37 午後三時
午後三時の休憩時間。
いつものように海斗たち三人は、会社の屋外に設置してあるベンチ椅子に座っていた。
松下は数回煙草をふかしながら「はぁー、生き返るぅ」と言って天を仰ぎ、至福の時間を満喫する。
肺の中の煙を出し切ると、再びフィルターをくわえて、同僚二人の様子を視界に入れていた。
新村は相変わらずの強面に無精髭だった。その面持ちから松下と同様に、周りから愛煙家と見られがちだった。しかし、実は全く吸うことは無く、もっぱらコーヒーが彼の癒しアイテムだ。それもブラックというこだわり。
その横にちょこんと座る海斗は、もちろん煙草は一切吸わない。……というか、どうもいつもと様子が違っている。そう、松下の目に映ったのだ。
先ほどから手に持つ缶コーヒーを見つめながら、顔面崩壊させている。
「先輩、そいつ……なんなんすか? ニヤニヤしていて、気持ち悪いな」
缶コーヒーを飲む新村は、横に座っている海斗を横目で見つつ、
「なんか良い事あったんじゃねえの? 今朝からずっとこの調子でよ……どうも、浮足立ってるっつうか、うわの空で仕事も危なっかたし」
終始にやけ顔で、いっこうに缶の蓋すら開けようとはしない。そして先輩たちの会話すら、その耳に届いていない。海斗は完全に上の空だったのである。
松下は、その様子からハタと気付き察した。
指に挟んだ煙草から灰がポロリと地面へ落ちる。
「――先輩っ! もしかして渋川の奴、ようやく彩乃ちゃんと!!」
と、松下が三白眼を更に強めて、新村に詰め寄る。気圧され気味の新村は、顎の無精ひげを撫でながら言う。
「まあ、はっきりと渋川に聞いたわけじゃないけどな。でもこの様子だと、ほぼ間違いなくそうだろうよ」
それを聞いた松下は、新村と同じく顎を摩った。
「ほほう、最近は彩乃ちゃんとの仲、随分と悩んでいたみたいだったけど……そうっすか、ついにこいつも男になりましたか」
松下は、いかにもヤンキー風のその顔面を、悪戯にまみれのニヤけ顔に変える。
そして、一人ほくそ笑む海斗の脳天を平手で一撃。
「おいっ、渋川! やったじゃねえかこの野郎!」
「――痛っ! いきなりひ何するんですか松下さん、ひどいですよ」
海斗は叩かれた頭頂部を押さえながら、恨めしく松下を見る。
「何を言う、ひでえのはお前だ! そういう事はだな、真っ先に先輩の俺らに報告するのが筋ってもんだろう!」
ニタニタとしながら、冷やかし気味に祝福する先輩たち。
海斗は頭を擦りながら「す、すみません」と訳が分からないまま、とりあえず詫びをいれた。
後輩の肩を抱き寄せて「で? 彼女、どうだったよ?」と、いやらしい顔つきで松下が質問する。
そこで問われた意味をやっと理解した海斗は、曖昧な返事を返しつつ苦笑い。
耳打ちをしながらひそひそと、顔面は総崩れになりながらおのろけ話をしあう二人。
そんな、じゃれ合う二人の様子をしばらく傍観していた新村だったが、ふと真顔で海斗に問いかけた。
「でもよ渋川、彩乃ちゃんは入院中じゃなかったのか?」
「あ、はい……まあ、そうなんですけど」
「あぁ、それともあれか。外泊許可が下りたとか、一時的に退院して来てるとかなのか」
新村は疑問が解消されたかのように表情を変えて、握ったコーヒー缶を海斗に向けてそう言った。だが返ってきた答えは、
「……いや、そういう訳では無いです……一時退院とかはその、なんというか、その……」
海斗はそう言って、俯きながらもじもじする。
退院したかしないか、はっきりと明言せずに語尾を濁らす後輩。その様子から事情を読み取った新村が言う。
「え? まさかお前、病院のベッドでしたんじゃねえよな?」
その言葉に、海斗は顔を赤くしてコクリと頷く。
「おいおいおいおいおいおい! それはダメなやつだろ、なあ? そりゃ彼女の事好きだとしても、相手は入院中の病人なんだぞ、それを、自分の欲情に流されて……」
徐々に口調が強くなる新村。それを静止するように松下が横から割り込んできた。
「まあ、まあ、先輩、落ち着いてくださいよ」
「んだよ! お前、これがどういう状況か、わかってんのか? いくら付き合っているとはいえ、常識ってもんがあるだろ」
「……あ、はい」気圧された海斗は、ぽつりとそう言った。
「あれ? 先輩はそういう行為ダメなんすか?」
松下が次の煙草に火をつけながら言うと、眉間にしわを寄せた新村がギロリと睨む。
「ったりめえだろ! たとえ誰にも見つかっていないとはいえ、病院だってある意味公共の施設なんだぞ」
病院を公共の施設というのには語弊があるだろう。しかし、その病室やベッドはいつかは必ず誰かが入れ替わり使用する。布団だって療養のために取り換え、綺麗にしてくれている。
間違っても自分たちの欲望のために汚すことなど、新村にとってそれは許せない行為らしいのだ。
「んー、先輩の言い分も分からん訳ではないっすけどね。……けど、こいつらの事情もあると思うし」
「だからって、いい大人が常識外れなことして、恥ずかしいとは思わないのかよ。渋川の肩を持つお前も、常識知らずだな」
どうにも苛立ちを抑えられないといった感じの新村は、一気にコーヒーを飲み干す。
方や、批判されてもどこ吹く風。冷静なのか気にも留めていないのか、松下はゆっくりと煙を吐き出した。
「ええ、十分わかってるっすよ。俺なんて、常識知らずだし、世間からの外れ者っす。でも先輩、よくよく考えてみてくださいよ。……そもそもの話、今まで奥手だった渋川が、いきなり本能の赴くまま彩乃ちゃんを押し倒すとは、俺は、思えないっす」
「う゛……ま、まあ、言われてみれば、そうかもしれんけど……そ、そこんとこ、どうなんだよ渋川?」
「え? ……あの、アヤがしっかり回復してから……と」
それは嘘ではない。彼女の一日でも早い退院を、海斗は望んでいた。
「だろ! そうっすよ! 俺が思うに、まず百パ―間違いなく彼女からの誘惑で、渋川はそれに流された……ってな感じ。なあ、渋川」
海斗は目線は松下に向けたままで、その発言を肯定するでもなく否定するでもない。ただ黙っていた。
おそらくそれは、彼女の思うまま、あの場の雰囲気に流されてしまった自分への後ろめたさなのだろう。
だだ、自らの姿をさらけ出して、ずっと心の奥底に閉じ込めていた秘密を告白してくれた。その彩乃の気持ちを踏みにじりたくなかったのだ。
だからあの時は、ああいった形で応える他に手段は見つけられなかった。
……いや、そうしたかったのは、彼女を欲していたのは、やはり海斗自身だと。
「ほーらやっぱりね。俺の思った通りっすよ、先輩!」
「でもなあ、お前、病院のベッドだぞ、そんな所でだなあ、イチャイチャしていいもんかと……」
「いいんじゃないっすかぁ、若気の至りって感じで。時々、先輩はそういう融通のきかないっていうか、生真面目な所あるから、もうちょっと柔軟に考えたほうがいいすよ。マジホント」
「るせえなぁ」
「好きあってる者同士、お互いの愛を確かめ合う場所なんて人それぞれ。特に療養中の彩乃ちゃんにしたら、渋川の支えが一番っすからね。俺は良いと思うけどなあ~、つうか、羨ましい」
「ん、まあ確かに。その脳みそとろけちまったようなツラ見てるとな、苛ついてたこっちが空しくなるわ」
「おっ、こりゃ先輩もいよいよ本格的に、女が欲しくなってきたんじゃないっすか?」
「ば、バカ言え!」
「またまたー、最近若くてイイ女の子がいる店見つけたんで、今度どうっすか、一緒に飲みましょうよ」
「ん? それって、ぼったくりとか怪しい店じゃねえよな」
「全然大丈夫っ、むしろ普通に安いくらいっす。なんなら俺のボトルおごっちゃいますよ」
「お、マジか! んじゃ、今日の仕事終わったら行こうぜ!」
いつも通り、意気投合して仲良くなる先輩二人。お互い素直に言い合える間柄なのが凄いと、海斗は感心してしまう。
休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
煙草の火を消して「さ、仕事仕事」と言いながら立ち上がった松下は、自分の職場へと行ってしまった。
海斗と新村も立ち上がり、空き缶をかごに捨てると、自分たちの職場へと帰る。
――と、その途中。
「なあ、渋川」と新村が話しかけてきた。
「はい? 何でしょう」
「あんまりこういう事は言いたくないんだが……一応、俺は渋川の教育係でもある。で、その立場で言わせてもらうが」
「はい」
「彼女のことを考えるのは一向にかまわないが、仕事中は作業に集中しろよ。特に今日のお前は、傍から見ていても危なっかしいからな」
「……すみません」
「俺達の扱っている機械は、一歩間違えば怪我だけじゃなく、命を落としかねない。つい最近だってお前は怪我をしたばかりだから。繰り返し同じ作業でも、気のゆるみが大惨事を引き起こす、とくに慣れてきた時が一番危ない……その事だけは、肝に銘じておけよ」
思い返せば、つい最近の夏場でも、海斗は一度作業で失敗をしている。
たまたま飛んで行った工具が、海斗の腕に切り傷を付けた程度だった。あれがまともに当たっていたらと思うと、いまでもゾッとしてしまうのだ。
同僚たちにも迷惑をかけてしまい、もう二度とあんな事故を起こすまいと肝に命じたはずだった。
「……っと、すまねえな、つい熱くなっちまって……俺の悪い癖だな」
「いいえ、そんな……僕が悪いんです。集中して作業します。すみません」
その言葉を聞いた新村は「ん゛ん」っと咳払いをする。そしてギュッと口をつぐむと、小さく何度も頷きながら、海斗の肩をポンと叩いて自分の持ち場へと向かって行ってしまった。
海斗は、そんな先輩の背中を見送りながら、お辞儀をした。
たるんだ気持ちを入れ替えるため、背筋を伸ばし深呼吸。
自分の操作する機械を視界に収めると、海斗は力強く自らの持ち場へと歩き出した。
――すると直後、ポケットの中のスマホが震えた。
着信を確認した海斗の顔色が、見る見ると強張っていった。
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