34 ファミレス
再び眠りについた彩乃を気遣い、なるべく音を立てないように病室を出た海斗。
静かにドアを閉めると、そのまま廊下に立ち尽くしてしまう。
「…………ふぅ」と疲れ交じりに息を吐く海斗。
青ざめた顔で泣き崩れた彼女の姿が頭から離れない。
そして、必死になって彩乃が語った夢の中の話。とてもじゃないが今の海斗には全く理解できなかった。
――でも、嘘を言っているようにも見えず……。
長引く入院生活のせいだろうか、それとも治療薬の副作用が影響しているのだろうか。
いずれにせよ制限を強いられた闘病の日々が、彩乃の心を蝕んでいっているのは違いなかった。もしこの先もこの生活が続くとなると、彼女はどうなってしまうのか。
今よりもっと精神崩壊が悪化するのかと、海斗は不安に駆られてしまう。
病状が良くなって退院出来れば、またいつもの元気な彩乃に戻れる。
一刻も早くそうなってほしいと、海斗は願うしかなかった。
廊下は消灯時間を過ぎて暗くなっていた。
看護師さん達に見つからないよう気配を消し、急いで病院の出口に向かう。
つい先日も、時間を忘れて彩乃と喋っていたら、看護師さんに注意をされたばかりだった。それも厳しく。
ここはどうにか病院関係者に見つからないように、急いで館内を出なければならない。
暗くなった廊下を、息を殺しながら待合いロビーに到着すると、そこには一人の男の影が。
「………っ!」
慌てて身を隠そうとするが、時すでに遅し。男が振り向き、海斗をとらえるのか早かった。
「ちょっと君!」
暗く静かなロビーで、海斗を呼び止める声が響いた。
万事休すか。二度目の警告となれば、出入り禁止は免れないだろう。あの看護師さんなら、そこまで言うに決まっている。
「ん? ……やあ海斗君か、こんなに遅くまで病室にいてくれたのかい?」
見つかってしまったと焦っている海斗だったが、こちらに歩み寄る男の声はどこか穏やかだ。それに咎める様子は全くなかった。
「偶然だね、私も今用事を済ませて帰るところさ」
ひょろりとしたシルエットに聞き覚えのある野太い声。片手には畳んだ白衣を腕に掛けている。
間違いない、男は彩乃の父親で脳科学博士の信之だ。
「あっ、すみません……こんなに遅くまで……」
「いや……いいんだ。君のお陰で、彩乃はずっと元気でいられるからね」
医学界の権威でもある信之は、当然ながらこの病院でも顔が利く。医院長の相川先生も一目置く人物だ。
こんな遅い時間でも信之と一緒に居れば、看護師さんに咎められはしないだろう。海斗は少しだけホッとした。
「あの……おじさんは、これからアヤの所へ?」
「……いや、ちょっと医院長に用事があっただけだから。今しがた終わって、丁度ココに降りてきたところさ。それに……私は、彩乃に嫌われているからね。このまま合わずに帰ろうとしていた、そんなところさ」
「…………そう……ですか」
複雑な親子関係に、言葉を詰まらせる海斗。
「なあ海斗君」
「……はい?」
「珍しく私とこうやって二人だけになれたんだ。折角の機会だから、ちょっとだけ話に付き合ってもらっていいかな? もちろんそんなに時間は取らせないよ。もう遅いから迷惑かもしれないけど」
「そんな、迷惑だなんて……別に、僕は構いませんよ」
「ありがとう海斗君。……でも、ここじゃあ何だから、すぐ向かいにあるファミレスにでも行こうか」
「……はい」
大きな道を挟んだ向かい側に、24時間営業のファミリーレストランある。
時間はもう22時を回ったところ。人通りも少なくなっていて、もちろん店内はガラリとしていた。
夕食を取っていなかった海斗は、メニューを見て初めて自分が空腹だったことに気付いた。お腹がグーと鳴った。
ニヤリとした信之も食べていなかったらしく「丁度よかった。私も腹ペコさ」と言った。
「海斗君、ここは私のおごりだから、遠慮しないでなんでも好きな物頼んでいいよ」と、調子よく信之が言った。
自分の分は払いますと、遠慮していた海斗だったが、結局信之に押し切られてしまう。
そういう強情なところは、彩乃と似ていると海斗は思った。それに従ってしまう自分も相変わらずなのだと痛感する。
メニューを見てもなかなか決められない海斗に対して、すぐに注文の品を決めた信之。「じゃあ僕もそれで」と海斗も同じメニューにした。
「ところで海斗君は、彩乃が五年前に乳癌だったことは聞いているかな?」
「はい。直接アヤから聞いていませんが、おばさんから……初めてその話を知った時は、正直驚きました」
「そっか……まあ無理もないか。彩乃自身はとても辛い経験だったし、極力他人には知られたくない事だろうからね」
和恵から彩乃の癌について聞いていた海斗。直接本人から聞いたわけではないので、未だに信じられないと言った感じではある。
そもそも、当の本人はその事に触れてほしくはないと願っているようなので、何も知らない素振りで接している海斗。正直辛いものだ。
しかし、これだけ病院生活が長引けば、どうしてもその原因が知りたくなる。
そもそも五年前摘出した乳癌と、今回の闘病との因果関係はあるのか。
さっきは彩乃の思い詰めた様子に、いよいよ癌について明かされると身構えていたのだが、空振りに終わってしまった。
その代わりに、思いもよらない話を聞かされて、別のショックを受けてしまった海斗だった。
知ってしまった彼女の病気の事実を、知らぬふりで居続けるのは、それはそれで苦しいものである。早くこの呪縛からも脱却したいと海斗は思っている。
「相川先生と家族以外、この事は誰も知らないはずだ。勿論、彩乃と仲の良い友達もね」
「……ええ、特に口止めされているようには見えませんでしたし、今回の入院だって、不思議に思っているくらいでしたから……」
当然、しずかと京子も彩乃の病状を心配して面会にやってくる。海斗もばったりと鉢合わせになったりする事も。
とにかく明るく接する彼女たちは、今回の入院は軽い貧血だろう……位な程度にしかとらえていない。特にしずかはそう思っているようだ。
五年前に大病を患った事実など知らなければ、彩乃の長引く入院生活を不思議に思うのは当然の事だろう。
ただ、時折り表情を曇らせる京子は、彩乃の症状について何かを察しているような、そんなふうに海斗の目には映った。
「そうか…………癌全てに言えることなんだが、やっぱり女の子にとって乳癌は、あまりに酷な病気だった。特に若い娘にはね……」
そう言って信之はコップの水を一口飲む。
「……あの。一つ訊いてもいいですか?」
「ん? なんだい?」
「癌が治ってから、五年後の生存率って……ネットで調べるとよく出てくるんですけど」
「うん、五年、十年……生きられたら。そう、よく言われるよね」
「夏に倒れてから、ずっと入院のまま……実際のところ、アヤの今の病状ってどうなんですか?」
「…………」
「もしかして再発……なんじゃないですか? 癌が、またどこかに――」
海斗の声を遮るように、信之が言った。
「海斗君。……実はね、五年前の病気の時、私はもう駄目なんじゃないかと諦めていたんだよ」
「―――――えっ!」
「早期に発見できた娘の癌は、他の症例と異なる部分が多すぎてね、わからない事だらけだった。増殖の進行度も異常で、たとえ手術をしたとしても転移は免れない……死は避けられない。そう、告げられた」
「…………」
「だから私も妻も、あのまま半年間、彩乃は目を覚まさないまま息を引き取る……そう覚悟していたんだ」
海斗は生唾を飲む。彩乃はそんな生死をさまよう境地までいっていたのかと。
「でも、奇跡は起きた! 再び彩乃は蘇った。転移した癌は、全て消えていた」
テーブルをバンと突いて、前のめりになる信之。見開いた目は、新しい何かを発見したような、そんな学者の輝きだった。
「だから今回も、奇跡は起こる…………なんて、甘い考えでいるんだけどね、私は。入院当初は検査しても全然判別出来なかったが、つい先日の検査でようやく……まあ、君の予想通り、娘の病気は癌の再発で間違いなかったよ。二度目の忌々しい厄介な癌は、あちこちに転移していた。……悔しいね。本当に悔しいよ」
俯き項垂れる信之だったが、それを見ていた海斗は、どこか腑に落ちないような、そんな違和感を感じた。
それが何かと訊かれても、はっきりとした答えは無い。
悔しいと言っている信之の感情がこもっていない声のトーンなのだろうか。切羽詰まっているように見えない、彼の表情なのだろうか。
海斗の気持ちの奥底に、もやもやとしたわだかまりが、いつまでも残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます