第3章 秋

31 退院したら……


「はぁー、なんだか外はイイ天気ねぇ」


「うん、そうだね」


 ある晴れた休日の午後。


 病室の窓に張り付いている彩乃は、ため息交じりに憂鬱な目で外の景色を眺めていた。海斗は横目で、彩乃の様子を伺っていた。

 

 相川病棟の一角にあるこの病室は、完全な個室仕様。彩乃が入院をした時からずっとこの病室だ。


 そう、意識を失って倒れたあの日から、彩乃は未だ退院できていなかった。


「だいぶ涼しくなってきたからかな? 葉っぱの色が少し変わってきちゃったね。あっ! カイ、見て見て! あっちの木は真っ黄色だよ。きれいー」


 彩乃は遠くの木々を指差した。確かに、少し離れた林のような所は、鮮やかな黄色に染まっていた。

 窓ガラスに額をくっ付けて元気にはしゃいでいる姿は、とても病人とは思えなかった。



 入院中の身ながら、彩乃の行動範囲は制限されておらず割と自由である。

 外出や外泊こそ病院の許可が無ければ出来なかったがその反面、病院の敷地内であればどこに居ようと、ルールさえ守っていれば何も言われない。

 しかしながら、本々行動派の彩乃にとって病院は狭く限られた空間である。変化に乏しい日々を飽き飽きしながら過ごしていた。

 それなりに広めな庭を散策するか、屋上でくつろぐか、共有スペースでまったりするか……。

 結局のところ病室でテレビを見ている時間が一番長かったりする。


「今日はいい天気だし、風も無いしさ、屋上に行って景色を眺めようよ」


 そう海斗が促してみたのだが、彩乃は首を振ってベッドに腰掛けた。


「……じゃあ、庭に出てお茶しない? ……あっ、ほら! あそこの茶色いベンチに行ってさ」


 芝生の片隅にあるウォールナット色のベンチが海斗の目に入った。まばらに行き交う人はいたものの、ベンチに座っている人は居なかった。

 丁度秋のやさしい日差しが広場全体を照らしていて、日向ぼっこするには丁度良さそうに見えた。


「……んー、でも……今日はイイや、なーんか面倒くさい。わざわざ外に出るのも飽きちゃったもん。こうやって、ここでカイとお話している方が良いかなーって。せっかくのお誘いだったけど、ごめんねカイ」


「あぁー……いや、アヤがそれでいいんなら……まあ、時間の許す限り僕はずっとここに居るからさ、好きなだけお話に付き合うよ」


「ありがとうカイ♡」


 そう言ってはにかみながら彩乃はベッドに寝転んだ。

 電動スイッチでリクライニングさせて上体を起こすと、掛け布団を胸まで掛けてニコリと微笑む。


 いい天気の日は、決まって病室の外に出たがる彩乃なのに……そう思った海斗は、彩乃の反応に心配しつつ、少しぎこちない笑いを返した。

 こうやって、彩乃が部屋を出たくないと言っている時は、大概あまり体調が良くない日だ。そういう日は病室で、のんびりと話をしていた方がいい。


 壁に立て掛けてあるパイプ椅子をベッドの脇に持って来ると、海斗はそれを開いて腰かけた。



 彩乃の入院する相川病院は、海斗の住むアパートの近くにある。行こうと思えば歩いてだっていける距離。

 だから、彩乃が入院してからは、ほぼ毎日と言っていいほどこの病室に通っていた。

 

 彩乃の愚痴に延々と付き合う日もあれば、ハイテンションでご機嫌な時もある。

 そんな日は、いつまでいても楽しいし、あっという間に面会時間を過ぎてしまう。


 逆に、ふさぎ込んでいる日はそうはいかない。あからさまに不機嫌な表情の彩乃。そんな彼女に何か言ったところで、反論しか返ってこなかったりする。最悪に険悪なムード。

 それで海斗は、彩乃の気持ちを何とか和ませたく長居すると、かえって喧嘩になってしまいそうになる。


 最近は、彼女の顔色を伺っただけで、海斗は状況を把握するように。機嫌の良くない日は、一言だけ挨拶を交わして帰ることも多々ある。


 何日も閉鎖的な空間に閉じ込められているせいなのか、それとも治療薬の副作用なのか、最近特に日々の感情の起伏が激しくなっているように思えた。


 それでも毎日彩乃の病室に通い、彼女と顔を合わせる。海斗は彩乃の事を本当に好きだからだ。


「ねえカイ」


 掛布団の端っこで口を押えながら、上目づかいで海斗をチラ見する彩乃。薄茶色の瞳がゆらゆら揺れていた。


「うん?」


「……えっとね…………実は……」


 彩乃はもじもじしながら、なかなか本題を言い出せない様子だった。

 肩を寄せながら恥ずかしそうにしているので、もしかすると自分が居ると都合が悪く、はっきりと口に出せない何かだろうと海斗はそう解釈した。


「あっ……アヤ。もし僕が邪魔だったら、廊下にでも出ていようか?」


 すると彩乃は頭を振り、海斗の手を取った。


「ううん、違うの、そうじゃなくって……カイに聞いてほしい事なの」


 頬を赤らめて彩乃はそう言った。

 そして深く深呼吸してから、


「あ、あのね…………あと少し、もうちょっと様子見て、今の状態で安定していられたら退院できるって……そう先生が言ってくれたのよ」


「え! マジで! 本当にっ!」

 

「うん! 本当よ。昨日ね、相川医院長がアヤとお母さんに言ったんだから」


 目を細めて満面の笑みを浮かべる彩乃。握った手にも力がこもっていた。


「だからね。ちゃんと退院できるように、それまでは我慢して大人しくしていようと思っているのよ」


 ――そういう事だったのか。

 外に出たくない理由が、体調の維持のためだったと知ってホッとした海斗。

 今までも退院についての話は彩乃から幾度となく言っていたが、そのどれもが淡い願望に過ぎなかった。

 しかし、今回の話はどうやら現実味を帯びているようで、彩乃の希望に満ちた瞳がそう語っているようだった。


「あー、だから、外に行かないって言ったんだ」


「そ。もう秋だから、涼しくなってきたでしょ。もしも、風邪でもひいたら、それこそ退院が台無しになっちゃうかもしれないし…………だからね、看護婦さんが言う通りに、この部屋をあまり出ない事にしているの」


「じゃあ、その日が来るまで、ジッと我慢の子なのか?」


「そうそう。まあ、アヤなら全然余裕だけど」


 口端を上げつつピースサインをする彩乃だが、海斗は疑いの目を向けていた。

 大人しくしていられない性格である彩乃が、病室に籠りっぱなしでいられるとは、先ず考えられなかったからだ。持って三日が良いところだと。

 冷ややかな海斗の視線に、彩乃がすぐさま反応を示した。


「なっ、なによカイ! あぁー、その目はアヤのことをバカにしているな? 見ていなさい、アヤだっていつまでも子供じゃないんだからねっ!」


「ああ、期待しているよ。僕だって、一日でも早くアヤに退院してもらいたいからな……あっ、そうだ! 早く退院できたら、ご褒美に、紅葉の綺麗な所に連れてってあげるよ」


「えっ! ホント? やったー! アヤ頑張る、凄く頑張る」


「うん」


「頑張って、元気になって……でも、くじけそうになったら、その時は、お願いカイ。アヤが頑張れそうになくなったその時は……」


「そのときは?」


木輪屋きりんやのバウム買ってきて、アヤを元気付けて。あそこのバウムすっごく好きなの、お願いね」


 木輪屋のバウムクーヘン。誰もが知る、美味しくて有名な洋食菓子だ。値段も高めだが、入手困難なのも有名だった。


「……わかった。その時は速攻で買って来るよ」


「うん。カイ約束よ、絶対にね♡」


「ああ、約束だ!」


 この後も終始笑顔の絶えなかった彩乃は、紅葉を見に行くプランと、おいしいバウムクーヘンのお店の話をずっと喋り続けていた。


 そして個室とは、なかなか人目に付かない、いい場所である。

 母親が現れるまで彩乃は、ずっと海斗の手を握ったままだった。

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