33 彩乃の心の内にある秘密

 彩乃が目覚めてから、いつもの様に雑談をしていた海斗。

 気が付けば、もう面会時間の終わりが近づいていた。


「……じゃあアヤ、そろそろ帰るよ。また明日来るから――」


 と、言いかけた海斗の目に映ったのは、ついさっきとはまるで別人のような顔つきの彼女。明るい笑顔が一瞬で消え去っていた。

 思いつめた表情を浮かべながら、海斗の目にしっかりと視線をむけていた。


「…………」


 半開きの口で、何かを言いたそうな、そんな素振りの彼女。

 それを察した海斗は、立ち上がることが出来ず、じっと黙って待った。


 しばらくの沈黙のあと、眉尻を下げてふわりと笑顔を向けた彩乃が口を開く。


「……ねえカイ。アヤの話、聞いてくれる?」


 優しい口調とは真逆の、張り詰めた空気。

 おそらく今まで話す事の無かった、彼女の真実が語られる……そう海斗に知らせていた。


 海斗は視線を逸らさずに、小さく頷いた。


「…………実はね、カイに秘密だったことがあるの」


 きた! とうとうこの時がやって来た……そう、確信を抱く海斗。心臓がドクンと跳ねる。

 彩乃が秘密にしていた話となると、一つしか心当たりが無い。


 ――――それは、彼女が患った大病。つまり乳癌。


 五年前に発病し、左乳房を失った原因だと聞かされた。その傷は、いまでも彼女の心を苦しめているはずに違いない。

 今回の長引く入院と乳癌の因果関係は分からないが、恐らく何かしら関係しているのではないかと海斗は疑っている。そして、

 

 ――――五年生存率。


 母親の和恵から癌について聞いたその日にネットで調べた。すると、必ず目にするその文字。

 海斗も例外なく、その記述を見てしまう。一般的に、癌の発見時や進行度によってその確率が変わるらしい。彩乃がどの部類に当てはまるのか、海斗はずっと気になっていた。

 生存率なんて、あくまでも一般的な統計でしかない。そもそも元気で明るい彩乃が、それに属するなんて考えられなかった。でも――――。

 現実として、彼女はこうした長い入院生活を強いられている。


 いつか近いうちに、それが彩乃から明かされるのではと、海斗は覚悟していた。

 いざ本人の口からその事を告げられると思うと、覚悟以上のものが突きつけられるようで、おのずと身構えてしまう。


「――っ!」


「……あれ? 怖い顔して、どうしたのカイ?」


 強張った顔で目を伏せていた海斗。それを心配そうに彩乃が覗き込む。


「ぁ……いや、何でもないよ」


「そう? なんか顔色も良くないし……どこか具合でも悪いんじゃないの?」


 彩乃は、眉をひそめて海斗を気遣う。慌てて取り繕うように、海斗は口を釣り上げて作り笑顔を見せた。


「だ、大丈夫だよ……それより、アヤの秘密ってのを、早く聞かせてよ」


「……変なカイ。……まあいいわ、アヤのこと好き好きなカイだもん、どうしても聞きたそうだから、今日は特別に秘密を打ち明けるね」


「はは……そうだね、うん」


 本人から事実を聞いたからといって、今後の二人がどうこうなる訳でもないし、彩乃との接し方を変えるつもりはない。出来れば変わらぬ二人でいたいと海斗は思っている。

 ただ、知っていて知らぬふりをするのと、知ったうえでそれなりの接し方をしなければならないのは、大きな違いなのだ。


 海斗は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「これは、お母さんにも言ったことが無くて、アヤだけの秘密だったことで……」


 和恵が知らない事……海斗は「うん?」と言って、小首を傾げた。


「……ほら、前にカイの部屋で、アヤが論文書いていた時あったでしょ?」


 その日は、彩乃が常連客として通っている月影珈琲店を待ち合わせの場所に指定され、海斗は朝から勉強が終わるまで付き合うことに……なるはずだったが、結局三十分もしないうちに彩乃は勉強を投げ出してしまった。

 急遽、動物園へ行きたいと言い出した彼女に、言われるがまま車を走らせて、帰って来た日の出来事である。

 

「へ?」


 病気について、どんなことを聞かされても……と、身構えていた海斗だが、思いもよらない話から始まったので、思考が追いつかず、間の抜けた声を返してしまった。


「あれ? もーっカイったら、覚えてないの?」


「ん? ……あぁー……あった、よね、うんうん、ちゃんと覚えているよ。……確か、退屈すぎて、僕はその時寝ちゃったんだよ」


「そうそう! 人が真剣に勉強しているのに、失礼よね、全く」


「いや~、あんだけ静かだったら、寝ちゃうでしょ? 普通」


 その日海斗は動物園までの距離を、往復の運転をしていたのだ。疲れていてもおかしくはない。静かな部屋の中で、彩乃のキーボードを打つ音が、凄く心地良く睡魔が襲ってきたのだ。


「まあ、その件については、今は良しとしましょう。運転手は疲れちゃうしね」


 彩乃は、腕を組んで口をへの字曲げる。まるで会社の上司みたいに。

 海斗は背中を丸めて頭を掻いた。


「……で、アヤが言いたいのはね、その時にカイが読んでいた本の事なのよ」


「本? …………あぁー、ラノベの『マジ・ブレ』のことだよね」


「まじぶれ? って言うのね、あの本……変なの」


「まあ変っちゃあ変か。世間ではそう呼ばれているよ」


 ちまたで大人気のライトノベル『マジックソード・ブレイクス』の略語ある。

 出版当初から若年層を中心に人気があり、つい数か月前からテレビアニメも放映され始めた話題作。

 本々読書も嗜む海斗は、小説やライトノベルをジャンルを問わず数多く読破している。『マジ・ブレ』もその中の一つだった。

 ありきたりな剣と魔法の世界の物語。

 海斗がその本を読み出した切っ掛けは、陳列された表紙の絵柄に魅かれただけ。話題性とか内容云々とは関係なく、ただ何となく手に取って読み始めた。


 気が付けば海斗も世間と同様に『マジ・ブレ』の世界観に引き込まれて、ファンになっていた。新刊が発行されれば、発売日には購入していた。

 ただ最近は、自身の熱が幾分冷めたこともあり、六巻の途中まで読み進んだままになっていたのだ。


「そう、そのまじぶれ……って、お話に出てくる、可愛くて一番強い女剣士。いるでしょ?」


 第一巻の表紙絵にもなっていた美しき最強の女魔剣士だ。その絵に魅かれたから、海斗はそれを読み始めたと言っていい。


「あぁ、たしか……アウローラだったかな? 漆黒の剣を持った、世界最強の女魔剣士。未だ多くの謎で包まれているのが面白いんだよな」


 その物語は、現代社会から突如として異世界召喚された冴えない普通の男の子を主人公として進む。が、はっきり言って彼の立ち位置はモブキャラっぽく、謎多き女性アウローラの魅力を引き立てる役目と言っても過言ではないだろう。

 最強の女剣士の謎に隠されたキャラ設定が際立っていて、徐々にアウローラの人物像が明かされていく展開が面白いのだ。


「そう! その、まじぶれのアウローラって子。アヤも気になったから、いろいろと調べてみたの」


「へえー、意外だなあ」


 ああいった美少女が中心の物語は、大抵オタク男子の興味を引き付けるためだと思いたのだが、どこかに彩乃みたいな子もハマる要素があるのかと不思議に感じた。


「で、カイ仕事で家にいない時なんか、そのまじぶれって本がどんなんだか読んでみたわ」


 そう言われてみれば、きちんと本棚に並べてあった『マジックソード・ブレイクス』が、妙に乱雑になっていたのが気になった事がある。まさか自分がいない時に、彩乃が読んでいたとは思いもよらなかった。


「んで? 感想は?」


「うーん、確かに面白い物語とは思うけどねー、アヤにはちょっと無理かなって。アヤは普段、漫画しか読まないでしょ。活字だけじゃ眠くなっちゃう体質みたいで……」


「いやいや、所々、挿絵もあるだろ?」


「それって、たまにじゃない? アヤには効果無いよ。どうせならもっと見開きごとに欲しいわ、文章ページ、絵のページって絵本みたいにね」


 それだと物語が進まず、ラノベの魅力が半減ではと海斗は思う。まあ、入門者からしてみれば、それも有りなのかもしれないが。

 結局のところ、彩乃はそれ程読み進めてはいなかった。そう、結論付けられた。



 ――そこで、ふと、彩乃が何故こんな話を切り出してきたのか、海斗は不思議に思った。海斗の部屋で勝手に本を読んでいた、確かに秘密と言えばそうなのだが。

 海斗の期待していた、病気の事について全く関係ない。どう考えても今、この現状とは結び付かない話に、拍子抜けしてしまった。



「で、アヤはそのアウローラって子と全く同じ衣装を着た女の子の夢を見るの。それもここ最近は毎日のように」


「夢? 本当に? たまたまじゃないの?」


「それがちょっと違うのよ。普通の夢って、起きたら何となくぼんやりしていて、うろ覚えっていうか、記憶にそんなに残っていない。でも、彼女が出てくる夢は、起きた後もはっきりと鮮明に覚えている」


「夢の記憶は、個人差があると思うけど……その夢に出てくるアウローラって、あの絵と全く同じ人物なんだろ?」


「ううん、夢の中に出てくる彼女の顔は、絵とはちょっと違う。もっと人間っぽいの。剣とか衣装とかは絵と全く一緒。決まって夢の中に出てくるのは間違い無いんだけど……なんていうか、もっとこう、目に焼き付いて、頭ん中にはっきりと見えるのよ。曖昧じゃなくって……うーん、上手く伝わんないなぁ」


 その後も、身振り手振りをしながら説明する彩乃。イマイチ怪訝な顔を浮かべている海斗だったが、どうしても理解してもらいたい彩乃は、夢で見たことを事細かく説明をする。

 夢特有の曖昧な部分や、つじつまの合わない所は一切無く、細部に至るまで海斗に伝えようと。


 そしてその夢は、いまや現実と区別がつかないほどに、長く見るようになってきているという。


「ほら、アヤはついさっきまで寝ていたでしょ。その時も、彼女が目の前に現れてきたわ」


「それが例のアウローラ?」


「うーん、わかんない。……でも、多分そうだと思う。世界最強だって言ってるし、なにより、衣装や持ち物がまんま一緒だから」


「……でもそれって、あくまで夢の中の話でしょ? 今まで街で見かけたポスターとか、テレビのCMで見た印象とかで、脳に刷り込まれている。それが原因だと思うんだけどな」


 メイドカフェでアルバイトをしている彩乃なら、貼り出されているポスターを無意識に見ているだろうし、なによりオタクの客層からの強い影響も考えられられる。

 海斗の所持していた本からの印象で、より一層強くイメージが焼き付けられた可能性だってある。


「アヤは……五年前にね、半年くらい意識が無くなって、寝たきりになっていた時があったの」


「……!!」


 例の病気で、摘出手術した後の出来事だ。海斗は和恵からその事は聞いていた。

 この場では初耳ということで海斗は「え! そんな事があったの」と、驚いてみせた。


「そうなの。んで、夢の中の彼女が言うには、その半年の間、アヤはその彼女になり変わって、あっちの世界で生活していたみたいなの……」


「…………えっ? アウローラに扮装していたって事?」


「そう!」


「……まさか、そんな訳ないだろう。だってあの物語は、二年前位から始まったはずだし、それより前って事はおかしい。……まあ、あくまで夢で見た事だから、つじつまが合わなくても仕方ないのか……」


 海斗の記憶では『マジックソード・ブレイクス』第一巻が発刊されたのは、そのくらいのはずだと認識している。五年も前に物語が存在していたなんて、やっぱり何かの間違いなのではと考え至る。


「アヤも最初はそう思っていたの。夢で言ってたことなんて、あくまで脳内で作られた空想世界であって、何かのお話とごちゃ混ぜになっただけの幻だって…………でも」


 彩乃は頭を強く振る。長い黒髪が舞い上がるほど。


「何回も彼女と会って、話を聞いているうちに、五年前のその時の記憶が、段々とよみがえってきて……今は、その全部を思い出してしまったの」


「……全部?」


「そう、全部! …………自分でも不思議なくらい剣術が上手くて、殆ど魔物と闘った記憶ばっかりだけど、時には人を……」


「人? 人間!」


「そう、それも、アヤを殺そうと、大勢の悪い人間がアヤめがけて襲い掛かってきて…………殺した。全員殺めたわ!」


「――っ!!」


「そんな記憶、恐怖でしかない……でもね、その時のアヤは、何故か酷く笑っていたの。返り血を何度も何度も浴びながら、その度に」


 自らの肩を抱き、小さく震える彩乃。薄茶色の瞳の輝きも失っていた。

 海斗はそっと近づき、包み込むように抱きしめる。


「ねえカイ。怖い……怖いの自分が。このままあの、殺戮女になってしまいそうで――」


「アヤ……」


 彩乃は、嗚咽も漏らし泣き崩れる。

 胸に抱き寄せた海斗は、優しく彼女の頭を撫でていた。


 結局この日は、彩乃から癌についての話は訊けなかった。

 代わりに、彼女の心に秘めた悩みを知る。

 それはあまりにも現実離れし過ぎていて、海斗の想像する範囲を遥かに凌駕していた。現実と創作の物語とごちゃ混ぜになっている症状からして、深刻な問題なのは変わりないだろう。


 自分に出来ることは、彩乃の側に居て気を紛らわせてあげる事、それ以外にない。気休め程度なのだが。



 酷く取り乱した彩乃が落ち着くまで、海斗はずっと病室に付き添ていた。

 再び彼女が眠りについた時には、すでに夜の十時を回っていた。

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