36 アヤの全部を
満月の夜。
海斗は病室の窓際から、闇を照らす兎を見上げていた。
病院の消灯時間は、もうとっくにすぎている。
もちろん個室である彩乃の病室も、例外なく照明は消えていた。
ベッドの枕元に備え付けられたアームライトを照明がわりに。唯一のその灯りが、うっすらと二人の影を照らし出していた。
ベッドの上に座っていた彩乃は、窓際にいる海斗の方へ上体を寄せた。
すでに今日の分の投薬は終わっていた彼女。その腕から点滴の管は外されていて自由に動かすことができていた。
「……ねえ、カイ何見てるの」と彩乃は小さな声で囁いた。
自由になったその腕を使ってサイドガードにつかまり少し身を乗り出す。そして海斗と同じ方向を見上げた。
「わぁー、綺麗なお月様」
彩乃の声に気付いた海斗は振り向いた。そこには瞳を輝かせた明るい彼女の表情が。
ベッドから身を乗り出していた彩乃の顔が割と近くにあったので、海斗は意表を突かれてしまう。
「なーにボーっと見てると思ったら、そんなん黙って独り占めして見てるなんてズルい、アヤにもちゃんと教えてよ。でも、すごく真ん丸で明るいね。アヤもこうすれば、こっからだって見られるのよ」
さらに身を乗り出してきた彩乃。ふらつきながらもなんとか上体を支えている。
「お、おい。大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫! これくらいは余裕で踏ん張れるから」
と言った直後だった。彼女は「キャッ」と声をあげてバランスを崩してしまう。
長い闘病生活で腕力が衰えてしまったのだろう、彩乃はその腕で体を支えきれなくなっていた。
とっさに海斗が彼女の上体を支え、危うく怪我は回避できた。
「あぶないなあ、落ちたら大変だぞ。無茶すんなよ」
「ごめん、気を付けます。あ、ありがとうねカイ。うふふっ♡」
彩乃は反省したのと同時に、照れ隠しの表情を海斗に向けた。
「お、おう……」
至近距離でこんな顔をされると、男心としては、余計に心臓が跳ねてしまい収集がつかなくなってしまいそう。
抑えられなくなりつつある感情を、海斗は必死の思いで堪えようとする。
勢いあまってこのまま抱きしめてしまいたい。その考えが頭をよぎるも……。
ここは病院内だ。そして彼女は長く病と闘っている身である。抵抗できないくらいその力は衰えているだろう。
間違っても間違ったことをしてはならない、海斗は我に返って、改めて自分に言い聞かせた。
ちらりと彼女を見れば、潤んだ瞳がなぜか少しだけ泳いで動いているように見えた。
戸惑っているのか、それとも困っているのか。彼女の感情を読み取ろうとするも、全くもって察しがつかない。
このままではまずいと思った海斗は、
「あっ……、えっと、そろそろ僕は、帰ったほうがいいよね?」
と海斗が言うのと同時に、彩乃は首を横に振った。
「ダメよ! 今日は帰らないで」
力強く彩乃が言うと、「えっ!」と海斗が返した。
もうこんな時間だ。男女が二人っきりで密室に……いや、密室かといえばそうではないが、とにかく今のところ他人の干渉がないのは確かだ。
消灯になって他の病室ではもう眠りにつく時間。いくら個室とはいえ、勝手に騒いでいたら、それこそ怒られてしまうだろう。先ずそれ以前に、面会者がこの時間まで病室に居残っていることが問題なのだが……。
それを知ってか知らずか、彩乃は毎回、気にすることなく海斗を引き留めようとする。その都度、海斗は彩乃を振り解くように病室を去るのだ。
逆に、目を閉じて静かに眠り続けている日は寂しくなってしまう。
今日は病院に来る前から、彩乃が飽きるまで、帰れと言うまで付き合うと決めていた。病院関係者に注意されようと構わない。
最近の彼女の様子から、そうしなければと海斗は感じとっていたのだ。
そして彩乃の言った「今日は帰らないで」の言葉の意味を頭の中で反芻する。何度も。
そんな海斗の心の内を察しているのだろうか。
彩乃は先程のやんわりとした空気とは違う、重く張り詰めた雰囲気を出していた。
そして意を決したように、彼女は言った。
「……カイに、見てほしい物があるの……」
彩乃は、秘めた強い思いをぶつけるような、そんな真剣な眼差しを向けて、海斗の目を鋭く捉えていた。
海斗は彼女から目を逸らすことが出来ない。
さっと検査着の襟元に両手を掛けた彩乃は、勢いそのままで胸元をはだけさた。
あっという間の行動に、海斗は目を点にしたままだ。
大きく吐出した二つの膨らみがはっきりと露わになる。が、彩乃の脱衣動作は、まだ止まらなかった。
襟首をするりと背中へと滑り落とせば、あっという間に彼女の上半身は、胸に着けたブラジャー一枚のみになっていた。既に点滴の管が外されていた片腕は、容易に袖を外している。
「――――っ!」
突然の光景に、驚きと戸惑いが海斗の言葉を詰まらせた。
「……カイ見て。アヤはこんな……普通じゃないブラジャーをしているのよ」
背中をアームライトに照らされた彼女の胸元は、はっきりとは見えはしないものの、それでもなんとなくわかる。
目の前のそれは、海斗の知っている煌びやかな下着とはどこか違っているような、そんなふうにも見えた。
しかし、そう感じるだけであって、どういった違いがあるのか判らない。彩乃の言う普通じゃないの意味が、見た目ではわからなかった。
そして、ブラジャーの谷間にあるセンターボタンに手を掛ける彩乃。
構わずプチプチと外していく。
海斗は「ちょ、ちょっとアヤ?」と彼女を制止させるために腕を抑えた。
そんな海斗の意図を無視するように、すべてのボタンを外してブラジャーを脱ぐ。
ポトンっと、左胸からパットが落ちた。
「――――!」
露わになった彼女の胸。その姿を見た海斗は、言葉を失う。
「……そう、これが今のアヤ」
右側の乳房は、普通の女性のそれとなんら変わらない。いいや、それ以上に大きくて張りのあるふくよかなその形は、とても綺麗で美しかった。きっとどんな男性でも目を奪われてしまうだろう。
それとは対照に、何も無くなっている左胸。
鋭い刃物で切り落とされたかのように、その存在自体が消し去られていたからだ。乳房が無くなった地肌には、あばら骨の凹凸が浮かび上がっていた。
――まさに異形だった。
そして、もう一つ大きな塊に目がいく。
その異形を埋めるべく存在していたパットだ。
布団の上へと無造作に転がり落ちていたそれは、また別の意味で大きな存在価値を示していた。海斗はそれを目で拾いつつ、彩乃の胸を見比べてしまう。
彩乃の両親から左乳房の事は聞いていた。重々承知をしていて驚くことは無いだろうと高をくくっていた。
だが、実際に目の前にその光景が晒されると、衝撃を受けずにはいられなかった。
浅はかな自分の考えを悔やむ海斗。
そんな海斗に、虚ろな瞳が向けられていた。
異様な物を見て驚愕している表情を、憐れむ表情を捉えるために。いや、むしろドン引きされて、あらかさまな態度をとるんじゃないのかと。
彩乃は続けて口を開いた。
「昔ね……昔、アヤが聞いたこと覚えてる?」
「え? な、なにを?」
「カイは、お嫁さんにするならどんなヒトがいいの? って聞いたの、覚えてるかな。その時カイは何て言ったか覚えてる?」
昔。そう言われれば、確かにそんな事を聞かれたような気がする。が、自分がどういった答えをしたかなんて全く思い出せない。
顎に手を当てて考えてみるも結果は同じ。海斗は「……いいや、全く」と言うしかなかった。
「はぁ、やっぱりね。そうなんじゃないかなーって思ったの。でも、アヤはずっとその言葉、気にしてきちゃってたから。やっぱりそれが、アヤの唯一の目標だったのかなーって」
「…………」
「カイはね、おっぱいが大きな子がいいって言ったのよ。そういう女の子をお嫁さんにしたいって。それでアヤも、カイのお嫁さんとして相応しい女性になれるように、おっぱいおっきくなあれおっきくなあれって、ずっと思ってきたんだけど……それを……それを、あんな病気で、片方無くしちゃって…………」
彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。そして震えた声で、
「ごめんねカイ。こんなワタシで……ごめんね」
彩乃はそう言うと、項垂れて嗚咽する。
ボロボロと落ちる涙が、布団を湿らしていた。
上半身を晒し、みじめな思いをしているであろう目の前の彼女。
手術を受けた日から、海斗の言葉が彼女の心の負担となって、より重くのしかかっていたのだ。
今となっては他愛のない言葉でも、当時の彼女にしてみたら一大決心をさせる位の、相当に意味のある言葉だったかのかもしれない。
ましてや、直後に二人は離れ離れになってしまったのだ。その後の心変わりなど知る由もない。
今日まで彩乃の呪縛となっていたその言葉。それを今こそ解放しなければいけない。
海斗は雑念を払うかのように、がぶりを振り大きく深呼吸する。
意を決して、彩乃の肩を抱き寄せておでこをくっつけた。
「あっ」と彩乃は声を漏らす。
「僕はアヤが好きだ。大好きだ。だから……アヤがどんな病気にかかっていようが構わない。それが、難病だとしても、僕はずっとアヤの側にいたい」
「でも……」
「胸が大きい女の子が好きだなんて、子供の僕が言った事だろ? そんな人生の右も左もわからないガキの頃の発言じゃあ、今の僕には何の意味も無い。むしろ、その事実さえ忘れちゃってるから、更に意味が無くなっていると思う」
「じゃあ、いまのカイは、可愛い女の子がいいの? それとも料理が上手い子?」
震えた声で彩乃が問いかける。海斗は考える間もなく、即答した。
「勿論、僕は男だし、可愛い子も好きだし、胸がおっきな子も好きだ。嘘はつかない。でも、お嫁さんする子はちがう」
「う、うん」
「そりゃ、本気で好きになった人が一番いいに決まっている。今は当然アヤしか見えない。僕は、アヤにずっとそばに居てほしいと思っている」
「……えっ、あ、カイ? あ、ありがとう。カイのそれって、聞き方によっては、その……プロポーズ? に、聞こえるけど」
もじもじしながら彩乃がそう言うと、言われた海斗の顔が熱くなった。
「う゛っ……まあ、聞き方によっては、そう聞こえるかもな。うん」
「……でも、アヤは、おっぱいが片方無いんだよ? そんな女の子、気持ち悪いだけだし、なんの魅力も無いし、カイだってきっと……」
「バカ! たとえば、おっぱいが一個くらい無くったって、そんなの全然問題じゃない。むしろ、いいじゃないか希少価値があって。それに、二人だけの秘密が増えて、逆に燃えちゃうかもしれないぞ。そ、それに、アヤは十分可愛いし……さ」
「はうっ……ば、ばか。カイのばか」
涙を拭いながら、彩乃は恥ずかしそうにそう言った。
自分の言ったことが小恥ずかしくなり、海斗の顔が燃えるように熱くなっていた。
彩乃は海斗の手首をそっと掴み、その手を右乳房へ。
小さく「んっ」と彩乃は喉を鳴らす。海斗の掌に、温かく柔らかい感触が。
「ねえカイ」
「ん」
「前もこうやって、アヤのおっぱいを触ったんだよ、カイが」
「えっ、そうなの!」
「ふふっ、やっぱり忘れてる。ひどいね、男の子って」
彩乃は口端を釣り上げて微笑してみせた。
幼馴染を自分へと引き寄せ、魅了して虜にする小悪魔のように。
そして息を荒げた彼女は言った。
「ねえカイ……アヤを抱いて。おねがいカイ」
「――――ッ!」
「アヤの全部を、ありのままの姿を見てほしいの。そして、カイの体で感じてほしい」
「でも……アヤいいの? こんな所でさ。もう少し体調が良くなってからでも……」
「ううん、今日じゃなきゃダメなの。今のアヤを、カイを愛してる今のワタシを、全部受け止めてほしいの。だから、今じゃなきゃダメな気がする。後悔はしたくないのよ」
それは彩乃の本心だった。
迷いのないその言葉は真っ直ぐに海斗へと伝わった。
そしてもう一つ。
彼女にはもう時間が残されていない……。
そういった意味にも聞き取れたのだ。だから、
「わかった。アヤ、僕だって君を心の底から愛してるから」
海斗は真っ直ぐに彩乃の目を見つめて。熱い口づけを交わした。
そして、二人は布団の中に。
「こんな所、見つかったらさ……怒られるだけじゃ済まないよね、やっぱり」
「はぁ、大丈夫よ……今夜は……あン」
「え? どうして?」
「んん……それはね、えっと……やっぱり、おしえない」
「えぇー、アヤのケチ! ようし、こうしてやる!」
「やだ! ちょ、くすぐったいよ、やめ……ああ~ん、はぁ、はぁ、……ねえ、お願い、初めてだから……やさしくしてね」
「お、おう……」
その夜、二人は一つになった。
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