天体観測
持ち主不在の吊り革が、揺れに合わせて一様に振れる。中吊り広告には、週刊雑誌のスキャンダラスな見出しが躍っている。乗客はまばらで、近くに座る青年のヘッドホンからは、微かに音が漏れている。
ブレーキがレールを引っ掻いて、金切り音が上がる。ドアを全開にして、乗客の入れ替えを行う。ヘッドホンの彼も降りていった。プラットフォームに発車ベルがけたたましく鳴り響いた。ドアが閉まり、足元が動き出す。
予備校の広告に転職エージェントの広告、肛門科クリニックの広告。看板広告が次から次へと車窓に現れては消えていく。ぐんぐんと加速していくために、やがて目で文字を追いきれなくなる。
立ち並ぶマンションや雑居ビルの間を、電車は走り抜けていく。吉見は、路線図を見上げる。目的とする駅までは、まだ何駅かあった。
せり上がってきた擁壁に視界が遮られたかと思うと、次の瞬間、電車はトンネルに突っ込んだ。一瞬にして車窓は、姿見に様変わりした。吊り革を握る吉見が映り、隣には、吉見より幾分か背の低い男が映っている。
捜査会議後のことだった。吉見が会議室から出ようとしたところ、上原に引き止められた。課長から天野を紹介され、挨拶もそこそこに本題に入った。
「先ほど、法医学教室の蜂谷先生から連絡があった。直接会って話がしたいとのことなので、君たちに行ってもらいたい」
「なぜ、私なのでしょうか?」
「それは……君がいいんじゃないかって。上原が」
上原の顔を窺うと、一つ頷いた。どうやら説明する気はないらしい。
即答するのは躊躇われた。というのも吉見は、検視の知識を持ち合わせていなければ、話に出てきた蜂谷との面識もない。要するに、吉見にメッセンジャーとしての適正はないに等しかった。それでも、三人の視線が返答を急かす。
「わかりました。行ってきます」
「おう、行ってこい」
車は全て出払っていたので、やむなく公共交通機関で行くこととなった。現場で見送った被害者に遅れることどのくらいか、車中の人となり搬送先の大学に向かっている。
引き受けたはいいが吉見はやっぱり、事情が飲み込めないでいた。話を聞くだけにしても人選ミスなのではないか、という思いは道中変わらなかった。
「それにしても、なんで俺たちが大学に行くことになったんだろうな」
「あぁ、それは蜂谷さん……法医学の先生と僕が個人的な知り合いだからなんです。付き会ってもらって申し訳ないです」
「それは別に構わないが、知り合いというのは、どういったお知り合い?」
「彼女のお兄さん」
たしかに個人的な知り合いだった。つまり蜂谷は、天野に用があるのであって、吉見はそれの単なる付き添いということだった。拍子抜けするくらい簡単な答えだった。疑問が氷解し、心持ちが軽くなった吉見は質問を重ねる。
「だいたい遺体が運び込まれたのだって、ほんの一二時間前だろ。それなのに呼び付けたりして、なにをしようというんだ?」
「詳しくは僕も聞かされていないのでわかりませんが……直にわかりますよ。だって今、呼び出した張本人のもとに向かっているんですから」
「たしかに、それもそうだな」
思い直した吉見は、車窓に目を転じる。どこにでもありそうな、しかし、はじめて見る風景がそこにはあった。
跨線橋の下を電車が走り、足元から振動が伝わってくる。改札を抜けた先のバス停で吉見は、時刻表と腕時計とを突き合わせる。どうやら出発したばかりのようで、次のバスが来るまでに多少の時間があった。
「どうする?」
「徒歩でも行ける距離ですよ」
天野がそう言うので、散策がてら歩いて行くことにした。大学が近いこともあって、学生らしき若者の姿が目につく。政治家が通行人に、マイク片手にこの国の現状を訴えている。残念ながら足を止めてまで耳を貸す者はいない。その周辺でスタッフが、忙しなくビラを配り回っている。吉見にも近づいてきたが、手を振りそれを断った。
前方から女の子三人が、喋りながら歩いてくる。距離が近づくにつれて、会話の内容が聞こえるまでになった。
「——みたいなんだよ。そういうわけで、夜空が暗いのは、星の光がまだ地球にまで届いていないからなんだってさ」
真ん中の子が身振り手振りを交えながら、両隣の友達になにかを説明している。
「でもさ、光速って言うくらいだし、遅かれ早かれ届くものなんじゃないの?」
左の子が疑問を呈する。
「そう思うでしょ? ところが、宇宙の膨らむスピードの方が光の速さよりももっとずっと速いんです。これが」
口調がどこか芝居じみている。
「光速っていったって、宇宙の広さからすると全然遅いくらいなんだよ。今見えている星だって、遠い過去に星が放った光なんだよね。それが、今頃になってようやく届いている。で、その光を私たちは見ている」
「一万光年離れていたらどうなるのよ」
「光が星を出発してからここまで来るのに一万年かかるのが一万光年よ」
右の子がへぇ、と感心する。
吉見も胸のうちでへぇ、と思う。
「だけど、その光がこっちに近づいてくるのより、あっちに遠ざかっていく方がもっと速かったらさ、いくら時間があったとしてもこっちには辿り着かないよね」
「それはそうかもしれないけどさ……」
「そんでもって、もはや観測もできないほどの遥か彼方のその向こう側のことを、事象の地平線って言うんだって」
「ああ、そこから先は知りようがないという意味で」と右の子。
最近の若者の話にはついていけない。
吉見たちの存在に気づいた右の子が道の端に寄ってくれた。女の子たちの間を二人は通り抜ける。
「それはまぁ、わかったよ。だけどさ、その地平線の内側にも、もちろんたくさんの星があるわけじゃん? でもそれにしてはあまりにも暗すぎじゃない、なんて私は思っちゃうんだけど」
「それは……」
「天の川だってさ、数えきれないくらいにめちゃくちゃいっぱい星があるでしょ。プラネタリウムで前に見たことあるし」
「そうだね。ほかにもアンドロメダとかなんとか星雲みたいなのが、次から次へと出てくるのが宇宙で、遠くに行くば行くほど星の数は単純に増えていくし」
「でもいつかは、事象の地平線に行き着いてしまうから……」
「ん~?」と、三人の声が重なる。
距離が開き、次第に三人の話し声が聞こえなくなった。
通学帽を被った数人の小学生が笑いながら、吉見の脇を駆け抜けていく。しかし、背中にはランドセルがなかった。遅れて、全員分のランドセルを身に付けた太めの男子が、そのあとを追いかけていった。
「オルバースのパラドックスでしたね」
「今の会話か?」
「なぜ夜は暗いのか」
「それが問題か?」
「ええ。地平線がどうのこうのについては、僕もはじめて聞きましたけれど」
「そうか……」西の空に沈みつつある太陽を見て思う。「とはいっても、夜になるのは地平線の向こうに太陽が沈むからだろ」
「それはそうなんですが、太陽が沈むと、今度は星が出てきますでしょ?」
「そりゃあ、出てきますわな」
「すると星々の光が地球を照らしてくれるので、夜は夜で明るくなるはずなんです」
「だからといって、現に夜は暗いだろ?」
「それでパラドックスなんですよ」
天野の言わんとすることはわからないでもないが、妙に引っかかるところがある。とはいえ、なにがどこに引っかかっているのか、吉見にはいまいちよくわからない。
「実際の問題文としてはですね、えっとたしか……」と天野は宙を睨む。「無限に広がる宇宙空間に無限の数の星が存在するのであれば、夜は星々の光に照らされるので明るい。それなのになぜ夜は暗いのか? こんな感じだったかと」
「無限無限て、無駄に話が壮大になってきたな」問いからして突拍子もなかった。「問題だけ聞くと特別おかしな点はなさそうにも思えるが……いや、それだと夜が暗いことに説明がつかなくなるのか」
「ええ、昔の人もそこのところで頭を悩ましたようですね」
アーケードの商店街を進む。時間帯が時間帯なので、スーツ姿の男二人が並んで歩いているというのは、少々場違いな感じがする。カゴに買い物袋をいくつも詰め込んだ、ライトが点灯した自転車とすれ違う。
「無限ねぇ、限りがないという意味だろ?」
「ええ、そうです」
「一つ確認しておきたいんだが、無限というのはどこから出てきたんだ?」
「まさしくそれです」
「無限?」
「そうです。ちなみに宇宙は今、およそ138億歳だという話です」
「そうそう、138億年前にビッグバンなるものが起こったんだもんな」
「それが宇宙のはじまりですね」
「ということは……つまり?」
「宇宙にははじまりがあり、成長し続けていて、今もなおその規模を拡大中なんですって」
「はじまりがあれば、終わりもある?」
「いずれは」
「いつ頃になる?」
「それはちょっとわからないです。いずれにせよ、宇宙は膨らんでいるとはいえ限りがあるので、決して無限ではない。そう言いたかったわけです」
「となると、星の数も」
「無限もない。無限の宇宙に無限の星、というそもそもの大前提が間違っていたわけなんですよね」
「ははぁ、問題設定自体がね」
「永遠に不変なる無限の宇宙。というのがその当時の常識だったので、そのために生じたパラドックスのようです」
「だが実際には膨らんでいたのだ、と」
「だからなんで夜が暗いのかといえば、無限がどうとかっていうレベルの話ではなくて、バカでかい宇宙の広さに対して、星の数自体が全然足りていないからみたいなんですよね」
「夜を照らし出すには」
「そういうことです」
「しかし、あれだな」
「なんでしょう?」
「夜が暗いことを説明するのに、なんでそんなに遠回りしなきゃならないんだろうな」
「ええまぁ、そうなりますよね」
商店街を抜けると、交通量の多い大通りに出た。トラックがタクシーが外車が国産車が往来し、オートバイが無骨なエンジン音を轟かせ、駆け抜けていった。
「それと、不思議に思うのがさ」
「はい」
「なんでそんな専門的なことを天野が知っているのか、ということなんだが」
「蜂谷先生からの受け売りですよ」
「法医学者なんだろ?」
「ええ、ですが科学全般に明るい方です。興味の幅が広いんでしょうね、きっと」
背の低い物件が軒を連ねるその一角に、鎮座ましましている大学の建物が見えてきた。駅近くですれ違った女の子たちから拝借した話題を展開させているうちに、目的地に到着していた。
勝手知ったる場所だからか、迷いのない足取りで進む天野の後ろを吉見はついていく。階段を素通りする天野に声をかける。
「解剖室に行くのか?」
「いえ、研究室の方に行きます」振り返りながら、「さっきの今なので、たいした処置もしていないでしょうし」そう判断した天野は、再び歩き出した。
廊下の両側に等間隔に並び立ついくつものドア。それが突き当たりまで続いている。人の気配はなく、二人の足音だけが廊下に響く。
「この部屋です」
天野がドアをノックすると、入ってまぁす。と、内側からくぐもった声が返ってきた。
ドアノブを引く天野に、先に部屋に入るよう促される。
「失礼します」
「いらっしゃいま……お?」
ワイシャツ姿の若白髪混じりの男と向かい合う格好になった。見知らぬ訪問者の登場に怪訝な表情を浮かべる。吉見の陰からノブを引きつつ室内に入ってくる天野を認めると、寄っていた眉根が開いた。
「こちら県警の吉見さんです。で、こちらが法医学者の蜂谷先生」
「ああ、そうでしたか。いつも天野がお世話になっています」
「あ、いえ、私たちもさっき出会ったばかりなので」
「そうですか。まぁ、とりあえず座ってください」蜂谷は二人にソファにかけるよう勧める。「そろそろ来る頃だと思って、コーヒー沸かして待っていた。ちょっと待ってて」
室内に入った時から、部屋の片隅で蒸気が立ち昇っていた。
パソコン、顕微鏡、学校の理科室にあるようなガラス製の容器、その他吉見には、使い道すらわからない機器が机の上に並んでいる。左手の壁は書棚が占めている。和書洋書問わず乱雑に収まり、ところどころ歯抜けになっていたり、ドミノ倒しになっている段があったりする。抜かれた歯は本棚の手前に積まれている。
西陽を受けて伸びきった木の影が窓から部屋に侵入している。枝葉末節が床の上で重なり合い、風に吹かれて音もなく揺れている。
「すみません。散らかっていて」
「そんなことは……」
蜂谷はカップを配し、テーブルを挟んだ向かいに座った。コーヒーを口に含んで、席を立つ。タブレット型端末を手にして戻ってきた。二、三回指先でタップして二人の前に差し出す。画面にはモノクロの人体が浮かんでいる。胴体部に複数の刺し傷があるのが見て取れた。
一瞥した天野が、「死後画像をして下さったんですね」
「ああ、それに加えて刑事に読影能力なんて期待できないから3Dに起こしてみた。こうした方が透明性が高くて良心的でしょ。CTだけに」
X線で人体を透かしている。というのと、説明の根拠が明らかにされている。というので、ダブルミーニングになっている。蜂谷の言う通り、CT画像のリテラシーなど持ち合わせていない吉見は説明を待つ。
蜂谷が腕を伸ばしてディスプレイに触れる。二指で押し拡げることにより、顔周りが拡大された。吉見は、そのデスマスクに見覚えがあった。先ほど現場で見た被害者と同じ顔をしている。
「死後画像診断と言いまして、遺体をCTに通して得られた情報をもとに、死因を特定する手法です」
という説明が、横に座る天野の口からなされた。それは一応俺の仕事なんだが……と呆れる蜂谷に天野は平謝りする。
「すみません、つい。では、続きを先生からお願いします」
「ったく。油断も隙もありゃしないな」
天野の気安い態度から、二人の親密さが窺える。天野はディスプレイに浮かぶ人体を反転させたり、伸び縮みさせたりと、指先でいじりはじめた。
「さて、気を取り直して……CT、X線で人体を輪切りにして検査する機械はご存知ですよね? それを亡くなった方に使用するというコンセプトです。腹を切らずして体内をチェックするという手法自体は、生者に対して行うのと変わりはない」
「腫瘍を見つけたり、骨折箇所を特定したりだとか」
「そんなところです。解剖する前にあらかじめ画像を撮っておくことで、ある程度死因の見当が付くんですよね。それをしないと、手当り次第に検めるハメになる。遺体が持つ情報というのは、事実には違いないのですが、そのほとんどはノイズですので」
捜査にも通じるところがある。ローラー作戦というがそれで、しらみ潰しに一つ一つ可能性を潰していくというのは、被疑者あるいは手掛かりを特定した上での捜査と比べて、時間と手間がかかる。
「予備知識としては、そんなところですかね」
「それで、この画像からどういったことが読み取れたのでしょうか」天野が催促する。
うん。蜂谷はコーヒーを一口飲んで、本題に入る。
「見ての通り有尖片刃器、要は片側に刃のついた凶器による刺創が胴体部に全部で十三箇所。体表について言えばそのほかに、これといって変わった点はみられないです。死因は出血死。それで致命傷はというと……致命傷となりうるものがいくつかありますのでね、これがそれだ、と断定することは現時点ではできかねます」
「これから解剖するかと思いますが、解剖して新たにわかることというと、どういったものになりますでしょうか?」
「解剖してわかることはといえば、胃袋の中身から、より正確な死亡推定時刻と最後の晩餐になにを召し上がったのか……それ以上はなんとも言えないですね。蓋を開けてみないことには」
そうですか……と言うのがやっとで、あとの言葉が続かない。吉見にしても手持ちの情報があまりに少ない。ちょっと見せて、と天野に言うと、タブレットをこちらへ寄せてくれた。
画面中央に人体が浮かんでいる。画面の下部にはスライダーがあり、右方向に動かすことにより、皮膚が剥がされ、筋肉が露出する。さらに動かすと、五臓六腑が剥き出しになる。バーを右端までスライド、つまり全ての組織を取り除くと、最後に骸骨が残った。空っぽの眼窩がこちらを覗いている。
「これ、刃先が身体を貫通していないようですが、もしかして凶器の長さがわかったりします?」
「ええ、そうなんです。それというのがノイズではない、意味を持つ事実なわけです」
「あの~、せっかく画像にしていただいたところ恐縮なんですが、この程度の情報しか得られなかったのでしたら、わざわざ被害者をCTに通す必要もなかったんじゃないでしょうか? 経費削減ということもありますし」
と、天野が元も子もないことを言う。
「ん~、たしかに外傷という外傷は、体表からでもわかるもので全てだったし、そう言いたくなる気持ちはわからないでもない。ただ、それについてはあとで説明する。その前にこの遺体、見る人が見れば一目で他殺体だとわかるんです。なぜだかわかりますか?」
「仮に自殺だとすると、ここまで多くの刺し傷を作る前に意識を失ってしまうから」
天野が即答した。
「それは簡単な方。もう一つある」
吉見は少し黙考して、それは……と言いかけて、実演した方がわかりやすいかと思い、立ち上がった。ついで天野を立たせ、被害者の役をしてもらう。
犯人役の吉見は、その場に突っ立っている天野の腹部めがけて、右手に握りしめた見えない刃物を突き立てる。右手親指の付け根と人差し指の側面が天野の身体に触れる。被害者がそうであったように、天野に対しても次々と突き刺していく。さすがに十三回も繰り返したりはしなかった。
「このように対面で刺さない限り、被害者に見られるような地面に対して垂直な刺し傷というのはできない。自分で自分の身体を刺すとなると、もう少し角度にバラつきがあってもいいのではないかと思います」
「ええおっしゃる通り、自殺かどうかの目安の一つに、刃物の侵入角度があります。二人とももう座っていいですよ」
「なんだか気分悪いなぁ」
天野は、ニヤニヤ笑いを浮かべながら席に戻る。
「悪かったって」
「まぁ、被害者役なんて貴重な経験、したくてもできるようなことではないですし、これから先もやる機会は来ないでしょうし」
別に構わないですよ。口ではそう言っているが、右手は腹を押さえている。
蜂谷は二人のやりとりを意に介さず、補足を入れる。
「人体の構造的に、自分の身体に垂直に刃を突き立てるとなると、刃物の形状にもよりますが、変な持ち方をすることになる。するとうまく力を加えられない。ここまで深くは刺さらない、ということになります。切腹がいい例ですが、あれは腹に平行に刃を入れるものですしね」
見えない傷が痛むのか、天野は腹をさすっている。今度飯にでも連れていって、腹に空いた孔の埋め合わせをする必要がありそうだ。吉見は、頭の片隅にメモをした。
「で、そうそう肝心の凶器なんですが、もう回収されていたりします?」
「まだ見つかっていないみたいですが」
「そうですか……しかし、その姿形くらいなら推測できないこともないんです。ちょっといいですか」蜂谷がタブレットを取り上げる。画面を操作し、吉見に手渡した。
画面上には、白いナイフが映し出されている。ただし、柄の部分が存在しない。
「CTは遺体内部を撮影できるので、遺体に残された創口から刃物の形状が割り出せるんです。さっき天野に画像にする必要はない、とか言われちゃいましたが、これは画像技術を応用している」
「捜査にご協力していただいているのにもかかわらず、勝手なことを言ってしまってすいませんでした」
「ちなみに柄がついていないのは、体外にあって、そもそも身体には痕跡が残らないからですね」
全体のサイズ感、切っ先の鋭さ、峰の厚さといい、本物とさほど変わらないといってよさそうだ。たとえば、3Dプリンターで復元させれば、それなりのペーパーナイフとして使えそうな感じがする。
「要は凸と凹の関係ですよね。人形焼みたいな」そんな感想を天野が漏らす。
「その刃物であれば、被害者の身体にあった刺創の全てが作り出せる。ご参考までに」
コーヒーを飲もうと吉見がカップを口元に持っていこうとしたら、底が覗いていた。口をつけることなくもとの位置に置く。それを目ざとく見ていた蜂谷が、
「もう一杯いかがですか?」
「ああ、いえ、構いません。そろそろお暇しますので」
「では最後に、どんな人物が犯人だと思いますか?」天野が訊ねた。
「残念ながら、遺体からそういったことまでは読み取れない。だいたいそれを突き止めるのが警察の仕事、だろ?」
「そうでした」
すっかり陽が落ち、床に落ちていた木の影もいつの間にか姿を消していた。
「ご協力ありがとうございます。コーヒーご馳走さまでした」
「と、そうそう忘れるところだった。お渡しするものがありまして……」蜂谷は立ち上がり、USBメモリを持って戻ってくる。「先程の画像のデータです」
差し出されたそれを天野に受け取らせる。
「後日、解剖結果をお知らせします」
部屋を出ようとノブに手をかけたところで、「亮、ちょっといいか?」と蜂谷が天野を手招きする。普段は下の名前で呼んでいるらしい。
吉見には聞こえないほどの声量で、短いやりとりを交わして戻ってきた。
「もういいのか」
「ええ。署に戻りましょうか」
「なにかありましたら、いつでも」
「失礼します」
吉見は会釈をして、部屋のドアを閉めた。
静まり返った廊下に、蛍光灯のみがいたずらに炯々としている。
「ずいぶん親しいみたいだな」
「そう見えました?」
「見えた。彼女の兄貴だったよな、そういえば」
「ええ、以前から顔見知りではあったんですけれど……のちにお兄さんだと判明した次第です。知った時には、世界って案外狭いんだな、なんてことを思いました」
「そうか」
妹であり、また彼女でもある、そのような関係性のうちにある女性が二人の間にはいるようだ。蜂谷の年齢から察して、おそらく年上の彼女になるのだろうと、吉見は勝手な想像を巡らせた。
落ちた陽に代わって、街灯が夜道を照らしている。
足元が楕円形の光で照らされていることに気づいた吉見は、脇に避ける。間もなくそこを自転車が通り過ぎていった。
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