記憶の国のアリス
夕飯の後片付けを済ませた私は、食後のデザートにとリンゴを切っている。皮に切れ込みを入れてウサギの耳を作る。ソファを背もたれにしてテレビを見ている亮に差し出す。
「ありがとう」
「いえいえ」
亮にとってソファとは、座るものでなしに、寄りかかれるオブジェクトとして存在する。私は彼とは違い、ソファをソファとして座るものとして扱う。手を伸ばせば届くところに亮の頭がある。この微妙な距離感が、私を居心地よくさせる。
亮がおもむろにフォークに手を伸ばし、赤い耳のウサギを上から突き刺した。
テレビはブエノスアイレスの街を映している。現地の人々に混じってレポーターが街中を歩く。
背景に映る建物は、歴史を感じさせる重厚感ある石造りのものだった。
「あれ?」
見知らぬ街の風景に、どういうわけだか私は既視感を覚えた。
「どうかした?」
しかし、それを言ったところで共感されるかどうかわからなかったので、「ん~ん、なんでもない」
「あ、そう」
以前ほっつき歩いたパリの街に似ていた。様式だとか、外壁に施された装飾とかそういったものが、どことなくヨーロッパの建築物を思わせる。
画面の中心に街のシンボルであるオベリスクが来るように俯瞰しながら、ナレーションが入る。
「アルゼンチンにヨーロッパの人々が続々と流入してきたのが十九世紀後半。彼らの多くは、産業革命が起きたことにより職を追われた労働者。職を求めて三千里の旅路の末、遠く南米の地に降り立った。一方、受け入れる側である当時のアルゼンチン政府にも、労働力の確保と国の西欧化を推し進めようとする考えがあった。人と国、双方の思惑が合致したところに、移民の洪水と形容されるほどの人口増加が実現した。どこかヨーロッパ然とした趣のこの街並みは、その頃移住してきた人々によって築かれたもの」
「ホームシックが高じてホームタウンを造ったわけだ」亮がテレビと会話している。
「最終的には丸ごと一つの都市が造り上げられ、いつしかブエノスアイレスは、南米のパリと呼ばれるようになった」
なるほど、どおりで見覚えがあるわけだ、私は一人納得する。
テレビに触発され、フランスに行った時の思い出が蘇る。兄の研修旅行に、学校をズル休みしてついていった。日中、兄は現地の大学に行き、その間私は、足の向くまま気の向くままにあちこち巡った。休み明けにしれっと学校に通い出したけれど、気に留めるクラスメイトは誰もいなかった。
道端に設営された屋台の前でレポーターは足を止める。
「アルゼンチンの経済を支える輸出品であるとともに、よく食されているのが牛肉。その中でも今日は、ソウルフードとも言われるチョリパンをいただいてみたいと思います」
店員に声をかけて紙に包まれたパンを受け取り、グラシアスと返す。事前に払っていたのかどうか知らないが、今、代金を支払っていなかった。
「無銭飲食の現行犯だ」
亮も同じことを思ったようだ。「だよね、そうなるよね」
「ったく、現地の警察はなにをしているんだ」
などと、難癖をつける。
出来立てで熱いからか、右手、左手、右手と忙しなく持ち替えている。
「見た目はボリュームのあるホットドッグといった感じで、スパイシーな香りがもう美味しいですもん。では、いただきたいと思います」小さな口いっぱいに頬張る。「酸味の効いたソースと胡椒のピリ辛がお肉の旨味を引き立てていて、あとからハーブの香りが鼻を抜けて……シンプルな見た目とは裏腹に複雑な味わいがします」
食べるのに夢中のレポーターに代わって、ナレーターが説明を引き取る。
「バンズにチョリソーを挟んで、その上からチミチュリというソースをかけて食べるアルゼンチンのファストフード、チョリパン。チミチュリは、オリーブオイルにビネガー、ハーブなど基本となる調味料は同じだが、細かなレシピは作る店によって様々」
計画を立てて行動するのは私の性に合わないので、行き当たりばったりにとりあえず歩いた。行き着く先になにかしらあったので、暇潰しに事欠かなかった。くたびれたらカフェテラスで道行く人々を眺めていた。あちらのコーヒーは濃く、苦かったので、以来、ショコラショーを好んで飲んでいた。
遠く異国の地で一人きりというのは、心細くもあったけれど、それと同時に、このパサージュは一体どこへ通じているのかしらん、と呑気に弾む心もあった。
立ち並ぶ建物は、全体がくすんだクリーム色で様式も高さも統一されていた。どこもかしこも似たり寄ったりの街並みが続くものだ
から、異邦人の私は、今どこにいるのかわからなくなり、よく迷子になっていた。
一方テレビの中はところ変わって、えらくカラフルな路地を映している。
「赤、青、黄、緑、オレンジ……と、一人の画家の手によってカラフルに彩られた家々が続くここカミニートは、タンゴの発祥の地とも言われています」
映像は身体を寄せた男女に切り替わる。アコースティックギターの奏でる軽快なメロディーに合わせて踊っている。ステップを互い違いに入れ替え、ロングスカートが大きく翻った。
「まだ近場しか旅行に行ったことないよね」
「仕事の関係で、まとまった休みが取れないからな」
「じゃあ海外なんか、夢のまた夢かな」
「ん~、まだしばらくは無理ですかねぇ」
「そっか」
かつては駅だったという美術館にも足を運んだ。駅だったという来歴を私は、あとで知った。言われてみればという感じで、案外わからないものだ。
ガラス張りの丸天井から差し込む自然光の下、思い思いのポージングをした彫刻を見上げたり、背後にまわって粗を探したりした。出し抜けに現れたクールベの世界の起源には、閉口した。
地獄の門にへばりつく人の数を数えたりもした。蝶番がどこにも見当たらなかったので、たぶんあの扉は押しても引いても開かない造りになってる。
「カミニートからほど近い場所に名門サッカークラブ、ボカ・ジュニアーズのホームスタジアムがあります。ピッチが長方形であることからサッカースタジアムは通常、楕円形をしているものですが、このスタジアムは建設時に土地が確保できなかった都合上、半円形になっています」
真上から見た画が映し出される。レポーターの言うようにスタジアムは半円形に切れていて、道路を挟んだすぐ隣に住宅地がある。
「スタジアムの特徴的な形がお菓子の箱に似ていることから、チョコレートの箱を意味する、ラ・ボンボネーラの愛称で親しまれています」
試合前の様子が紹介される。
紙吹雪が舞い散るわ、発煙筒が焚かれ、観客席がチームカラーである青、黄色の煙に包まれるわ、爆竹が爆ぜ、火の手が上がるわで、度の過ぎたお祭り騒ぎの様子が画面越しにも伝わってくる。
「過去には興奮したサポーター同士が衝突し、死者を出すほどの事態になったこともありました。そのため試合当日は厳戒態勢が敷かれ、この辺りには多くの警備員、機動隊員の姿が見られます」
いつかきっとどこかで見たことのあるような絵の実物がそこにはあった。
ささくれ立った草原、浮き彫りになった波頭、その一つ一つの筆触が目に触れてきた。もうちょっと近づいて、ちょんちょんちょんと細かいタッチで原色のまま色を置いているのを見て取った。
帰国後、遅ればせながら美術の歴史的背景を調べはじめた。
昔の絵画に聖書や神話をモチーフにした作品が多いのは、依頼主が教会や王侯貴族だったからなわけで、要するに権威を誇示するためのものだった。そういう絵は総じて陰鬱で、しかつめらしくて、父権的な感じがする。女の人が描かれていたとしても大抵脱がされている。乳を放り出している。
そんな特権階級だが、権力にものを言わせて、好き放題に贅沢な暮らしを送っていたところ、いよいよ忍袋の緒が切れた市民に革命を起こされて、首から上がなくなったのだという。
番組がCMに入ったのを見て、「コーヒー入れるけど、いる?」
「じゃあ、お願いします」
よっこらせっ、と立ち上がった亮は、キッチンへと向かった。
それからというもの、絵画の買い手が王侯貴族から市民に取って代わった。それはいいとしても、教養が必要とされる宗教や神話を持ち出されても一般市民にはさっぱりわからない。というわけで、なにが描かれているのか一目でわかる絵が求められた。気軽に芸術に触れられるとあって、印象派の絵は世間に受け入れられた。画家が好き勝手に描いたものだから、鑑賞者も好き勝手に感じ取ればいいじゃない、という具合に。現代人が印象派を好むのも、たぶんきっと同じ理由によるものだと思う。
「ミルクと砂糖。ちゃんと入れてきたよ」
「ありがと」カップを手に取り、一口すする。「ん。おいしいです」
「ならよかった」
カメラが社会に浸透してきたのもちょうどこの頃。
十九世紀半ばから徐々に、歴史上の人物の肖像画が写真に置き替わっていたり、ルイス・キャロルが撮った、不思議の国のアリスのアリスのモデルの少女の写真が残っていたりする。誰が使ったとしてもそれなりに写るので、記録に残すだけなら画家はいらなくなった。それでは、カメラに仕事を奪われた画家がなにをしたかというと、写真には写らないものを描こうとした。
「目ってさ、形よりも先に光を感じ取るんだよね。つまり印象派の画家は、目の前にあるものの姿形を認識する、それ以前のまぶしい視界を描いたんだと思うよ」
印象派に関する本を読んでいる時に、
「なんの本を読んでるの?」
兄にそう訊かれて背表紙を見せたら、そんなことを教えてくれた。
「俺もメガネ外したら、視界が印象派になる。夜外を出歩くと、信号の光なんてビームになってちらつく」
巡った先をおさらいしながらスタッフロールが流れる。来週は特番があって番組自体がお休みで、再来週はプラハの街を紹介するそうだ。
同じ積み藁だというのに、朝と昼と夕の陽光の加減によって、天気、季節の移り変わりに応じて、違う色合いを見せる。外界という情報量の多い世界。目に映る全てのことはメッセージなのかもしれないけれど、さすがに多過ぎて両手に余るので、印象を掬い取って間に合わせた。そのようにしてできた作品はしかし、クラシカルなアカデミズムの世界からの評判はよろしくなかった。心無い言葉も浴びせられた。
「奥行きに乏しい」「立体感に欠けている」「お前の目にはそんな風に見えているのか」「腐りかけた死体みたいだ」「仕上げも不十分な描きかけの絵」「感覚的すぎる」などの厳しいご意見が寄せられた。
どんな褒め言葉よりも悪口の方が核心を突いている、ということはままある。印象派っていうネーミングもどこぞの評論家の揶揄がそのまま定着したって話だけど、あながち間違いでもなさそう。
突然、テレビ画面が真っ暗になった。
「あっ」
「あ、ごめん見てた?」
振り返ると、亮がリモコンを握っていた。
「ううん。考えごとしていたから」脳内トリップしていたので、途中からあまり意識してテレビ画面を見ていなかった。
亮がソファの隣に座る。
「あのさ……事件の捜査に関わることになった」
「うん。それで?」
「警察には守秘義務というのがあって」
「知ってる。捜査内容を明かせないっていう、あれでしょ」
「それなんだけど……。いやね、今回のは特にデリケートな事件だから、口にチャックを縫い付けておけっていうんだ」
口の端のチャックを左から右へと閉めるしぐさをする。
「ふぅん。でも、今までだってそうだったじゃん。どんな事件に携わっているとかそういう話、してくれたことなかったと記憶しているけど?」
口の端のチャックを右から左へと開けるしぐさをする。
「ここだけの話はいつしか周知の事実となる。誰の口が軽いとか、そういうんじゃなくて、壁にミザリー、障子にメアリーの双子の姉妹がどこで耳をそばだてていて、目を光らせているのか、わかったもんじゃないから」
冗談めかして言うので、ことの深刻さは感じられない。
「どこぞの姉妹は、今ちょっとお引き取りいただいて……じゃあ、なに? 私たちの間に会話がなくなるわけですか」
「いやそうじゃなくて、単に俺が聞き手にまわるだけだよ」
「普段の会話とどう違うの?」
「全然違うよ。まず俺がものを訊ねます。それに澪ちゃんが応じます。で、また問いかけて、それを返して、の繰り返し。これならほら、ね。俺の口から捜査情報が漏れない。捜査情報に触れるような返しがきたその時は、口のチャックを閉めるからさ」
「私が図星を突いてしまった時?」
「まぁ……そうなるよね」
「つまるところ、会話の主導権を亮が握るっていう理解でいいのかしら?」
「そういうこと。要するに、俺の質問が会話のきっかけになるわけですね。たとえば、今日の晩ご飯なに? とか」
「こんな夜遅くまでどこ行ってたの? とか、このピアス。誰の? みたいな」
「君のじゃないの?」
「私、穴すら開いてないんですけど」
「あ……いや、それは……あの」
口ごもって、弁解の言葉が出てこない。
「もういいよ。わかったよ」
「ともあれ、こういう感じ。逆質問はなしだけれど、コミュニケーションがまったくなくなるわけじゃないし、事件が解決するまでの間だから」
亮の言うことは理解できるけれど、そこまで徹底しなければならないことなのかな、とも思う。引っかかるところがないと言ったら嘘になるが、なにか事情があるものと察して、承知した。
「落ち着いたら旅行に行こうか。アルゼンチンにでも」
油が細かく弾ける。焼き色のついたベーコンをフライ返しでひっくり返す。私が朝食の用意をしていると、亮が目をこすりながら廊下に繋がるドアを開けた。
「おはよう。もうちょっとでできるから待ってて」
「わぁった」
廊下を引き返して、洗面所へと向かった。
「……あれからちょっと考えたんだけどさ」
亮は、半熟の黄身を壊さないようにしながら、目玉焼きをフォークとナイフで切り分けている。
「なにを?」
「質問を」
「昨日言っていたやつ?」
「そう」
「どうぞ」私は、一口齧ったトーストを皿に置く。
「たとえばなんだけどさ。風景画を描く時って、どういう基準で場所を選ぶものなの?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「それは言えない。なぜなら、逆質問はなしだから」そう言って、口の端のチャックを左から右へと閉めるしぐさをする。
質問に対して疑問を持つのもダメらしい。「そういえば、そんなことも言っていたっけね」
亮は、フォークに載せた黄身を壊さないよう慎重に口へと運ぶ。揚げ足を取るようだけど今、口のチャックを開けていなかった。
「で、えっと風景画だっけ? 基本的には気分だよ」
「気分で描くものなの?」
「その時の気分に相応しい場所を探して、これだ、というのが見つかった時に筆を取る。でもって完成した絵には、その時の気分が反映されている、こともある」
「場所自体はどこでもいいわけ?」
「どこでもいい……と思うよ、私は。沈んだ気分の時には沈んでいるなりに、どんよりしたところを描いた方が雰囲気も出るしね」
「絵描きという人種は、綺麗なものを綺麗に描きたいものなんじゃないの? 知らんけど」
「誰が見ても綺麗だと思うものを、改めて絵にしてもねぇ。描くに値するような、自分にとって意味があるものを見つけないと」
手についたパンのカスを払って、皿の上に落とす。「そういうもんですか。それで実際に、絵にするとなると?」
「絵になる構図を風景の中から切り取る。アングルだったりものの位置関係なんかがね、もうすでに絵になっているのよ」
「描く前から半ば出来が決まっている」
「そうそう、まずもって見る目がないとね。キャンバスっていう限られたスペースの中に、なにをどう収めるかだから」
「ロケーションハンティングってのがあるけど、あれは?」
「似たような話だよ。あれだって画的に映える、映画なりドラマに使えそうな場所を探しているんだから」
「それはそうと澪はさ、風景画、描かないよね」
「昔の人が一通りやってしまったからね。今更感があるのよ。それに基本インドア派ですし」絵をはじめた当初は、実際に外に出て風景を描いてもみた。だけれど、すぐにやめてしまった。「同じことを、いつまでも繰り返していても、しょうがないしね」
「そっか……色々あるのね。ありがとう、だいたいわかったよ」
「いえいえ」
「ごちそうさまでした」食器をシンクに置き、その足で寝室に向かった。
私はテレビを点けて、食事を再開する。
「日中は、昨日よりも気温が高くなるでしょう。風は穏やかな南風で、雨の心配がいらない絶好のお洗濯日和です」
お天気キャスターがそう言うので、シーツと枕カバーを洗おうと思い立つ。
玄関で靴の紐を結ぶ亮に訊ねる。
「今日は遅くなるのかな?」
「…………」
この程度の問いかけであってもダメなよう。どうやら本当に、会話の主導権を取られてしまったらしい。会話をするもしないも亮次第、てなわけだ。
「行ってきます」ノブを捻り、ドアを押し開ける。
「行ってらっしゃい」
私はドアの鍵を閉めて、ベランダに出る。エントランスから出てきた亮に手を振り、見送った。
イーゼルの脚を開いて、キャンバスを架ける。スツールに座りはしたものの、なかなか筆を取る気になれない。どうしても、はじめの一歩を躊躇してしまう。一度歩きはじめてしまえば、あとは惰性で進むものなのだけれど……。
床に画材や資料の類がとっ散らかっている。そのうちの一冊の本に手を伸ばす。
エッシャーの画集。
本の中ほどに付箋が貼ってあった。開いてみると、「滝」のページだった。画集は私のだけれど貼った覚えはないから、たぶん亮が貼り付けたのだと思う。
備え付けの滝のある水車小屋。落下する水を受けて水車が回る。水はジグザグの水路を遡り、再度落下する。ゆく河の流れは絶えずして、しかし、もとの水に変わらず。鴨長明もびっくりの光景が画の中で展開されている。そんな芸当を可能にしているのが、ペンローズの三角形というやつ。
三本の角材の両端が直角に組み合わさってできたトライアングル。「滝」にはそれが三ヶ所、水路の曲がり角の部分に隠れている。ところがこのトライアングル、目の錯覚を利用した不可能図形なので、平面上でしか成立し得ない。
そんな三角形を考案したロジャー・ペンローズ氏が、「創造することは、忘れているものを思い出すことに似ている」と、どこかで言っていたそうだ。私にはこの言葉、思い当たる節があった。というのも、目の前にある対象を、愚直に描写することに関心を持たない私は、遠い記憶を辿り、脳みそからイメージを引っ張り出してきている。
絵を描いている時の私の心は、ここではないどこかにある。
雨が降った翌日の早朝。家と家との短い距離を、走っては止まり、止まっては走る新聞配達のバイクのエンジン音が、どこからか聞こえてくる。
とにかく虫の居所が悪かった少女の私は、パジャマのまま家を飛び出し、路地をほっつき歩いていた。その前日、彼女の身になにがあったのか、今となっては思い出せない。ただ、ひどく気分を害する出来事があったということだけ覚えている。
彼女が歩く後ろを、私はついていく。水溜りを彼女は跳び越え、私はまたぐ。彼女は濡れたマンホールに足を滑らせる。が、なんとか転ばずに体勢を立て直した。
青臭い植込みに目を凝らす。水滴の転がる葉っぱをひっくり返してみたりする。雨に濡れた蜘蛛の巣の近くにそれはいた。今では触ることすら無理なカタツムリに、彼女は平気で手を伸ばす。掴んだそれを、軽く握り締めてみる。殻の軋む音が悲鳴にも聞こえた。
カタツムリがよくブロック塀に張り付いているのは、殻を維持するのに必要なカルシウムを摂取しているからなのだそう。お食事中のところを失礼する。
一匹、また一匹と、見つける度に捕まえるので、そのうち手のうちに収まりきらなくなる。居場所を求めて、腕を這い上がってくる不埒なのがいる。こそばゆく、かつまたさすがに気持ちが悪いので、右手で押し留める。
曲がり角に差し掛かり、彼女の姿が消える。角を折れた先で彼女は、ブロック塀に次から次へとカタツムリを投げつけていた。感情の赴くままに、闇雲に。殻がくしゃっと音を立てて、脆くも崩れる。
空になった手を結ぶと、指の股の隙間から粘液が滲み出てくる。手の平を太陽にすかせてみれば、指の間に架かる銀白色の糸に光が走った。
多少なりとも気の済んだ彼女は、残骸には目もくれずその場を立ち去った。気泡混じりの粘液の粘り気を確かめるように、手を結んでは開いてを繰り返す彼女の小柄な後ろ姿を見送る。
遠ざかっていく足音があれば、近づいてくる足音もある。
ティーンエイジャーの私だ。
彼女は、側溝の蓋の上にできたカタツムリの山を見下ろす。おもむろに足を上げて、思いっきり踏み潰した。ぐっちゃぐちゃに踏みつける。踏みつける度に、私の足の裏にもその得も言われぬ感触が蘇ってきた。
彼女は膝に手をついて、不定形にうごめくそれを凝視する。「気持ち悪」
創作活動とは、感情的になって、キャンバスにその感情をぶつけることなのだと、この頃の私は勘違いしていた。
「さて」
彼女はもう用が済んだということで、カタツムリの成れの果てをそのままに、行ってしまった。靴底に刺さった殻の破片をこそげとろうと、右足を引きずって歩く。
かつての自分がしたこととはいえ、見るも無残な姿を哀れに思い、家から持参した塩を上から振りかける。すると、みるみるうちに身体中の水分が染み出して、輪郭が萎んでいった。
私は、目を閉じ手を合わせる。
目を開けて、尾行を再開する。少女の足、そう遠くには行っていないはず。そう思ったそばから、ティーンの私を見つける。まだ靴をジャリジャリさせていた。少女の私にしても、今の私の歩幅をもってすれば、追いつくことなど造作もなかった。
彼女は公園を突っ切って、目的の水道へと向かう。粘ついた手でカランを捻り、流れ落ちてくる水で入念に手を洗う。指先を爪弾いて水気を切った。
来た道とは違う道を通って、道草を食わずに真っ直ぐ家に帰る。
家に着くと彼女は、真っ先に洗面所に向かった。公園で洗ったとはいえ、水だけでは落とし切れない頑固なぬめり。石鹸を泡立てて、手洗いの基本に忠実に、手の平はもちろんのこと、手の甲、指の股、肘までしっかりと洗う。
階段を上がって自室の前まで来ると、兄の部屋のドアの隙間から明かりが漏れているのに気がついた。Don't disturbのプレートがノブに掛けられている。英語は読めなくても意味は知っている。しかし、彼女はそれを無視してドアを開ける。学生の頃の兄がそこにいた。
「札が見えなかったか?」
そう言われてしまったからには、出ていこうとすると、
「冗談だよ。どうした?」読みさしの本を伏せる。
「いや……明かりが点いてたから」
「消そうと思って入ってきた? それよか、朝っぱらから出ていたようだけど」
彼女はベッドに座り、外でなにをしてきたのか、兄にその一部始終を話した。
「楽しかった?」
「あんまり」
「年長者として一応訊くが、なんでそういうことをしたの?」
「むしゃくしゃしていたから」
「犯罪者みたいなことを言うな」
と、たしなめられる。が、しかし表情は、面白がっているようにも見えた。
「カタツムリ……カタツムリはだな、殻の中に五臓六腑を詰め込んでいる。人間でいうところの腹が殻だ」
「ならヤドカリは?」
昔から私は、なにか疑問を持つと、とりあえず兄にぶつけていた。なんでも知っていて、なんにでも答えが返ってきそうな雰囲気が兄にはあった。
「あっちは空っぽ。ヤドカリのように引っ越せないし、ナメクジのように殻なくしては生きられないのが、カタツムリ」
「ふ~ん」
「だから澪が壊したのは、殻であってただの殻じゃないんだ」
「別にカタツムリなんだからいいじゃん」
「それがよくないんだ。相手が無抵抗なのをいいことに、一方的に傷つけることを暴力という」
じゃあ、この持って行き場のない感情はどこにぶつけたらいいのよ、と言いたくなる気持ちを抑えて、彼女は話に耳を傾ける。
「カタツムリ投げたとて解決することなどなにもないし、なにが澪をむしゃくしゃさせるのか、その原因を突き止めないとね。ストレス解消なんていうのは、その場しのぎのただの八つ当たりでしかないんだ」
わかった? との確認に、彼女は渋々、わかった、と返す。
「それはそれとして、カタツムリは、雌雄の区別がない生き物として有名だな」
「なにそれ?」
「一匹のカタツムリが雄と雌、両方の機能を併せ持っている」
「それがなに?」
「カタツムリが二匹いて、互いに身体を絡ませていたら、刺しつ刺されつして精子を与え合っていると考えていい」
年端もいかない妹になに教えているんだと、私は呆れる。
彼女はじっと手を見る。自分の手の中でそういう状況になっていたかもしれないと思うと、ぞっとする。居ても立ってもいられず、再度手を洗いに部屋を出ていった。
兄が向き直り、部屋の隅で二人のやりとりを窺っていた私と目が合う。
「ほら、手がお留守になってんぞ」
ハッとする。
いつの間にか、うたた寝していたようだ。口角に溜まった唾をすすり、床に落ちている鉛筆を拾う。
真っ白だったキャンパスには、ラフな走り書きが描きつけられている。
部屋に差し入る陽の傾き具合から、だいたい十二時くらいだろうと見当を付ける。この部屋にはアナログ時計も、デジタル時計もない。昔ながらの日時計を採用している。
「さて、お昼にしますか」
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