笑顔で消えるから泣かないで

「いらっしゃいませ」

 その店のドアを押し開くと、落ち着いた男性の声で出迎えられた。

 自然と声のした方へと視線が惹きつけられる。店内は、暖かい色の照明で照らされており、店の雰囲気を暖かくしている。その店内の、カウンターの内側で、メガネをかけた男性がこちらを見つめている。坂出は、店内を見渡す。

「全席現在は空いております。好きなお席へどうぞ」

 確かに、店内には坂出の他に客の姿はない。坂出は、店内で一番入口から遠い席へ向かうと、通路側の椅子を引き、そこへ荷物を下ろす。上着を脱ぎ、その椅子の背もたれにかけると、自分は壁を背にソファへと座る。

 テーブルのメニュー表を手に取り、冊子状になった表紙をめくる。

 すると、坂出がこの店に入るきっかけとなったメニューがそこにあった。それを見て、やはりあの入口にあった文字は見間違いではなかったのだ、と安心する。

「あの、この、『思い出の焼き鳥と卵焼き』お願いできますか?」

「はい、かしこまりました」

 店主の男性の声を聞き届けると、坂出はメニュー表に書かれた文字の意味を考える。そこには、『あなたの思い出の味。たとえあなたが忘れていても』、と書かれており、たとえそれが嘘だとしても、誇張だとしても、どうしても確かめたかったのだ。

 もしも本当に、あの時食べ損ねた味をもう一度食べられることができればこれ以上ないほど嬉しいことだし、もしも食べられなかったとしても、もともと食べられなかったはずのものだ。多少落胆はするが、それだけですむ。

「お待たせしました」

 声に視線を上げれば、店主が両手に皿と丼を持って立っていた。

 それほど長い間考え込んでいただろうか、と腕時計を確認すれば、店に入ってすでに20分が経過していた。店主の手で、皿と丼がテーブルに置かれる。

「あの、この丼とサラダは頼んでいないのですが……」

 テーブルには、坂出が注文したもの以外にも、白ご飯の盛られた丼と、サラダが置かれる。付け合わせで、キャベツの千切りが更に盛られることはあったが、今出されているのは、付け合わせで出すような見た目ではない。

「はい。ですが、お客様は『思い出の焼き鳥と卵焼き』をご注文されましたので。お客様がこの二点を食されるときは、ともにご飯とサラダが出されていたのではありませんか?」

 首をかしげる店主を呆然と見上げ、そしてテーブルの上に並べられたメニューを見る。確かに、あの頃、坂出が仕事から帰ってきて食事となると、いつも丼ご飯とサラダは付いていた。

 知らず、震える手で焼き鳥を手に取り、それを頬張る。

 あの頃の味だ、と呆然とした。

 続いて卵を箸で口に運び、あまりにもあの頃の味なので、自分がどこにいるのかがわからなくなった。

 夢中で食べ終え、食後に出された湯気の立つ湯呑みを手に取る。

「あの、いくらですか」

 メニュー表には金額が書かれていなかったのだ。

 新たな客が来なかったためか、カウンターの中で雑誌を読んでいた店主に声を掛ける。食べられないと思っていた味を、もう一度食べられたのだ。いくら請求されようが支払うつもりだった。

「いえ、お代なら結構です」

「……は?」

「一点、伝言がございます。『泣かないで』と、奥様から」

 それを聞いた時、坂出の頬を涙が伝い、どういうことか店主に問いただそうと立ち上がる。

 しかし、立ち上がった瞬間、そこは会社帰りに入った薄暗い路地で、先ほどまで感じていた温かさも感じない。思わず身震いし、周囲を見渡すが、少し離れたところに、椅子に置いたはずのカバンと上着があるだけで、他のものは何もない。

 カバンと上着をひっつかみ、あたりを探し回ったが、あの店主の暖かな微笑みも、照明もどこにもなかった。

 坂出は見つけ出すことを諦めると、誰もいない家へと帰るのだった。

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