32 秋風とスッピンの彼女


 海斗は仕事が終われば、決まって毎日のように彩乃の病室へと足を運んでいた。


 終業のチャイムが鳴るのと同時に、職場の同僚達へ挨拶をする。一目散に職場を離れて車に乗り込むと、まるで何者かから逃げるかのように去っていく。


 ほぼ日課となりつつある海斗の行動に、新村と松下はただ目を細めて見守るしかなかった。



 相川病院に着いた海斗は、いつものように駐車場へ車を停めた。

 車を降りた海斗は、吹き抜けた秋風に身震いをした。

 夕刻ではあるが季節は未だ秋口。あまりの寒さに海斗は空を見上げた。

 どんよりとした分厚い雲に覆われた空。今にも雨が降り出しそうな、そんな薄暗い天気だった。



 ガラリと病室のドアを開けて「アヤ、具合はどう?」といつも通りに彩乃の様子を伺う。


「あら? 海斗君こんばんは」


 帰ってきた返事は彩乃ではなく、付き添いで居た母の和恵だった。


「あっ! どうも……こんばんは」


 虚をつかれたといった感じで、驚き頭を下げる海斗。

 なぜなら和恵がこの時間まで居ることは殆ど無かったからで、海斗は完全に油断していた。


「ふふ、ごめんね海斗君。私はもうそろそろ帰ろうとしていたから」


 海斗の考えを察してか、そう言って和恵は視線を彩乃に向けた。


「……彩乃は今、眠っているの。目を覚ますまでと思っていたけど、なかなか起きないのよ」


 覗き見れば、ベッドの上ですやすやと眠る彩乃が。


「お昼過ぎからずっとこの調子なんだけどね……それでも、海斗君が来る時間までには目覚めると思って待っていたのよ……」


「……そうですか」


 和恵の話によれば、ここ最近は週に一、二回ほど、彩乃は日中眠ったまま起きない日があるらしいのだ。

 それでも、海斗が姿を現す時間より少し前になれば、不思議と目覚めていた。今日も和恵は、決まった時間に覚醒すると信じて待っていた。


 そして、彩乃は眠ったまま時が過ぎ、ついに海斗が姿を現すことに。

 海斗はこの日、初めて眠ったままの彩乃と遭遇したのだ。


「折角海斗君が来てくれたのに、この子ったら……困ったものね。毎日、彩乃のために海斗君がわざわざ足を運んでくれているのに……」


「いいえそんな……僕の家はすぐそこなんで、全然平気です」


「そう……あまりムリしないでね。いつも振り回されているのは海斗君の方なんだからね。そうそう、この子、割と神経図太い方でしょ? 一日や二日放っておいても大丈夫だから」


「フッ、そうかもしれませんね」


 和恵の言葉を聞き、思わず鼻で笑ってしまった海斗。

 確かにそれもそうだが、一日でも合わない日があれば、後日何を言われるかわかったもんじゃない。振り回される側の弱い一面なのだが。

 彩乃に不貞腐れて責められるのが目に浮かぶので、よほどのことが無い限り、毎日会いに来るようにしていた。



「さてと……海斗君が来てくれたから、私は退散したほうが良いようね。もしかしたら、私が嫌で目覚めないかもしれないし」


「そんな事、無いと思いますよ」


「わかんないわよ、どうせ小言いわれるくらいならと思って、狸寝入りと決め込んでるかもしれないじゃない?」


「…………」


「じゃあ、あとはよろしく。海斗君またね」


 そう言って和恵は病室を後にした。海斗は黙って頭を下げた。



 海斗はベッドの側にあるパイプ椅子に腰かける。

 静かな病室。

 彩乃の寝息だけが耳をくすぐった。


 そっと椅子を移動させて、彩乃の顔に近づく海斗。目覚める気配の無い彼女の顔をジッと見続けた。

 

 海斗はこんなに長く、彼女の顔を見続けるのは初めて。

 白く透き通った肌に、整った鼻筋、ふっくらと柔らかな唇。

 スッピンなのに、改めて見ても綺麗で可愛いとしか言いようがない。

 しかし……。


 丸みを帯びていた艶のある頬は、明らかに痩せこけていた。



「…………アヤ」


 静かに目を閉じて眠る彩乃が、このまま永遠に覚醒しないような、そんな不安に駆られてしまいそう。


 込み上げる感情を抑えきれず、海斗はそっとその頬に触れる。

 滑らかで柔らかい彼女の頬。

 唇にも指を滑らす。すると……。


「――んッ」


 彩乃の喉から唸り声が鳴ると、ふわりと瞼が開いた。

 ぼーっと天井を向いたままの瞳。まるで魂が抜けた人形のように、瞳孔が開いたまま動かない。

 海斗は少しだけ躊躇していたが、このままでいる訳にもいかないので声を掛けた。


「あ、アヤ……」

 

 海斗が呼び掛けると、薄茶色の瞳が声のする方を向いた。


「…………カイ……おはよう」


 とろりとした目の彩乃が、寝ぼけた声でそう言った。

 間の抜けた言葉にホッとしたのか、海斗は思わず鼻で笑う。


「ふっ、おはようアヤ。けど、今はもう夕方だけどね」


 寝ぼけ眼の彩乃は、薄暗くなった外を見た。


「ふぁ? ……えっ、ほ、本当に?」


「うん。あんまり気持ちよさそうに寝ていたから、スマホで撮っちゃったよ」


「え? う、嘘! こんなスッピンの顔? やめてよ! みっともないし、はずかしいからっ!」


 当然、入院患者である彩乃はメイクすることが許されていない。

 今でこそ海斗にスッピンの顔を見られるのは慣れてしまったのだが、入院当初はかなり抵抗があったらしい。布団に顔を隠しながら会話をしていたほどだ。


「全然みっともなくないよ。むしろ素の方が好きだけどなー、僕としては」


 彩乃は「う゛っ」と言いながら頬を赤くする。


「写真撮ったってのは嘘だけど、化粧していないアヤだって、十分魅力的だと思うなあ」


 ニヤリとする海斗を見て、更に恥ずかしさが増してのだろう、バサッと勢いよく布団の中に潜ってしまった。

 そして、目だけを出して海斗を見る。上目遣いで。


「むぅー、いじわる」


 可愛い仕草に、海斗はケラケラと笑っていた。

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