29 バッカじゃねえの?

 彩乃は、晴れて海斗と恋人としてお付き合いを始める事が出来た。


 やはり奥手な海斗が告白してくれたのが大きかったのは間違いない。

 だが、そうなるように仕向けたのは間違いなく彩乃だ。あらゆる手段を用いて導いた彼女の作戦勝ちと言っても過言ではない。


 浮かれ気分の彩乃は、自室で自主勉強をしていても全く身が入らない。気が付けば無意識のうちに海斗の部屋の合鍵を手に取って眺めている。

 一緒に付けられていたキャラクター物のキーホルダーを愛でるように撫でると、つい笑みがこぼれてしまう。


 そうこうして海斗のことを考えていると、無性に彼の家へと行きたくなってしまうのだ。


 そして今日もまた、誰もいない海斗の部屋へと上がり込むことに……。


 今は夏休みの真っ最中ということもあり、彩乃は暇さえあれば殆ど海斗の家に足を運んでいた。


 暇といってもメイドカフェのアルバイトは定期的に行っていた。バイトのある日は、終了時間を出来る限り早めに切り上げて、海斗の部屋に急いで行く。

 少しでも一緒にいられる時間を大切にしたかったからだ。



 彩乃は、海斗が仕事から帰って来るまでに夕食を作り、帰宅したら一緒に食べる。

 お酒も一緒に飲みながら、少し酔って気持ちよくなったところでキスをする。

 そして彩乃は、いつも決まった電車の時間に自宅へと帰ってゆく。泊りはしなかった。決して。


 海斗はいつも手料理を美味しいと言ってくれるので、また明日も腕を振るいたい気持ちになる。毎日が楽しくて仕方がない。

 ……それでも彩乃には、気分が乗らない日や、少し体調が良くない日などが時々あった。そんな時は海斗に連絡をして、古嶋家へ来てもらったり、時には外食する日もあった。



 週末には二人で映画を見に行き、ついでにウィンドウショッピングを楽しんだり。

 外出に気分が乗らない日などはテレビゲームをしながら部屋でのんびりとしている。



 間もなくして、海斗がお盆休みに入った。

 そのうちの三日ほどは、両親の暮らす田舎へ帰省すると言った。

 かつては彩乃の家族も暮らしていた田舎町。あの頃の思い出がよみがえり、彩乃は懐かしさに溢れる。


 半年に一度くらいは親に元気な姿を見せなければ、何を言われるか分かったもんじゃない。

 などと海斗は愚痴っていたが、一人っ子だった彼は、逆に親の安否が心配なのだろうとも理解している彩乃だった。


「おじさんとおばさん元気かなぁ? アヤのこと忘れちゃってたりして」


「そんなバカな。息子の僕より、アヤのほうが忘れられないって。ヤンチャだったし」


「ひっどーい」と彩乃が膨れっ面で海斗を責める。


 久しぶりに海斗の両親の顔を見てみたくなった彩乃は、今度の正月休みには都合つけるから一緒に連れてってほしいと言った。

 海斗は、今からでも遅くないから行こうと彩乃を誘ったのだが、彼女は俯いて愛想笑いするだけだった。


「おじさん、おばさんによろしく言っておいてね」と言付けをして、帰省する海斗を送り出した。




 海斗の帰省は、たった三日だったが、彩乃にとって彼が居ない三日間は長く感じられた。

 海斗の留守中も彩乃は、毎日のように彼の部屋に通っていた。


 何をする訳でもなく、ただ彼の匂いがする空間に居たいだけ。


 三日も離れていれば、無性に恋しくなってしまう。


 日々募る想いに歯止めが効かない。海斗が居ない日々がこんなにも辛いとは……,



 故郷から帰ってきた海斗。

 その顔を目にすれば、彩乃は飛びつくように大人のキスをした。


 熱い口づけを何度も。



 それからは毎日のように彩乃は海斗に会いに来た。休日は、当たり前のように一日中側にいた。たまに彩乃の家に呼ばれることもあるが。



 デートに行けば手を繋ぎ。

 家の中ではキスをする。

 

 側から見ればラブラブな二人である。


 が、一緒に居る時間が長くなればなるほど、相手の事をどんどん好きになっていく。

 そうなれば、どうしてもお互い深く求めたくなる。



 愛し合いたいと……。





「はあ? 渋川バッカじゃねえの?」


 ある日、会社での休憩時間。見た目がいかにもヤンキー風の松下が、海斗にダメ出しをしていた。

 隣で無精ひげを生やした強面の新村が、頷きながら缶コーヒーを飲んでいる。


「……アヤが本当に僕のこと好きなのか……なんだか自信なくなってきました」


 元気無く海斗が呟くと、松下が睨みを効かせながら訊く。


「だってお前ら、付き合い始めてから、ほぼ毎日顔合わせてんだろ?」


「……はい」


「んで、彼女ほうが渋川ん家に来るんだろ?」


「まあ……だいたい、そうです。僕が帰省していたお盆中も来ていたみたいで……」


「はあ? 何、サラリとお惚気自慢してんじゃねえよ! やっぱ、渋川バカだわ! どうしようもなく。そうっすよね先輩」


 黙って缶コーヒーを飲んでいた新村は、松下が急に話を振ってきたことで咽ていた。新村自身もそれほど多くの女性と付き合ったことが無く、込み入った話はあまり得意ではない。

 それでもこの中では年長者なので、威厳を保つためにそれらしいことを言っておく。


「おっ……おうよ! まあ、バカかどうかは別としてだな、渋川の不安はその自信の無さにあるんだ。いいか、彼女はなあ、お前の男らしさを求めているんだ」


 飲みかけのコーヒー缶を海斗に向けて、決め顔をしてみせる新村。

 海斗は若干引き気味で困惑の表情を浮かべていた。


「…………ですかねぇ」


 幼馴染の彩乃と付き合いだしてから、今のところキス以上の発展が無い事に、海斗は少しづつ不満を抱いていた。

 テーブルに座っていれば、彩乃は距離ゼロセンチメートルで密着してくる。柔らかい肌の感謝と、甘くて良い香りが海斗の気持ちを責め立てる。

 これで欲求が湧いて来ないとか、男としてあり得なかった。


 交際を始めてからまだ一月と経っていないため、今すぐにという訳でもないのだが、それでも彩乃が欲しいという欲望が湧いてきてしまう。

 彩乃と一緒に居る時間が長くなればなるほど、その愛くるしい彼女を強く抱きしめたくなり、触れ合っていたいと思ってしまうのだ。


 長いキスのあと、海斗はそのまま腕を背中に回して彩乃を抱きしめようとした。

 しかし……、


 その時の彩乃は、瞬時に顔を強張らせてしまった。胸に手を当てて背中を丸めたまま硬直し続ける。

 まるで何かに怯えるように、肩を震わせていた。

 




「そりゃあだって彩乃ちゃん、ずっと昔から渋川一筋だったんだろ? 他の男に見向きもしないでさ、バージン守り続けてよ。健気じゃんか」


「おう? 松下よくそんなこと知ってるなぁ。誰から聞いたんだ?」


「え! ……まあ、ほら! 合コンの時言ってたじゃないっすか」


「ん? そうだったか?」


「そうそう、先輩飲み過ぎてたから覚えてないんっす…………で、だからな渋川! 彩乃ちゃんは男が怖いって怯えている可能性だってある。それをやさしく打ち消してやるのが、お前の役目だ!」


「…………はい」


「でもな、優しいだけじゃ駄目だぞ! 時には強引に……って言っても、まあ、そこらへんが難しいんだが」


 腕を組んで考え込む松下。右手に挟む煙草の灰がポロリとアスファルトに落ちた。

 悩みを少し打ち明けただけで、まさかここまで真剣な議論になろうとは考えてもいなかった。嬉しい事には変わりないのだが、結局のところ海斗と彩乃の問題なので、あまり深堀されても困ってしまうのである。


「先輩どう思います? 今のこいつらの感じからして、やっぱし彩乃ちゃんは渋川に奪って欲しいと思ってるんじゃないっすかね。無理やりにでも。そうじゃなきゃおかしいでしょ?」


 返答に困っている様子の新村は「……かもな渋川」と一言。


「……はあ」


 海斗もまた、ため息のような息の抜けた返事をするしかなかった。



◇◇◇



 抱きしめようとすれば、まるで小動物のように怯えはじめる彩乃。

 そんな彼女を見てしまえば、海斗は諦めざるを得ない。背中に回した腕をゆっくりと引っ込める。


 はたと我に返った彩乃は「ごめんねカイ」と言って、おずおずと海斗の背中に回り込み、ふわりと抱きついた。

 海斗の肩に頬をあてて、彩乃が優しく耳元で囁く。

 

「アヤはカイのこと大好き。本当よ。気持ちではカイと繋がりたいと思ってるの……でも、それを受け入れられない自分が居て……」


 優しさの中にどこか悲しみも含まれていた彩乃の声。

 彼女を欲することしか頭になかった海斗の心に、ズシリと重みがかかる。


「だから今は、こうすることが精いっぱいで……」


 海斗の背中から腕をまわしていた彩乃は、時折鼻を啜ってか細い腕に力が込められる。忍び泣きしているのがわかった。

 いつも海斗を振り回す気の強い彩乃。ただ、こういった場面になると、女性としての弱い一面が出てしまったのだろうと、海斗はそう思っていた。


「……いいんだアヤ、なにも急ぐことは無いよ。だって付き合い始めてまだ一カ月も経っていないだろ? 僕だってアヤの気持ちを大切にしたいからさ、もっともっと好きになって、アヤがいいよって思えるようになってからでも――」


「ありがとうカイ。アヤは……どうしようもなく臆病なの、それは自分でもわかってる。こんなんじゃ駄目だって。……でも、今はまだ出来ないの……ごめんね」


 そう言うと彩乃は、海斗の肩に顔を埋めてしばらく抱きついていた。

 気持ちが落ち着くまでこうしていようと、海斗はそっと彼女の手を握った。



◇◇◇



「兎に角だ! 彩乃ちゃんはお前の事を100%嫌いにはならない。絶対だ! 俺が保証する」


 そう言って松下は吸い殻をバケツに投げ入れる。


「渋川が彩乃ちゃんにどんなことをしようとも、彼女は全て許してくれる。たとえそれが不本意だったとしても、彼女は彼女自身の殻を壊してくれる渋川を、どこかで期待しているはずだ」


「そんな……僕には出来そうにないですよ。アヤの辛そうな顔を見ちゃうとやっぱり……」


「そんなんじゃいつかまた幼馴染に逆戻りだぞ。いいか、ここぞって時にキメなきゃ男じゃねえ! ――そうだ、今夜! 今夜彼女に会ったら、何が何でも奪ってみせろ渋川!」


 力強くそして鋭い眼光を海斗に向ける松下。海斗も真剣に向き合ってくれる松下に応えるよう、口を結び頷いた。


「そ、そうですね……うん、今夜、アヤに迫ってみます。頑張ってみますっ!」


「よし、よく言った! これでお前は男になれるぞ!」


「はい!」


 手を取りあい意気投合する二人を尻目に、呆れ顔の新村は、飲み終わった缶をくずかごに放り投げて「んじゃ、俺先に行くわ」と言い残しそそくさと職場に戻っていった。




 休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 それと同時に、海斗のスマホに彩乃から電話が入った。


(ん、アヤから電話? 何だろう?)


 彩乃からの用件のほとんどは、メッセージアプリで事足りている。

 電話がかかって来るなんて初めての事だった。


 わざわざ電話でなんて何の用なのだろうと思いながら、海斗は受話器マークを押す。


『もしもし海斗君! 私だけどわかる?』


 声の主は彩乃の母、和恵だった。

 彩乃のスマホを使って、和恵が電話をしてきたのだ。


『仕事中急がしい所、突然ごめんなさいね。彩乃の携帯からが、一番早いと思ったから……』


 何か慌てているようなのか口早で喋っているし、荒い息づかいも聞こえてきた。


『あのね、今日、彩乃が急に倒れちゃって、今、救急車で相川病院に運ばれてきたとこ……そのまま、入院になるかも――――』



 彩乃が倒れたとの電話。


 海斗は一瞬、目の前が真っ暗になった。

 そのあとの和恵の声も耳に入らなかった。



 気が付けば会社を飛び出して、相川病院に来ていた。

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