第17話
17話
葵音は、濡れた服を脱いで椅子の上に置き、ズボンだけを履いきタオルで髪を拭きながら買ってきたものをキッチンに置いた。
その後は、ソファに座ったまま頭にタオルを掛けて呆然と窓を打つ雨水を見つめていた。
後悔したのはその時だけで、冷静になると、あれが自分の気持ちだと葵音は気づいていた。
きっと今まで隠していた気持ちが爆発したのだろう。そんな気がしていた。
今までは彼女の秘密のせいにして、自分の気持ちに蓋をしてた。
けれど、いざ黒葉がいなくなるかもしれないと思っただけで、あの行動だ。
必死な思いが理性や冷静さを壊してしまった。
これで、葵音の気持ちはもう決まっていた。
むしろ、同じ屋根の下でよく我慢してきたものだと自分を褒めてやりたいぐらいだった。
けれど、肝心なのは、黒葉の気持ちだった。
彼女が自分に好意を持っているのは、わかりすぎるぐらいに理解していた。
けれど、彼女は自分から気持ちを伝えることはなかった。
今の状態のままで満足しているかのように、彼女は葵音の隣にいるだけで、幸せそうに微笑んでいた。
そんな彼女に手を出した。
キスはしたことがあったけれど、キスマークまで付けてしまったのは、ダメだっただろうと……と、考えが振り出しに戻ってしまった。
そんな事を考えているうちに雨は止み、少しずつ空に明かりが出始めていた。
「お風呂、ありがとうございました。」
少し気まずい様子で、黒葉が脱衣場から顔を出し、ゆっくりとリビングに入ってきた。
ほんのり頬が赤いのはお風呂に入ったからなのか、先程の葵音からの行為を思い出してしまっているのか。
けれど、彼女がこちらを見ずにモジモジする様子を見て、葵音は黒葉が恥じらっている理由がやっと理解出来た。それは、葵音が上半身裸だからだった。
そういえば、こんな姿見せたことなかったな、と思いながらも男慣れしていない純粋な彼女を見て微笑ましく思ってしまう。
「黒葉、さっきは悪かった。………なんか、おまえがいなくなりそうな気がしたんだ。」
「………いなくなる。」
「あぁ、そんな事ないのにな。」
「………。」
その言葉に黒葉からの返事はなかった。
葵音は俯いてしまった彼女に、優しく問い掛けた。
返事がないということは、いなくなってしまうのではないかと恐れを感じたのだ。
「………居なくならないよな?」
「……私は葵音さんと一緒に居たいです。」
「………。」
あぁ。
やはり彼女は、断言してくれないのだ。
「ずっと一緒に居る。」と。
嘘を付けないのは彼女の優しさなのかもしれない。けれど、黒葉がいつかいなくなるとわかっていて、何もできない。そして、その理由さえも教えてくれない。
泣きそうな顔でそう言う彼女に、もう何も問いただす事は出来ず、葵音は彼女に背を向けた。
「仕事に戻るよ。」
そう言って、作業場に戻ろうとすると、彼女が駆けてくる音が聞こえた。それでも振り向かずに、ドアに手を掛けた時だった。
背中に彼女の暖かい両手と、他の感触が伝わってきた。
それが額だとわかったのは、横にある窓に2人の姿がうっすらと写っていたからだ。
「体が冷えきってます。葵音さんもお風呂に入ってください。」
「俺はいい。風邪なんてひかないだろう。」
「ダメですよ。大切な仕事がこれから沢山あるんですよね?それに、私が心配なので………温まってきて来てください。」
「………わかった。」
黒葉の言葉の振動が体に響いた。
それから逃げるように、葵音は体を離すと彼女の事を見もせずに、脱衣場に逃げ込んだ。
葵音は彼女の悲しんだ顔など見たくなかったのだ。
いつもより静かな夕食を2人でとり、その後は葵音は作業場で仕事をして、黒葉は家事の後は自室に籠っていた。
いつもは、ちょくちょく作業場に顔を出す黒葉だったが、今日は一度も訪れなかった。
部屋の作業場の隅には、黒葉が練習でつくっているジュエリーがあった。
と言っても、粘土にも慣れていなかったので、紙粘土で練習したものが置いてある。
どれも歪で、お世辞にも上手だとは言えなかった。けれど、初めての道具を使いながら真剣に頑張る表情が思い出されて、葵音は微笑んでしまう。
「もっとあいつに教えてやる時間を作らなきゃな。」
そう言いながら、引き出しに眠る作りかけのジュエリーをそっと眺めた。時間があるときにコツコツとつくっているもの。葵音自身が満足して完成させるかはまだわからなかった。
けれども、葵音は確信していた。きっと、成功すると。
☆★☆
今日は新月の暗い夜だった。
昼間の雨雲はすっかりとなくなり、今は綺麗な星空が広がっていた。
今年の梅雨は、あまり雨も多くないのでよく星が見えた。
黒葉は、葵音から借りている部屋の窓から夜空を見上げていた。
キラキラの輝く星を何度見ていただろうか。
きっと黒葉は星を見るのが好きなのだろう。
だけれど、それは半分嘘だった。
星は好きだけど大嫌いだった。
「葵音さん………、どうしてあんな事したんだろう。」
昼間の事を思い出し、黒葉はまた顔を真っ赤にした。
突然のキスに、今でも鎖骨に残る赤いキスマーク。
それの赤い跡に触れると、何故か熱があるように感じてしまう。彼に唇を当てられたように。
彼の熱を感じるのは嫌いではなかった。
むしろ、体は喜び、気持ちも高まった。
それなのに彼に近づく度に、終わりが近くなってしまうようで、怖くなってしまうのだ。
葵音は少しずつ自分に心を許してくれているのもわかっていた。
口づけをしてくれるのは、もしかしたら………と考えてしまう事なんて、何度もあった。
けれど、そういう関係になってしまったら。
恐怖で次に進めなかった。
けれど、彼に触れられたい。
彼を独占したい。
好きになってほしい。
…………葵音の体温と香りと彼自身を感じたい。
彼と共にいるうちに、その願いが大きくなっていくのだ。
「葵音さんが好き。」
首筋に手を添えたまま、小さな声でそう呟いた瞬間だった。
葵音はまたあの感覚を感じて、両目強く閉じて、両手で目を押さえた。
涙がぼたぼたと大量に流れてくる。
「あぁ…………イヤっ…………いや…………。」
大きな声を出したら彼が心配してしまう。
それだけを思いながらも、目を押さえながらじっとその時間を堪えた。
涙が手や、腕、パジャマや床落ちる。
息を荒げながら、黒葉はその苦痛の時間を必死に堪えた。
★☆★
「黒葉…………?」
夜中にやっと仕事が終わり、寝室に戻る。
しかし、そこには黒葉の姿はなかった。
普段ならばすでに寝ている時間だったけれど、時々夜更かしをして本を読んだり、ジュエリー作りの復習をしている事があった。
「………今日は夜更かしの時間か………けど、そろそろ寝かせるか。」
時計を見ると、もう夜中の2時なる頃だった。
葵音はあくびをしながら、彼女の部屋に向かい、ドアをノックした。
けれど、返事がない。
寝てしまっているのだろうか?そう思いながら、葵音はドアノブに手を掛けた。
「黒葉………開けるぞ?」
葵音はそう声を掛けてからドアをゆっくりと開ける。
すると、黒葉が窓辺に佇んでいるのがわかった。夜空には星がキラキラと輝いているのに、光が薄い。今日は新月なのだろう。
暗い部屋の中でぼんやりと見えるのは彼女の横顔だった。
ゆっくりと部屋に入ると、闇に溶けてしまいそうな彼女に手を伸ばした。
「黒葉………。」
近くに来て、やっと彼女の顔が見えた。
黒葉の瞳からは涙が流れていた。
まっすぐに伸びた艶のある黒髪に白い肌には一筋の涙。
儚い表情の彼女の姿は、美術館に飾られているようなそんな神秘的な美しい絵のようだった。
名前を呼ぶと、黒葉は少し遅れて葵音の方を見た。
その瞬間に、彼女の顔は一気に歪んだ。
そして、そのまま葵音に抱きついてきた。
「………葵音さんが好きです………。」
彼女が涙ながらに溢した言葉。
それは葵音がずっと待ち望んでいたものだったのに、何故か泣きそうになってしまったのを、葵音はいつまでも覚えていた。
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