無題 

 デパートの出入り口の辺りで、ボールみたいな赤くて丸い鼻をしたピエロが、子どもたちに色とりどりの風船を配っている。

 紐が小さな手にちゃんと渡らなかった風船がある。赤い風船の行方を、男の子とその子の母親とピエロと私が見上げる。澄み切った青空を背景に高々と飛んでいく風船を私は、見えなくなるまで見上げていた。視線を地上に戻すと、男の子とお母さんの姿はもうそこにはなく、ピエロは子どもに風船を配る仕事に戻っていた。


 私は、待ち合わせ場所を本屋さんにすることが多い。

 空調の効いた店内で立ち読みをする。それだけで、駅前にある変なオブジェの前で、ただいたずらに首を長く伸ばしているよりも、快適にしかも有意義な時間を過ごせると思っている。

 背丈以上の書棚に囲まれつつ、私はあてもなく店内をブラつく。これといってお目当ての本がなかったとしても、それでも本屋さんに来た時はいつでも、一期一会がないものかとどこかで期待している。

 背伸びをしたり、しゃがんだりしながら、背表紙のタイトルを眺める。そのうちの分厚く重たい画集を両手に抱え、膝の上で拡げる。ページをペラペラとめくり、裏表紙の値段を見て、そっと、もとあった場所に戻す。

 歳の離れた兄とのコミュニケーションツールが本だった。兄が子どもの頃に読んでいた絵本にはじまり、そのうち勝手に部屋に入って物色するようになった。難しそうな本にあえて挑戦し、ちっとも理解できないままに打ちのめされて、無為な時間を過ごしたりしていた。ところで本棚には、いかがわしい本の類は見当たらなかった。一応ベットの下も覗いてみたけれど、そこにもなかった。

 兄が蔵書とともに実家を出ていってからは、少しづつ自分でも集めるようになった。とりわけ自分とは縁遠い内容のものを選んできた。その理由に最近ふと気がついた。読書することで自分に足りない成分を補っていたのだ、と。それはどこか、サプリメントを飲むのに似ている。しかしそれで、空腹が満たされたりはしない。体験に勝る経験はないのだと思う、今日この頃。

 ところでそろそろ、合流してもいい頃合いな気がする。電話しようとケータイを取り出すと、ディスプレイに一件のメールの知らせが表示されていた。本を探すのに夢中になって、ケータイの震えに気がつかなかったらしい。

「やらなきゃならないことができたから、今日は会えなくなった。はぶあないすでい」

 だそうだ。ふざけた文面に思わず舌打ちが出る。

 舌打ちに反応した同じく立ち読み中のメガネの男性と目が合う。が、それは別にどうでもいい。

 私は二の次で、それどころじゃないということらしい。どうも軽んじられている。ささやかな抵抗として、メールは返してやらない。

 すっかり本を読む気分ではなくなった。何冊かキープしていたけれど、それももうどうでもよくなった。全部もとあった場所に戻して、レジスターの横を素通りする。

 せっかくおめかしして出かけたのに、得るものなしに帰るのでは、なんだか損した気がする。ひとまずフロアガイドを探すことにした。ブティックの前を通りかかる際、店頭に棒立ちしているマネキンの胸を、なんとなくすれ違いざまに鷲掴みする。手には固い感触が残り、そして少し、虚しくなった。

 エレベーター脇のフロアガイドによると、隣接する建物で展覧会が開かれているとのことだった。降下してきたエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。

 下の階で、年甲斐もなくはしゃぐおばさま方が乗り込んできて、私は奥へと押しやられる。プレタポルテをお召しになったおばさま方が身に纏ったブランド物の香水がブレンドされ、密室内に一階のコスメ売場を凝縮したような臭いが充満する。こういう時に限ってエレベーターはよく停まる。停まっても降りる人はおらず、かといって乗ろうとすればブザーが響いた。

 ようやっと目的の階に着いた。「す・い・ま・せ・ん」押しくらまんじゅう押されて私はもう、ほとんど泣きそうになりながら、横目で睨みつけられながら、エレベーターを降りた。湿気のある感じのぬくもりが、自分の身体に染み付いたような気がして嫌になる。乱れた呼吸を整える。

 降りた階で隣の建物とを結ぶ連絡橋を歩く。下に支えはなく、建物に挟まれているだけなので、高所恐怖症ではない私だけれど、それでも足がすくんだ。しかし当然のこと「ながら、何事もあっけもなく渡りきれた。フロアの奥に展覧会場はあった。

 人気はまったくなく、ひっそりとしていた。スタッフは退屈さのあまり、椅子に座ってうつらうつらしている。ほとんど貸し切り状態だった。

 一枚また一枚と、私は絵の前を次から次へと通り過ぎていく。

 どれもこれも、面白くもなんともない無難な仕上がりに落ち着いていた。静物や人物、抽象に風景。いかにもそれっぽいというだけで、決してそれではなかった。どれを取っても万事その調子なので、一周するのにさして時間はかからなかった。

 ……私は一体、なにを期待していたんだろう。

 その場に立ち尽くして、得も言われぬ虚しさに襲われていると、足音が聞こえてきた。パーテーションで仕切られているので、その人が観客なのかはたまたスタッフなのか、判然としない。会場を半周してパーテーションのこちら側にやってきたので、ちらと見ると、果たしてスーツ姿の男性だった。目が合った。すぐに彼は目を逸らして、絵の鑑賞を再開した。散歩をしているかのような足取りで、横目に見ながら絵の前を通り過ぎている。

 次第に存在感が増してくる。最後の絵、つまり私に近づいてきた。

 背後で立ち止まり、私の肩越しに覗き込む。邪魔をしちゃ悪いと思ったので、一歩横にズレる。私たちは隣り合う格好になった。彼は一歩下がって全体を眺め、二歩前に出て細部を見る。ん~? と、首を傾げて、なにか理解に苦しんでいる。

「ねぇ、ちょっと訊いてもいい?」

「わ、私ですか?」

 話かけられると思っていなかったので、間の抜けた返事をしてしまう。

「ほかに誰かいる?」

「い……ないですね」この空間には、私たちしかいない。「なんでしょう?」

「この絵なんだけどさ、なんの変哲もない絵のように見えるんだけど……なにがそんなに面白いの?」

「なにがそんなに面白い?」

「俺が絵を見て回っている間、ずっと君ここにいたでしょ? だからてっきり、この絵になにかあるのかな、とか思ったんだけど」

「ああ、いや。なにもないですよ」

「やっぱり? いやね、一通り見て思ったんだけど、せっかく表現の自由を手にしたというのに、描くのがそれかよって」

 と辛辣だ。

「たぶん、描くものがないんですよ。だけど、描くことしかできないから」

 私も大概だ。

「そっか、なるほど。どおりで」

「どおりで?」

「退屈なわけだ」

 見ず知らずの人と意見が一致した。

「だとすると、なんで君ここにいるわけ?」

「ええと、これからどうしようかなって考えていたんです。約束をすっぽかされてしまったので仕方なく、ここで退屈をしのごうと思っていたんですけれど……」

「しのげた?」

「全然」

 そう言うと、ふふっ、と笑みを浮かべた。私もとりあえず笑っておく。腕時計を見ながら、しかし当てが外れたな。と、彼はつぶやいた。

「ところで君、一人? だよね。約束をすっぽかされたんだから」

「え? まぁ、一人ですね」

「それで、どうかな。もし時間あったら、お茶でもしない?」 

 新手のナンパだった。突然の展開に私は戸惑う。

 俯いて黙っていると、嫌なら嫌で全然構わないんだけど。とか言ってくる。

 断ったらあとはもう帰るだけで、帰ったところですることはないし、誘いに乗れば、少しは退屈も紛れるかもしれない、迂闊にもそう思ってしまった。怪しげな勧誘だったり、壺でも買わされそうになったその時は、トイレに行くフリをして店から出てしまえばいい。私はお気楽に考えることにした。

「お付き合いします」

「そうこないと」

 彼の後ろについて、展覧会場をあとにする。

 この手の誘いは、いつもであれば無下に断っている。なのに、そうしなかったのは、気分に浮き沈みがあったせいで、物事の分別がいい加減になっていたからではないかと、そう思わないでもなかった。


 エレベーターに乗り込み、彼は一階のボタンを押した。

「外回りの人間には、どこか時間を潰せる場所が必要なんだよ」

「そういうもんですか」

「同僚に出くわさない、それでもって、呼び出されたらすぐに出られるようなところが一番いい」

「で、あそこにいたというわけですか」

「そういうこと」

 お茶をする場所ならデパートの中にもあるというのに、なぜか出入り口の方に向かっている。少し疑問に思ったが、口には出さなかった。彼に任せることにした。

 建物を出ると、さっきのピエロがヘリウムボンベで風船を膨らませていた。

「ここら辺で、行きつけのお店とかあったりする?」

「ないですかね」

「それじゃあ、行き当たりばったりに歩きますか」

 しばらく通りを歩いているとカフェを見つけた。しかし、そこには行列ができていた。

「並ぶの平気?」

「あんまり」 

「なら次行こう」

 アリが甘いものに行列を作るのは、仲間のお尻から出たフェロモンを嗅ぎつけてのことなのだという。行列を目の当たりにして、心無い想像がよぎる。

 ショーウインドウに隣り合う二人が映る。人の目に私たちはどう映っているのか、少し気になった。

「いくら頑張ったところで、おそらくはきっと、報われないであろう徒労でしかない。他人からそう思われていたとしても、本人が納得しているのであれば、それはそれでいいのかな?」

「それは……別にいいんじゃないでしょうか。だって、なにをしようとその人の自由で、勝手なんですから。で、えっと、なんの話です?」

「展示されていた絵の話」

「ああ、どうなんでしょうね」

「かくあるべしっていう型の中で縮こまっているように見えた。しかしまぁ、その方が評価されやすいというのはあるのかも」

「才能のあるなしというのは、ある程度やってみないとわからないものですし、才能がないことに気づいた時には、もう引き返せなくなっている。なんてことはよくある話で、聞き飽きた話でもありますね」

「世知辛いね」

 そんなやりとりをしていたら、あそこなんて、どう? と、向かいの通りのカフェを指差して言った。


 店内を見回してみると、そのほとんどが女性だった。男の人は、いてもペアという客層だった。ウェイトレスに窓際へと案内される。彼は手前の椅子にかけて、私に奥のソファ席を譲ってくれた。

 メニューを横にして二人で覗き込む。注文を受けたウェイトレスは、厨房へと引っ込んでいった。

「なんだか絵に詳しそうな感じがするけれど、好きなの?」

「どちらかというと、好き寄りですね」 

「好みのタイプはというと?」

「なんでしょうね……」好きなタイプとか、考えたこともなかった。わりと雑多に見てきたので、とてもじゃないが絞りきれない。 

「いや、そんなに悩まなくてから」

 頼んだカプチーノとコーヒーが運ばれてきた。 

 カプチーノの肌理の細かい泡をすすってみたり、窓の外の走る車を眺めながら、考えを巡らせる。「しいて言うなら、毒のある作品は好きかな」

「たとえば?」

「たとえばと言われましても、具体的にこれというのは出てこないんですよね」

「煮え切らないねぇ」

 ちょうど会話が止まっている時に、ウェイトレスが銀のトレイ片手にやってきた。注文した品を配して、ごゆっくりどうぞ、と引き下がった。

 私が頼んだチョコレートパフェは、七層仕立てになっている。黒かったり、茶色かったりして、まるで地層のよう。その上に、とぐろを巻いたソフトクリームが載っかっている。ヘタを摘んでイチゴをくわえる。

 彼はパンケーキに琥珀色のメープルシロップを垂らす。なだらかな斜面を緩やかに下り、裾野のベリーがそれにひたる。ナイフとフォークで一口サイズに切り分けていき、そのうちの一片を口にした。

「毒? 毒ねぇ……なんだろ。フランシス・ベーコンとか? ほら、電気椅子にかけられて絶叫している男の人の絵とか」

「たしかその人、ローマ教皇かなんかだったと思いますよ、そんな人を電気椅子にかけるだなんて……」

「へぇ、あっそう」

 と、まるでどこ吹く風。本意ではなかったにしても、今のはだいぶ毒があった。

「じゃあさ、ワラスボみたいな生物の絵なんかはどう?」 

「ワラスボがわからない」

「目がなくて牙のある魚」

「ピラニアみたいな?」

「全然違う。どちらかというと、うなぎに近かったりする」

 言わんとしているモチーフはわかった。あれはむしろ、エヴァンゲリオン量産機に似ていると私は思っている。でも、どうせ伝わらないだろうから、胸のうちに留めておく。

「ベーコンはベーコンで好きですけど、どっちかっていうとあれは気味が悪いというような感じで、毒というのとはちょっと違う気もしますけどね」

「絵に関してはあまりよく知らないから、そうなんだとしか言えない」

 グラスの底まで届く細長いスプーンで、パフェを下層の方からほじくり返す。食感のアクセントであるアーモンドを、前歯で噛み砕く。

「毒で思い出したんだけど、知ってる? 最近の昔話って、子どもに悪影響を与えかねないという理由で、残酷描写が書き換えられているんだってさ」

「みたいですね」 

「シンデレラの姉が、王子様に見初められたいがために、ガラスの靴に合わせてかかとを切ったり、爪先を切ったりするような描写がなくなっているんだと」

「私が小さい頃に読んだシンデレラにはそのシーン、もうなかったですね」

「そう? 欲しいものを手に入れるのに、なりふり構わない感じとかさ、現代人も見習わなくちゃいけない部分なんじゃないかと思うわけよ」

 昔の人でも、そこまでするのは少数派だと思う。

「たぶんそういうことじゃない? 君の言わんとする毒というのは」

「それでも覗いてみたくなるような、後ろ暗い魅力を孕んでいる的な」

「いくらキレイゴトを並べたって、それこそ毒にも薬にもならないし」

「ですね」

「とはいえ、毒が抜けているからこそおいしく食べられるフグなんていうのもあるから、一概には言えないんだけどさ」

「え? あ、はい」

「いや、それを指して腑抜けと言うのか」

 軽口に思わず失笑してしまった。

 パフェのグラスを見つめる。アイスが溶けたり、かき混ぜたりしたせいで、層の境目がぐずぐずになっている。

「好きなものは、あとに取っておく人?」

「ん?」

「さくらんぼ。残しているから」

「ああ。嫌いなものは残す人」

「なら貰っていい?」

「どうぞ」

 私には、前から不思議に思っていることがある。一つの食べ物に対して、どうしてそれを好きな人がいたり嫌いな人がいたりするのか、ということ。さくらんぼは、はじめて口にした時から受け付けなかった。種だけでなく実まで吐き出した。だからそういうのは、遺伝的に決まっているものなのかと思いきや、兄は好んで食べていた。よく食べてもらっていた。ふいにそんなことを思い出す。

「フグの毒ってエサ由来なんですって」

「フグ自体に毒はないってこと?」

「なんでも、エサの方に毒があって、食事する度にちょっとずつ内臓に蓄積されていって、てことなんだそうです」

「塵も積もれば毒となるってか。本来なら無毒であるフグを、周りの環境が有毒にしているんだ。にしても、よくそんなことを知っているね」

「以前兄から聞いたことがあって」

「お兄さんがいるんだ。それで、フグ自体は毒の被害を受けないわけ?」

「耐性があるので、大丈夫なようです」

「そっか。しかしそれというのは、人間に対しても言えそうな気がする」

「どこら辺が?」

「根っからの悪人というのは、実はそんなにいなくて、罪を犯すも犯さないも周りの環境に左右されるところがある。どこまでその影響がみられるのか、蓋を開けてみないことには、なんとも言えないんだけれど」

「そういうもんですか」

「そういうもんだよ。生まれる場所も、育つ環境も自分では選べないわけだし」 

「そこでどうするかは自分次第なのでは?」

「それはそうなんだけど、果たして周りに流されない人間がどれだけいるのか」

 口の中が甘ったるくて、食が進まなくなってきた。身体も冷えてきたし。スプーン半分ほど掬って少しずつ口に運ぶという、もうほとんど作業になっている。

 彼はパンケーキの最後の一片で皿の上のシロップや生クリームやらを拭き取り、きれいにしてから口に入れた。

「ちょっと思ったんだけど、わざわざ毒のある作品にするというのはさ、作者自身の毒出しなのかもしれないね。デトックス」

「溜め込んでいたって中毒になるだけですし、なんらかの形で昇華できるのであれば、それに越したことはないでしょうね」

「…………」

「なにか?」

「いや、なんでも。ちょっとお花を摘んでくる」彼はそう言って、トイレに向かった。

 その後ろ姿を見送った私は一人、笑いの渦に飲み込まれそうになっていた。なにがおかしいのか自分でもよくわからない。お腹の底からこみ上げてくるものを、唇を引き結んで飲み込んだ。

 彼が戻ってくる頃には、どうにか笑いの発作は収まっていた。会話を再開して間もなく、喋っている最中の彼の口がふいに止まった。口を半開きにして固まっている。

 ポケットからケータイを取り出して、発信者を確認して電話に出た。

 一方的に話しかけられるのを彼は、はいはい、と面倒臭そうに返す。生返事するのを止めたかと思うと、ディスプレイを眇めている。どうやら相手方は要件だけ伝えて、電話を切ったようだ。

「はぁ……呼び出し食らっちまった。もうちょっと喋っていたいんだけど、そうもいかないみたい。ありがとね。おかげでいい退屈しのぎになった」

「こちらこそ退屈をしのげました」 

「ならよかった」

 立ち上がり、残っていたコーヒーを胃に流し込む。

「じゃ、また」

 私が財布を取り出そうとするのを制して、伝票を持っていって会計を済ませる。戸口で振り返って、私に手を振り、店から出ていった。

 残された私は、なにが、「また」なのだろうかと疑問に思った。連絡先も交換していないというのに。もはや液体と化したパフェを突っついている時にようやく、彼の名前すら知らないことに気がついた。


 それからしばらくして、近所でとある事件が発生した。

 アナウンサーの口から聞き馴染みのある地名が発せられた。中継カメラ映像の様子から、そこがどこなのかだいたいわかった。

 数日後、事件の記憶がまだ新しいうちに、その辺を歩いてみることにした。バス通りに面しているものの、まだ早朝だということもあって、人はおろか車も走っていなかった。献花が置かれていたので、そこが現場なのだとすぐに見当が付いた。けれども、痕跡一つ見当たらなかった。なんの変哲もない、ただのアスファルトに過ぎない。ニュースを知らなければ、素通りしてしまうような。

 散策していると、突然、後ろから肩を叩かれた。

 ビクっと一瞬、肩が震える。人の気配がなかったので余計に驚いた。おそるおそる振り返ると、知った顔がそこにはあった。

「いつかの君でしょ? どうしたのこんなところで? こんな時間に」

「……そちらこそ、なぜに?」

「警察官だから、怪しい人を見かけたら声をかけている」

「怪しかったですか、私? っていうか警察の方だったんですね」

「そういえば、自己紹介がまだだったね」 

 そう言って、警察手帳を前に翳した。

「で、なんでここにいるのか、まだ聞いていないんだけど」

「たまたま近所だったので、ええと……言いにくいんですが、あの興味本位で。まだ捕まっていないんですってね」

「だからこうしてパトロールをしている。犯人は現場に戻ってくるっていう昔ながらのセオリーがあってね……もしかして君が?」

 目を細めて、訝しげに見てくるので、私はブンブン首を左右に振る。

「冗談だよ」笑みを浮かべる。「でも一応、職質かけさせてもらうね」

 着の身着のままで財布すら持っていなかったので、口頭で氏名住所、生年月日と、形式通りの質問に答えていく。好きな映画は? 休日なにしてるの? 恋人はいるの? と、明らかに職務を逸脱した質問を受ける。冗談だとわかった上で私は、面白がって答えた。

「最後に、君の電話番号とメールアドレスを教えてくれる?」

 私が暗んじるのを、天野はメモ帳に書き留める。

「それじゃあそのうち、連絡するね。あとそれから、事件現場なんていう場所は、好奇心を持って来るようなところじゃないから」

「以後気をつけます」

 私たちは、手を振り合って別れた。

 早くも、その日のうちにメールが来た。メールを返しているうちにデートの誘いが来るようになって、いつしか下の名前で呼び合うようになって、付き合うようになって、やがては同棲するに至る。


 夕暮れの空に五時を告げるチャイムが鳴り響く。その音色で私は、今現在へと引き戻された。

「さて、洗濯物でも取り込みますか」

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