亡霊の影に奪われる

 例えばあなたが人通りの少ない通りを、あるいは、月の光が照らさないような夜出歩く時、あるいは、1人で職場に残っている時、あるいは1人で森の中に入る時、あなたが気をつけなければいけないのは、生き物ではない。

 警戒しろ。

 あなたの名前も、地位も、記憶でさえも、亡霊はあなたの後ろから狙っている。決して1人にはならないことだ。もしもどうしても1人にならなければいけない時、蓋のできる中身の入っていない入れ物を手の届くところに置いておきなさい。そうすれば、あなたは身を守ることができるかもしれない。


 突如として語り始めた、助手として雇っているラシリに、怪訝な表情を向けてしまう。何が楽しいのか、その顔に満面の笑みをうかべ、トレードマークの真っ赤な髪を揺らしている。

 書類を読んでいる途中から語り始めたので、目を通していた書類の内容もほとんど頭に入っていない。

「いきなりどうした。世間に怪談話でも流行らせたいのか。今時流行らんだろう、そんなものは」

 もう一度書類に目を落とし、その内容を確認する。

「やだなー。先生だって一度くらい聞いたことあるでしょ?最近巷で噂になってる怪談話ですよ。流行らせたいんじゃなくて、もう流行ってるんです。僕が帰った後も1人になってるんですから、先生も危ないんじゃないですか?」

「それを言ったら1人で家に帰ってるお前だって危ないだろう。そんな与太話を信じている暇があったら、書類の整理でもしていろ。この前の要人警護のときの報告書をまだもらってないぞ」

 書類から目をあげることもなくラシリに言葉を返せば、不満そうなうめき声が帰ってきた。

「この前のケイビの仕事は先生もほとんど一緒だったから別に報告することなくなーい?それと、僕1人で帰るときはだいたいまだ明るい時間だし、商店街の中通ってるからだいじょうぶだもーん。それに」

 ふふふ、と笑い声が聞こえる。

「じゃじゃーん!!これがあるもんね!水筒!この前商店街のおばちゃんにもらったんだ!そろそろ暑くなるから、水分は持ち歩きなさいって!!」

 どうやら水筒を取り出したようだが、ラシリのそんな行動に興味はない。アルスは読み終わった書類を脇に避け、ラシリに目を向ける。

「じゃ、その水筒もってどっかに行かないとな。幸い今日は特別やらないといけないような仕事はない。シャルのところに挨拶に行くぞ」

 先日警護したお嬢様から、特別報酬は後日別途で渡すので、屋敷に顔を出して欲しいと言われていたのだ。

「えぇー……。あの人僕のこと子供扱いするから嫌いー」

「何言ってんだ。子供だろう」

「そうだけどさー。先生はあのお嬢様が美人だから会いに行きたいだけでしょ」

「その通りだが?」

「大人ってそんなだから嫌い。美人とおっぱいにはすぐになびくんだから」

 ほっとけ、と口にして、背もたれにかけていたコートを手に取る。その時になってもまだ口を尖らせていたラシリだったが、アルスが事務所の扉を開けると流石に観念したのか、先ほど自慢していた水筒を、いつも身につけている肩がけのバックにしまってついてきた。


「今日はやけに人通りが多くないか?」

「そう?そうかも。先生は人混み嫌いだから大変だねー」

「べつに嫌いってわけじゃない」

 自分が苦手なものを指摘され、思わず眉間にシワが寄ってしまう。その様子が、後ろにいてもわかるのか、ラシリが笑い声をあげた。

「これぐらいの人混みで弱音吐いてたら、お祭りの時とか大変じゃない?」

「出歩かないから問題ない」

「根暗だね」

 キラキラピカピカと自己主張しているような人間にはなれないので、別に根暗なぐらいでちょうどいい、と思う。

「いかん。ちょっと近道するぞ」

 人通りの多い道から、家と家の間にある、道とも言えないような細い隙間に体を滑り込ませるアルス。

「え、ちょっと!先生!さっきの僕の話聞いてた?」

 さて、子供の言うことはよくわからん。人混みの中をこれ以上進むくらいなら、多少汚れてもこの隙間を縫って歩き、シャルの住む屋敷に一刻も早く辿りつきたい。

 頭の中で地図を広げ、広大な城下の脇道抜け道隙間を通って目的地へと進んでいく。

 後ろからラシリの息遣いが聞こえてくるので、なんだかんだと言いながらついてきているらしい。

「む?」

 ふと、進む先の暗闇に気配を感じ足を止める。

「わっ!」

 足を止めたアルスの背中に、ラシリがぶつかった。

「ちょっと先生!急に止まらないでよ!」

 文句をいうラシリだが、アルスの様子がおかしいことに気がつき、口をつぐんでアルスの視線の先を見たのがわかった。

「え、あれって?」

「なんだ、お前には何か見えるのか?」

「先生には何も見えないの?見えないのに止まってるの?」

 どうやら後ろのラシリには何か見えているようだが、アルスの目には、ただ暗闇が広がっているようにしか見えない。しかし、それがそもそもおかしいのだ。今は太陽が昇っている時間であり、建物に遮られて光が届きにくいとは言え、目に見えて暗闇が広がっているのはおかしい。

「なにかあるのか」

「ぼ、亡霊だ。あれが多分噂の亡霊だよ。ど、どうしよう。このままだと全部奪われちゃう!!」

 怯えたような声を出しながらも、声の底にはどこか嬉しそうな感情が見え隠れしている。確かに危機的状況ではないが、楽しむような状況でもないだろう、と呆れる。

「おっと」

 暗闇が飛んできた。意味がわからないが、それが事実だ。それを壁際によることで避ける。半身になって、ラシリの様子が確認できたので、そのバックの中から水筒を抜き取る。常に開口されているタイプのバックでよかった、と思いながら、体制を立て直しているように見える暗闇に目を凝らす。

 そして、もう一度飛んできた暗闇に、水筒の口を向ける。

 ズロォ、という気持ちの悪い音とともに、暗闇は水筒の中に吸い込まれた。速やかに口を閉め、ラシリのカバンの中に入れる。

「え、ちょっと!え、どういうこと?!この水筒まだ使えるの?中どうなってるの?!」

 後ろで騒ぐラシリを煩わしく思いながら、アルスは足を早めた。

 シャルのいる屋敷まで、あと少し。

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