソコン、栞を挟んだ一昔前の小説、手垢のついたシャープペンシルに日記帳、左手側にはマグカップが置かれていた。さすがに中身は捨てられていた。 

 先輩が伏せられていた写真立てをデリカシーなくめくったり、断りもなく日記を開いたりする。無理言って入れてもらったにもかかわらず、彼はめぼしいものがないとわかると早々に退出した。吉見は一人、部屋に取り残された。

 陽が差し込んで、空気中に舞うほこりが見えるほどだった。

 立てかけられたギターは、もはやインテリアと化していた。

 明日着る予定の服の上下がカーテンレールに掛かっていた。

 壁のアナログ時計は、十一時二十分を指して止まっていた。

 部屋は手入れが行き届いていて、あの日からなにも変わっていない。なにもかも揃っているのに、この空間で過ごす人間だけが存在しない。この空室の持つ意味に理解が追いつくと、途端にうそ寒い心地がした。

「おい、いつまでそこにいるつもりだ?」

 先輩の声が、空虚に飲まれていた吉見を現実に引き戻した。

 たいした心構えもなく部屋に立ち入ったことを後悔した。と同時に、案外自分がナイーブであることを自覚した。その日以来吉見は、被害者宅に行くのを避け、被害者家族とも距離を置くようになった。


 この警察署には最上階に留置場がある。用がない限りここに人が来ることはないので、警官が一人詰めているだけだった。その彼に屋上に向かう人がいなかったか訊ねると一言、いたよ。と、返してきた。礼を言って一段目に足をかける。薄暗い階段を上りきった突き当たり左手側にあるドアノブを握る。鍵はかかっていなかった。

 蝶番の軋む音に吉見が振り返ると、開いたドアの隙間に天野の顔がぽっかりと浮かんでいた。

「ここにいましたか」

「喫煙所はどこかと訊ねたら、ここを紹介された。天井が青いな」

 吉見の当て擦りに天野は苦笑する。

「喫煙室を潰して証拠保管庫に改装したんですよ。煙草吸う人が減ったので」

「冬場は寒そうだ」

 煙草の先から流れ出る煙の行方を目で追いながら天野は、思いついたように言う。「事件があとを絶ちませんね」

「そればかりは、どうしようもない」携帯灰皿に灰を落とす。  

「言わずもがなでした」

「人間も所詮は動物。理性を失えば、途端に野生化する。人がみんな理性を持ち合わせていると思うな」

「捕まらない程度には知能がありそうですけど」

「鼻が利くんだろ。動物だから」

 ブラックなジョークに虚を突かれたのか、天野は静かになった。

 澄み切った青空を背景にして、緩やかに白い雲が流れていく。

「神は自分に似せて人間を作ったとか言いますが、あれは?」

「神を信じているのか?」

「いえ、そういうわけでもないんですが。」

「人間は動物とは違う特別な存在だと言いたいんだろう。実際のところは、そんなに変わらないというのに」

「違いがあるとすれば、人間は道具を使ったり、作ったりすることができるという点でしょうか」

「それだって、猿知恵だけどな」

「表現の手段だったりもします」

「要は、頭の使い方次第か」

「今ちょっと思い出したんですが、こういう話を知ってます?」

「なんだ?」

 天野は、宙を睨みながら暗んじる。

「イタリアは、ボルジア家に支配された三十年間、戦争、テロ、殺人が絶えなかったが、同時期にルネサンスが花開いた。それに対して、スイス五百年の民主主義と平和がなにをもたらした?」

「……鳩時計」 

「ご存知でしたか」

 観覧車はゴンドラの中。悪事を非難する旧友に対して、第三の男は、悪びれもせず言い訳に終始した挙句、友人を闇商売に誘う。先のセリフは別れ際に男が放った捨てゼリフ。

「暗記する時間があるほど暇なのか」

「つれないですね」とは言うものの、天野の頬は微かに緩んでいる。

「天野はさ、芸術と犯罪の間には、親和性があると考えているわけ?」

「どうでしょう。……ですが、一つ心当たりが。芸術作品に対して使われることのあるモチーフって言葉、あれ動機という意味なんだそうです」

「はじめて知った」

「感情が動かなければ、もの作りしようとも思わないみたいですね」

「気持ちの問題か」

「それはそれとして、さすがにそろそろ動きませんか?」

 腕時計を見て、「そうしますか」

「今日はどうします?」

「とりあえず現場に行こうかと思うが、その前に用意するものがある。下で待ってて」


 閑静な住宅街を歩く。周辺住民は事件が起きてからというもの、スーツ姿の二人組を度々目撃しているので、今となってはさして気に留めていない。風景の一部として受け入れたようだった。

「事件現場に行くのはいいとして、なんでまた前の現場に行くんでしょう? ほかの方々はみんな、次の現場に行っているというのに」

「もしこの事件が、同じ犯人によるものであれば、被害者と場所が違うだけだから、一つのモデルケースがほかのケースにも当てはまる」

「なるほどそういう……それで前の事件を一から洗い直すわけですか」

「場所選びに共通点がないものかと。犯人にとってなにか都合のいい場所を選んでいるんじゃないかと思って」

 現場となった小道。天野によると、駅への近道として使われるくらいで、普段から人通りの少ない場所ではあったが、事件後はさらに減り、今では地元の人もあまり近寄らなくなったのだそうだ。無理もない話だと吉見は思った。

 現場は、丘を切り拓いて敷いた高速道路のそば、斜面の中腹に当たる。車止めのポールの間を二人は通り抜ける。規制線はとっくのとうに解かれていて、誰彼構わず行き来できるようになっている。が、やっぱり人影はなかった。しかし、人影ならぬ猫影はあった。人の世の事情に疎い三毛猫は、警戒して後退りをし、距離を取ってこちらの様子を窺っている。

 歩道と法面とを仕切る錆びたフェンスには、不法投棄禁止の看板が掛けられていたり、蔓が絡みついていたりする。道路の反対側に生えた草木は、ロクに手入れがされておらず伸び放題の荒れ放題。風に吹かれた枝葉がさらさらと音を立てながら、木漏れ陽を拭う。木々の影が途切れて、陽だまりができている。

 この辺りに遺体があった。

 道端に花が供えられている。事件から日が経っているので、数はそれほどでもない。あっちこっちに飛び散っていた血も、今はもう跡形もない。この場所は、事件以前の姿を取り戻しつつあった。

 吉見はポケットから写真の束を取り出す。

「なんの写真です? それ」

「現場の写真」

「なに、持ってきてるんですか」

 責められるのも無理はない。情報管理に厳しい昨今、たとえ写真一枚の紛失であっても始末書もの。吉見はもちろん、承知の上で持ち出してきている。

「大丈夫だ。枚数は確認してある」

「そういう問題じゃ……」

「上に許可ももらっている」

「だからって」

 天野の反応に構うことなく、吉見は作業に取り掛かる。

 事件当日に撮影された遺体周りの写真。吉見は、一枚の写真を前に翳す。写真と現地とを照らし合わせて、シャッターが切られた場所を探す。遺体や草木の見えなどから、カメラマンの立ち位置を割り出す。頭の向きとアスファルトの裂け目を頼りに、寸分の狂いもないアングルを見つけ出す。この写真が撮れる場所は、世界広しといえども吉見の立つここ一箇所だけ。

 写真をめくり、立ち位置を変えて、また同じように背景を重ねる。吉見の挙動は傍から見れば、パントマイムをしているように見えなくもない。なにもない空間を前にして、見えない壁に手をついている。

「それ、やってみてもいいですか?」

 パントマイムの見学していた天野だったが、吉見のするこの行為の意味するところに、察しがついたらしい。手持ちの半分ほどを手渡す。天野も一緒になって見よう見まねで、写真を前に翳す。

 吉見は、事件当時の記憶をこの場に思い出させようとしている。事件から時間が経った今となっては、手元の写真だけが事件の有様を物語る。

 しばらくそうしていると、写真を見つめながら、「これは、あれだ。キュビズムだ」天野がつぶやいた。

「それというのは……ピカソのだっけ」

「ええ、ピカソのです」

「が、なんだ?」

「あれってたしか、モデルは椅子に座ったままじっとしていて、画家の方、つまりピカソがモデルの周りを動き回って描いたような、だったはず」

「それが、なんだ?」

「対象をあっちから見て、こっちから見て、というのを一つの画面の上にコラージュしたのがあの絵になるわけですが、それと同じようなことをしているなっていう、個人の感想です」

「ふ~ん。だが、あんな風に切り貼りするつもりはないぞ」

「ええ。ですが、分析的手法という観点からすると、通じるものがあるんじゃないでしょうか」

「まぁ、なんでもいいよ」

 黙々と単純作業を続けていると、些細なことが気になってくる。だからなんだというわけではないが、たとえばこの写真、カメラマンの影が写り込んでいる。時間帯が、太陽の傾きが違うため吉見の影とは重ならない。

 窮屈な姿勢でいたせいで腰が痛む。筋をほぐそうと伸びをし、腰を捻ると、女性が歩いてくるのが視界に入った。吉見は、写真とのにらめっこに夢中になっている天野に声をかける。両脇に分かれて道を空けた。ヒールを履いた彼女は、靴音高く二人の間を通り抜ける。

 遺体のあった箇所を踏みつけていった。彼女は、そのまま何事もなかったように道なりに進み、曲がり角で姿を消した。

 写真を確認してみると、ちょうど頭の位置だった。バツが悪くなった吉見は意味もなく、写真を裏返してみたりする。ふと天野の顔色を窺うと、天野は肩をすくめてみせた。

 吉見は、開封テープを一周させて煙草の箱を開ける。一本くわえて火を点けた。

「あの……」  

「地味で地道で悪かったな」煙草をくわえたまま喋る。

「まだなにも言ってないですよ」

「違うのか?」

「それもちょっと思いましたけど……じゃなくてこの行為、吉見さん的には、どういう目的があるのかなと思いまして」

「逆に訊くが、なにをしているんだと思う?」

「えっと、人は忘れっぽいので、だからこうして写真を依りどころにして客観性を確保しているのかなぁ、と」

「もちろんそれもある。記憶というのはいい加減なもので、ディテールが抜け落ちたり、逆に、実際にはなかったものを捏造していたりする。人は物事にフィルターをかけて、見たいように見ているものだし。ほかには?」

「変化……ですか。事件からその後、どれだけ現場の様子が変わったか。間違い探しに近いんですかね? 草木が伸びていたりだとか、たとえばそこの空き缶。写真には写っていないので、事件があった日から今日までの間に誰かがポイ捨てしたのだとわかる。そして、事件にはなんら関係ないことも」

「そこまでわかっているなら、話は早い」

「では、正解はというと」

「ないものを探してる」

「はい。ええと、なにをですか?」

「ことが起きた時点ではあったそれが、今ここにはない」

「ああ、凶器」

「犯人もそうだ」

「そりゃまぁ、そうなりますよね。諸悪の根源ですものね」

「……ポンペイってわかるか?」

「えーと、あれですよね……火山の噴火に巻き込まれた街でしたっけ? たしかイタリアの。それが事件と、なんの関係が?」

「火山が噴火して、流れ出した火砕流が街を一つ丸々飲み込んだ。その後ポンペイは千年以上もの間、天然のタイムカプセルとでもいうのか、地中に埋まっていたんだと」

「のちにその一部が出土して、掘り返してみたら街があったという話でしたよね」

「火山灰に埋もれていたおかげで……おかげでというのも変だが、そのために保存状態が良く、当時の暮らしの様子が物件として今に残っている」

「そうですか」

「まだ火山灰が残るポンペイを調査している時、あっちこっちに妙な空洞があったらしいんだ。そこでなにを思ったか、その穴に石膏を流し込んでみよう、ということになった」

「人形焼の要領だ」

「そうだ。しかし、実際に取れたのはマジもんの人間の像」

「ということは……」

「空洞というのは、そこに人がいた痕跡。そこで人が生き埋めになって、長い時間をかけて土に還り、そして、人の形をした空洞だけが残った。で、その像は今、博物館で展示されているんだと」

「なんというか、興味深い話ではありますけれど、そのポンペイの話とこの写真が、どこでどう繋がるんでしょう」

「現場の周辺環境というのは、人形焼でいうところの型だ。中身がなくとも側はあるわけで、要するに、側を頼りに、欠落している情報を想像で埋めようという話だ」

「ははあ……現実とかけ離れてしまってはとりとめがなくなるから、それで写真と引き比べる、と。地に足の着いていない想像は、翼を広げてどこかへ飛んでいってしまう」

「そんなところだ」

「それで、なにかわかりましたか?」

「なーんにも」

「……ですか」

「ポンペイほどじゃないにしても出来事の痕跡というのは、なんらかの形で残っているはずなんだけどな。とりわけ犯罪は、人為的なものだし」

「ないものはないと」

「うん」いつの間にか吸っていた二本目の煙草の火をにじり消す。「そうとわかると、ここで油を売っていても成果は挙がらないし、いつまで経ってもなにもはじまらない」

「それでは……」

「聞き込みにでも行きますか」

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