青と黒とルビーの空

スエテナター

青と黒とルビーの空

 学級委員長の『青』はどんなときでも本を読んでいる“優等生”だった。勉強はもちろん、体育の授業も器用にこなし、音楽の演奏でも理科の実験でも、失敗することはなかった。学級委員長だからか先生もよく『青』に目を掛けていて、同級生たちもいざというときには『青』を頼りにした。

 おれは『青』が大嫌いだった。本ばかり相手にしている陰気な『青』が、どうして周りからこんなにちやほやされるのか、おれは納得がいかなかった。

 今日もおれが日直で教室に残っていると『青』と先生が何やら話し込んでいて、「じゃあ、よろしく頼むぞ」と、『青』は先生から何かを頼まれたらしいのだった。

 おれはむしゃくしゃしてガタガタ音を鳴らしながら乱暴に机を揃えた。黒板消しもわざと大きな音ではたいてやった。

 『青』は自分の席に座って帰り支度を始めた。あんまりのろのろやっているので、おれは教卓を叩いて『青』に叫んでやった。

「おい『青』、早く帰れよ、邪魔だぞ。日直が終わらないだろ」

 『青』は帰り支度の手を止めておれを見た。

「――『黒』、あとはぼくがやっておくから君は先に帰るといいよ。先生には気付かれないようにうまくやっておくからさ」

 優等生らしい角の立たないセリフにいらついたおれは思い切り『青』を睨んだ。その視線に文句でも言いたくなったのか、『青』は静かに席を立ち、かすかな足音を立てておれの目の前まで歩いてきた。

 おれは教壇から『青』を見下ろし、『青』は壇の下からおれを見上げた。透明な冷たい窓からルビー色の光が射していた。

「――『黒』、分かっているよ。ぼくのことが憎いこと」

 『青』の目が真っ直ぐおれを射抜いた。『青』という名前だけれど、こいつの目はオニキスの石のように黒い光沢を抱き、そこにルビー色の残照が重なって何とも言えない闇色の煌めきを放っていた。

 『青』は感情を殺した静かな声色でこう言った。

「ぼくだって、自分のことが憎い。大嫌いさ。人間なんて誰も信用できない。みんなずるいし、自分勝手だし、ぼくのことなんか少しも分かってはくれない。――特に大人はね」

 淡々と吐き出される恨み言におれは思わず息を呑んだ。優等生の『青』がかつて人前でこんなことを口にしたことがあっただろうか。授業は器用にこなし、先生にはかわいがられ、同級生には頼りにされる。――そんな『青』が、本心では誰のことも信用していないと言うのだ。

 『青』はおれから目を逸らし、ルビー色の空を窓越しに見上げた。夕日の光は冬の空気を吸って冷たく直線的な輝きを放っている。

「――本当は、ぼくも欲しかった。記憶もないほどのうんと小さい頃に、見返りを一切求められない、本当のあたたかい愛情を」

 あまりに抽象的すぎておれはその言葉をどうやって受け止めていいのか分からなかった。

 黒い学生服に包まれた『青』の肩がルビー色の光の中で透き通って見えた。

「ごめんね、変なこと言った」

 『青』は曖昧な微笑を浮かべてぽつりと呟くと身を翻して席に戻り、また帰り支度を始めた。

 離れた席に座る『青』の姿が小さく孤独に見えた。

「……ねぇ、人って、不思議だよね」

 引き出しの教科書を鞄に移しながら『青』は独り言のように言った。

「腹の中ではどんな汚いことを思っていても、表面上優しくしてあげればみんなその人の人柄を信じてくれるんだもん。ぼくはいい人間じゃない。本当は罪深い人間なんだ。君のように憎んでくれる人の方がよっぽど信頼できるかもしれない」

 『青』はそう言いながら黒い瞳を潤ませた。悲しいのか寂しいのか虚しいのか何とも判別できない瞳だった。

 おれはもうその場にいられなくなって、日直もそこそこに鞄を引っ掴んで教室を飛び出した。

 寒い帰り道だった。心臓や頭は燃えるように熱かった。

 ――あいつはみんなに好かれる優等生じゃなかったのか? 何一つ欠点のないいい奴なんじゃなかったのか? おれの聞いたもの、見たものは何だったんだ?

 何も分からずむしゃくしゃした。

 手のひらはルビー色の光に染まっていた。アスファルトには長い影が伸びていた。

 ガラス片が刺さったみたいに無性に胸が痛くなった。

 行き場のない叫び声が体中にこだましている。

 光も影も取っ散らかして、何もかも全部、本当に全てのものを曖昧の中にぼかしてしまいたかった。

 おれなんて消えてしまってもいい。

 『青』だって消えてしまってもいい。

 ただ透き通ったルビー色の光だけが残れば、この世はどれだけ綺麗になるだろうかと思った。

 校舎もグラウンドも、山もアスファルトも家々の屋根も、みんな冷たいルビー色に染まっていた。

 『青』の孤独で悲しげな顔が思い浮かぶ。

 あいつの本心なんて知りたくなかった。いつまでも憎々しい優等生でいてくれればよかったのに。

 おれはこれから何を憎んで生きていけばいいのだろう。むしゃくしゃする気持ちを憎しみという感情に預けて生きてきたのに。

 おれはやり切れなくなって、ルビー色の空を見上げた。

 空は何も言わずに目一杯光を抱き、その粒子を吸い込んでは吐き出し呼吸していた。

 『黒』という名前を持つおれには眩し過ぎる呼吸だった。

 まるで微睡みの幸福の中にいるように、空はゆったりとしていた。

 ――みんな知らないのだろうな。こんな気持ちを抱えて生きている人間が、この小さな町にいるなんて。

 そう思いながら、夕景の底でルビーの光を見上げた。

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