第5話
5話
今日の夜さえ我慢して、後悔してしまえば、きっと忘れられる。
葵音はそう思っていた。
けれど、時間が経つにつれて、焦りと苛立ちが葵音を襲った。
黒葉は確かに怪しくて、謎めいた女だった。
葵音を探していた理由はわからないままだったし、ホテル暮らしをしている無職の女というのも、不思議だった。
けれど、彼女が自分に向けた表情だけはとても素直で純粋なものだったように葵音は感じていた。
初恋の相手を見るような潤んだ瞳、キラキラとした希望に満ちた表情で葵音の作品を見て、そして葵音にすがりつくように泣く彼女は、とても無垢だった。
全部の事を話せない変わりに、全力で葵音に近づこうとする真っ直ぐな態度は、初めて恋をして必死な、ただの女の子のそのものだった。
そして、それを本心では嬉しいと感じている自分がいることに葵音は気づいていた。
たった数時間しか一緒にいないのに、心地よさを感じ、そして彼女をもっと知りたいと思ってしまった。年下の女に翻弄されているようで悔しくもあったけれど、それが葵音の本心だった。
けれど、葵音の過去の記憶がその気持ちの邪魔をした。
恋など面倒なだけで、遊べる女がいればいいのだと。
それでいいはずだった。
けれど、そんな気持ちの理由も、彼女は知らないのだ。
葵音が恋に臆病になっている事を。
そんな葵音が、少しでも彼女に惹かれたのだ。それは、あの日からどんな異性に会ってもなかった事だった。
黒葉を知りたい、触れたい、泣いてほしくない。そう思ったのは、紛れもない真実なのだ。
「あーー!!くそっ!!」
葵音は、髪をくしゃくしゃしながら一人大きな声を出すと、椅子から立ち上がり作業場から飛び出した。
スマホとジャケットと鍵だけを持ち、部屋を出る。
彼女が去ってから優に1時間以上経っている。もう深夜という時間に、彼女がどこに行ってしまったのか、葵音はわからなかった。
葵音は近場を走り回り、そして街中にいき空いている店を見て回った。けれど、どこにも彼女の姿はなかった。
もう、宿泊しているホテルに戻っているかもしれない。安いビジネスホテルとは言っていたけれど、そんなホテルは山のようにある。黒葉を探すのは難しいのだと葵音は思い始めた。
走り回ったせいで、呼吸も乱れ、春の冷たい空気が気持ちよく感じるぐらいに、体温は上昇し汗もかいていた。
葵音は、走る足を止めて息を整えた。そして、「考えるんだ。あいつが行きそうな場所を。」と心の中で自分自身に問いかけて、落ち着かせる。
彼女が行きそうなところは。
街中?いや、きっと静かなところだ、と葵音は思った。
そして、彼女が好きだったものは……星だ。星が好きな彼女がいきそうな所。女の足でも行ける近所を頭の中で必死に探した。
すると、葵音は1つピッタリの場所を思い出した。
「………あそこに居てくれよ!」
葵音の普段運動をしない体は悲鳴を上げていたが、それでも体に鞭をうって走り出した。
もしそこにいなければ諦めよう。そして、今度は俺があのコーヒーショップで彼女を待ち続ければいいのだ。
そんな事を考えながら、葵音は目的の場所まで急いだ。
葵音が向かったのは、閑静な住宅街の真ん中にある小さな湖がある公園だった。湖を囲むように沢山の木が植えられており、そこには散歩やジョギングを湖を見ながら楽しめるように歩道も整備されている公園だった。
昼間は人がいる場所だったが、夜は街灯もほとんどないので、人の姿はなかった。月の光を頼りに、葵音はその公園に入り、歩道ではなく湖の方へと向かった。
そこには人工の光は入らない暗闇の世界があった。光っているのは、月や星、そして湖の水面に映る月と星だけだった。
柵を越えて歩くと、水面ぎりぎりの湖畔にしゃがんだまま、夜空を見つめる人影があった。
黒い髪は、夜の闇に染まらず月の光を浴びて、キラキラと光っているように見える。
ゆっくりと近づくが、彼女は気づかないのかずっと上を向いたままだった。
「黒葉……?」
「っっ!!………あ……葵音さん……。」
葵音が名前を呼ぶと、体をビクつかせ、ゆっくりと振り返った。
その表情は、とても切なげで葵音の心をざわつかせた。
「何やってんだよ。こんな夜中に一人で………危ないだろ。それに、夜はまだ冷える。」
「………ここはとても綺麗に夜空が見えるから。いい場所ですね。」
葵音の言葉には返事もせずに、彼女はそう言いながらまた視線を夜空に向けた。
今、黒葉の瞳には星たちがきらめいているのだと思うと、綺麗なんだろうなと葵音は思った。
葵音は、自分のジャケットを脱いで彼女の背中にかけた。黒葉は薄着だったので、心配だったのだ。今日の昼間倒れたばかりなのだ、心配にもなるのは当たり前の事だ。
けれど、黒葉は葵音を見つめ、嬉しそうに微笑み、「ありがとうございます。」と言った。
「なんだか、葵音さんの香りがします。」
「……なんだよ、それ。俺は香水なんて使ってないぞ。」
「違いますよ。そういうのじゃなくて……鉄の香りがします。」
「………それって、あんまりよくないだろ……。」
「私は、好きです。この香りが………。」
黒音は右手で葵音のジャケットをぎゅっと掴みながら、そう言うとゆっくりと目を閉じた。
彼女が目の前で自分の香りを堪能しているからなのか、好きと言われたからか……葵音は少しだけ頬が赤くなるのを感じた。
「葵音さんの言う通り、やはり私が急すぎたんですよね。……恋愛したことがないので、ちょっと焦りましたし……大丈夫だと安心しすぎてしまいました。」
「大丈夫って、何が?」
「秘密です。」
苦しそうに微笑む彼女は、とても儚く見えた。
秘密ばかりで、理由も言わないのにまっすぐ自分だけを見てくれる彼女を、葵音は不思議に思った。
けれど、それに彼女だとそれを悪い気がしないのだ。
それが恋なのかはわからない。
けれど、惹かれ始めているの、隠しようもない事実なのだ。
黒葉を探し回ったことが、いい証拠だ。
葵音は彼女の横に座り、黒葉の方をを見つめた。
「うちに来るか?」
「え………。」
彼女はポカンとした横顔から、ゆっくりとこちらを見た。信じられないと言った顔で葵音を見返している。
「何だよ。おまえが居たいって言ったんだろ。」
「そうですけど……さっきは、断りましたよね。どうして、そんなすぐに。」
「……放っておけない……から。それに、家事やってくる人が欲しいと思っていたからな。それをやってくれるならいいかなと思ったんだ。」
かなり苦しい言い訳だとはわかっている。
けれど、葵音にはまだ恋をしようとする勇気はなかった。彼女の傍にいたいとは思う。けれど、まだ怖かったのだ。
昔と同じようになるのが。
人を信じないと恋愛は出来ないとよく言うが、本当にその通りだと葵音は思っていた。
彼女の反応を恐る恐る見る。
すると、目を輝かせて、葵音の腕をがっちりと掴ん見ながら葵音を見上げていた。
「やりたいです!やらせてください!」
葵音の思いに気づいているのか、気づいていないのかはわからない。
けれど、彼女の可愛らしい反応を見て、葵音はホッとした。
「あぁ。じゃあ、よろしく頼む。」
満面の笑みを見せる黒葉を見つめながら、葵音は少しだけ楽しみになっていた。
これから、黒葉との同居生活が始まるのだ。
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