30 昏睡
会社を飛び出した海斗は、幼馴染のいる病室へと到着した。
息を切らしながら病室に入った海斗の目には、点滴を付けてベッドに横たわり昏睡状態の彩乃の姿が映る。
そして側には、悲愴感を浮かべている母親の和恵ともう一人、白髪交じりの頭髪にワイシャツ姿の細身の男性が立っていた。
肩で息をしている海斗に気付いた二人は視線を向けた。
海斗は男性と一瞬だけ目を合わせて一礼をした。
「やあ、君が海斗君だね。久しぶりだよ、随分と立派になったね」
目を細めながら野太い声でそう海斗に話しかけたのは、白髪交じりの男性である。
彼は、彩乃と十年ぶりの再会を果たして以来、一度もその顔を見る事の無かった父親の
昏睡状態の娘を目の前にして、今にも泣き出してしまいそうな和恵とは違い、信之は平常心を装っている風でもなく、至って普通に話しかけてきた。
「君の話は家内から聞いているよ。いつも彩乃が迷惑かけているそうじゃないか。あらためてお礼を言うよ」
「いいえ、そんな……僕のほうこそ、いつもお世話になっていて……」
海斗はもう一度頭を下げた。
やせこけた頬で微笑みかけた信之。片手には、折りたたんだ白衣のような布を持っていた。白髪の目立つ頭髪は、あまり手入れをしていないのだろう、少し乱れが目に付く。
彩乃は、父親を嫌っていた。
海斗が彩乃に父親のことについて訊いても、話をあまりしたがらなかった。
仕事に出たきり家にはほぼ帰って来ることは無い父。たまに帰ってきたとしても彩乃と顔を合わせることなど無いと言う。
信之の仕事は、業界では有名な脳科学の研究者。近年、博士号を取得した権威でもある。
そんな彼は、当時から大学の研究施設で没頭する毎日。仕事以外は、家庭のこと全般を母親に任せきりだった。
十年前、信之の研究に変化が訪れ、専門の機関へ抜擢されることに。その都合で田舎から大都会へ引っ越さなければならなくなった。
そして、機材や環境が充実した職場に移った信之は、以前よりも増して研究にのめり込むようになったのだ。
彩乃達とさらに疎遠になっていく。
これといった家族サービスがあるわけでもなく、殆ど母と二人だけの生活が彩乃の記憶を占めていた。
だったら無理して家族全員で引っ越しする必要が無かったのでは……と、彩乃は父を恨めしくも思っていくことに。
最近では、新たな研究結果が世界的に認められたと、ネットニュースで取り沙汰されていた。海斗はその記事を見て感心していたが、彩乃はそれを快く思わず、皮肉交じりに
「和恵。せっかく海斗君が来てくれたところ悪いんだが、私はそろそろ戻るとするよ……」
信之は表情を変えずに淡々と和恵にそう言った。
和恵は悲壮な顔つきに変わり、大きく息を吸い込む。一瞬で部屋の空気が張り詰める。
「あなた! なにもこんな時に! もう少し、せめて彩乃が目を覚ますまでは――」
娘の置かれた状況に心配ではないのかと訴えるように、和恵は必死に声を荒げた。
しかし、それを軽くあしらうように信之は言う。
「私が付いていても現状何も変わらないからね。それに、彩乃の事は相川医院長にしっかりと頼んである。帰り際にもう一度医院長には話をするが、きっと最善を尽くしてくれるだろう」
確かに。医師でもない自分がこの場に居たところで、何かが変わるわけでもない。
ただそれは、和恵にとってあまりにも冷徹な言葉であり、父親としての責任の無さを疑ってしまう言葉でもあった。
「そんな――――」
和恵はハンカチで涙を拭いながら項垂れてしまった。
海斗は、黙って眉をひそめて立ち尽くしていた。
病室を立ち去ろうとしている信之は、海斗へ歩み寄ると肩に手を置いて告げる。
「海斗君、悪いがしばらく彩乃に付き添ってやってほしい」
「……はい」
「すまないね。早く目覚めてくれればいいんだが……」
そう言い残した信之は、病室を立ち去ってしまった。
重い空気だけを病室に残したまま。
しばらくして、嗚咽を漏らしていた和恵は、俯いたまま口を開いた。
「……ごめんなさいね海斗君。あの人、いつもあんな感じだから……根は良い人なのに……」
鼻を啜り、俯いていた顔を起こした和恵は、作り笑顔を海斗に向けた。
海斗も少しだけホッとして、目を細めた。
海斗もあまり信之と接した記憶が無い。
幼少の頃は、毎日のように彩乃と和恵とは顔を合わせていた。特に和恵には怒られていた記憶が今でも鮮明に残っている。
その頃の信之は休日こそ家に居たものの、ほぼ書斎に籠っていたので、その姿を見る事すら稀だった。
だから海斗の記憶の中でも、謎の人物としか覚えが無かったのだ。
今思えば、博士号を取得する位の人だったというのも頷ける。
「実はね、海斗君……」
彩乃の頬を撫でながら、優しい目をした和恵は口を開く。
海斗は黙って聞いていた。
「本当はね、彩乃に口止めされていたんだけど……まさか今日みたいな事になるなんて、思ってもいなかったから……海斗君には、話しておこうと思うの」
「…………」
「五年前にこの子、大病を患ってしまったのよ」
「え! 大病?」
「そう、悪性の腫瘍が体の中で増殖する病気。世間で言う、いわゆる
癌。
その言葉の響きに、海斗は絶句した。和恵の真剣な表情で、それが嘘ではないことは察しがつく。
悪性腫瘍が増殖して死に至る病気。たとえそれが過去の出来事だったとしても、あまりに衝撃的な事実だ。
あの元気で明るい彩乃の振舞いからは、病気の事など微塵も感じられなかったからだ。五年も前の病気なら、とっくに完治していたのだろうか。
「発見当時、病名を聞かされた時は、目の前が真っ暗になったわ。普通のそれより質が悪いのだったらしくて、桁違いの増殖だったのよ。でも、たまたま発見が早かったから、手術してなんとか大事には至らなかったのだけれど……それでも、身体的代償は大きかったわ」
当時の彩乃は、高校生活にも慣れてきた明るく元気な高校一年生。幼馴染との別れを乗り越えて、新たな自分の日常に明るい未来を抱いていた。どこをどう見ても健康体そのものだった。
ただ、体の異変に気付いたのは彩乃自身。父の知り合いでもあった相川医院長に相談したところ、早期の発見ができたのだ。
まさか自分の娘が、何かの間違いではと、最初は疑って掛かっていた和恵。
だが、医院長の相川から、さらには夫の信之からも、同様の宣告を告げられてしまった。
「……その、代償って何ですか?」
普段から明るい笑顔を振りまき、ムードメーカーとなっている彩乃。愛くるしい振舞いと、可愛く整った容姿でアルバイトのメイドも人気がある。お酒だって海斗以上に飲めたりする。
日常生活において不自由にしている姿を、海斗は見たことが無かった。
身体的代償とは一体何なのか。思い当たる節が無い。
それとも、ただ気が付かなかっただけの事なのか……。
「彩乃はずぅっと気にしていたのよ、海斗君が好きな女性の条件だったみたいだから」
「僕が?」
海斗は女性の好みを、彩乃に話したことなど無かったはず。再会してからは特にそういった会話に発展したことなどなかった。では、友人からの情報なのか。
しかし、女性に条件など付けた覚えなどない。強いて言うならば、自分が普通に会話ができる女の子ということ位か。
「そうよ。だから彩乃、海斗君にこれだけは知られたくなかったみたいだから、絶対に聞かなかったことにしておいてほしいんだけれど…………」
躊躇い、一度言葉を飲み込むように口を結び、彩乃の顔に視線を向けた和恵。
昏睡している娘の手を取ると、再び口を開いた。
「乳癌……片方の、左乳房の撤去手術。いま彩乃の左胸は全く無いの」
「えっ……」
海斗は改めて昏睡状態の彩乃を見た。左乳房が無いと言われても、大きく美しい山成が二つそこには存在していて、違いなど全くわからない。
「それ、特殊なブラジャーなのよ、外見じゃ全く判らないでしょ。でも、触れば明らかな違いがあるの」
オッパイなんて触ったことなどない海斗は、触れたところで違いなど判るのだろうかと疑問に思う。
逆に考えれば、偽物の乳房を晒したくはないという、乙女の心情の察しがつく。
「相川医院長のお陰で、手術は無事に成功したわ。転移も無し。綺麗に腫瘍は無くなったの。それから五年間検査をしながら生活をしている。再発も見つかっていない……」
「じゃあ、腫瘍は完全に無くなったって事ですか?」
「……正直、私もそれは分からないわ。先生も、五年経過すれば再発や転移のリスクは無くなるかもって」
「……」
「でね、手術直後、彩乃は半年間も原因不明の昏睡状態が続いていたの……本当に原因がわからずに……」
「半年も? アヤは、意識が無いまま寝たきりだったんだすか?」
「そうよ。もしかしたらこのまま、この子は目覚めないのかもしれない……そう諦めかけた時もあったわ。今思い出しても、あの時は本当に辛かったの」
再び溢れた涙を流す和恵。掴んだ彩乃の手をしっかりと握りながら。
「病気に掛かって、一番辛かったのは彩乃でしょうけどね。だって、女の大切な部分を一つ無くしてしまったのだから尚更。今思えば、そんな自分から現実逃避したかった。それが半年も目覚めなかった原因なのかもしれないのよね」
海斗が抱きしめようとした時の、彩乃の怯えるような姿。
彼女は好きだと言ってくれた。自分もその愛に応えるべく、肌の触れ合いを求めた。
しかし、肌の触れ合いを頑なに拒否し続けた彩乃。まさか理由がそれだったとは。
今思えば、己の欲望だけを考えて、彩乃を欲しがっていた自分を恥ずかしく思えた。
病気の事実を知らなかったとはいえ、少しも彼女の気持ちを理解してやれなかったことに後ろめたさを感じた。
そして今、目の前で起きている事実に、責任を感じてしまう。
「……ごめんなさい。過去と同じように、アヤが倒れてしまった原因は、僕にあるかもしれません。僕がアヤにしつこく言い寄って――」
和恵は強く首を振りながら、海斗の言葉を遮った。
「ううん、違うの! 海斗君は何も悪くないわよ。どちらかというと、彩乃のほうが海斗君のこと大好きだったから、むしろそうしてくれて嬉しかったと思うの。いいえ、凄く嬉しそうにしていたわ」
和恵のその言葉を聞いて、海斗は少しだけ気持ちが楽になった。
「でもね、またこのまま彩乃が目覚めない日々が続くと思うと……私はどうしたらいいか……」
あとは詳しい検査をしてみないと彩乃の病状はわからないとの事だった。
定期検査ではなにも発見できておらず、今回のケースで癌の再発ということはまず無いだろうと病院側の見解だ。
ただ、ここ最近の検査で、血液に不審な数値を示すのも見つかっており、相川医院長も心配はしていたらしい。
はっきりと原因を特定するには至っておらず、彩乃本人には直接電話をして注意を促していた程度だった。
「癌については、彩乃から話があるまで、知らないふりをしていてほしいの……お願いね海斗君」
「……わかりました」
結局、それから彩乃は目覚めることなく、その日は引き上げる事となった海斗。
なにか変わった事があったら連絡すると、和恵は言ってくれた。
深夜、家に帰ってもなかなか眠りにつけなかった。
病気に侵されていた彩乃。その事実を知ったショックが大きかった。
彼女の明るい声を聞けない日が、こんなにも寂しいなんて。
暗く静まり返った部屋の中を見渡してしまう。幼馴染の痕跡を探し出すかのように……。
次の日の朝。
彩乃のスマホからメッセージが。
『やー、おっはよー('ω')ノ
心配かけてメンゴメンゴ!
アヤは復活!元気だよ~ん』
と、覚醒した彩乃の能天気な文章が届いていた。
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