26 水族館

 八月に入ったある休日。

 海斗と彩乃の二人は赤い軽自動車に乗って、高速道路を走っていた。

 

 今日の目的は水族館。

 真夏の休日でもあるので、海斗が海水浴を打診したのだが、敢え無く却下された。

 彩乃は、どうしても水族館にしたいとの一点張りだったのだ。


 どこの水族館にしようかと彩乃は数日間悩んでいたようだが、最終的にデートスポットとしても人気が高い、神奈川県の湘南海岸にある水族館に決定した。


 もちろん水族館に行きたいと言い出したのは彩乃だ。海斗はそれに従うまで。

 湘南海岸は今までよりも少し遠出となる。

 予め今日の予定を計画していたので、それにあわせて朝早くから家を出発していた。


 快調に飛ばす車の中は、彩乃お気に入りの音楽が流れていた。それは、彩乃自ら選択した楽曲である。


 以前彩乃から、ロック調の曲が聴きたいと海斗にリクエストがあり、CDを購入しなければと気には止めていた。

 が、一応レコード店に足を運んではみたものの、何を買っていいのか分からなかった海斗は、結局CDを用意できなかった。


 彩乃はそれを見越していたように「まあーしょうがないよね、海斗だもん」と言って自分のスマホを軽自動車のカーナビに繋いだのだ。例の無線機能で。


「やっぱり、ドライブには楽しい音楽が必要でしょ?」


 彩乃は得意げな顔で、んふっと微笑む。


 スマホを操作していたかと思えば、自分の好みの音楽をあっという間に車載スピーカーから流してしまう。まるで自分の所有物であるかのように。

 赤い軽自動車だって、有意義に使っているのは彩乃の方だ。何処か色んな所にお出掛けするためのツールとして、最大限に活用していたからだ。運転する海斗はたまったものではない。


 それに比べて海斗は、ほぼ通勤の利便性を重視しただけで、それ位にしか使っていなかった。


 結果、運転手を含めてこの軽自動車も装備されていたカーナビも、持ち主以上に彩乃は使いこなしていると言ってもいいだろう。


「凄いよアヤは、そんな機能使えるなんてさ。そもそも、その……ブルーなんとかってやつ知らんかったし……まあ、知ったところで、到底僕には使いこなせないよ、全く理解できそうにないから」


「なあにカイは最初から諦めてんの、そのくらい覚えなさいよっ! 年寄りじゃないんだし、今時はこんなの当然なんだからね!」


 世のJKやJD、ひいてはJCともなれば、暇さえあればスマホをいじって、SNSなどを活用して友達とコミュニケーションを取っている。

 それに比べて海斗のスマホ利用は、連絡だけの電話と簡単なメール位なものだ。なんならガラケーでも事足りると思っている。

 手に余るスマホの機能を使いこなしてみたい、などとは微塵も思っていなかった海斗。それを今更覚えるだなんて、億劫に感じていた。


 そんな海斗でも、ここ最近は彩乃のお陰で、メッセージアプリを使えるようになった。というか、使わざるを得なくなったのだが。

 今は、メッセージアプリがスマホの主な使用時間を稼いでいた。

 スマホに時間を取られている人は、女子達に限ったものではなく、現代社会の風潮そのものであることは、海斗も重々承知していた。なので仕方なく、


「……じゃあ、今度教えてくれ」


「んふっ、オッケー。まかせてちょ……あ! これこれこの曲、アヤはこの曲大好きなの」


 曲が切り替わった瞬間、助手席の彩乃は、上機嫌で曲のイントロに合わせて肩を揺らしリズムを取っていた。歌い出しも一緒に口ずさむ。

 どうやら女性ボーカルが歌うラブソングのようだった。


 その後も、爽やかで明るい曲や、アイドルグループなんかの曲も流れてきて、全て彩乃の好みなんだろうと海斗は思った。

 あの時ロック調のCDをリクエストしたのは一体何だったのか、海斗はふと疑問に思った。



◇◆◇



 水族館に到着した二人。

 チケットを購入して館内に入った。

 途中の水槽を横目に、彩乃の先導で向かったのはクラゲのホール。


 周りの客層もなぜかカップルが多いように見えた。

 互いに微妙な距離をとって歩いている海斗と彩乃は、どうしても身を寄せながら歩いているカップルが気になってしまう。


 特にここ最近、海斗は彩乃を意識し始めたせいか、ちょっとした彩乃の仕草で、感情が揺れ動いていたのである。

 お互いの手が当たるか当たらないかのスレスレの距離を保ちつつ、なかなか距離を詰めれない、一歩を踏み出せない臆病者。


 そんな海斗の気持ちを知ってか知らずか、彩乃は不意に大きな水槽へと行ってしまう。

 

 幻想的で美しく漂う大量のクラゲに、うっとりと瞳を輝かせながら彩乃は見とれている。海斗も彩乃の側で、浮遊物体を目で追った。


「わぁー、きれいねー」


「え、うん、そうだね」


 実は海斗、水族館は初めてだった。

 クラゲが人気あると聞いたときは、正直なんであんなものがと疑問に思っていた位。海に浮かぶ厄介者が、沢山集まっていて何が楽しいのだろうと。


 しかし、いざ実物を見ればその美しさに目を奪われてしまう。

 水槽のデザインや照明の当て方など随所に細かい演出があって、クラゲ本来の魅力を引き立てていた。人々を魅了して、人気があるのも納得だった。


 海斗と同じように水槽を見上げていた彩乃が、ふと視線を落とし、そして海斗の顔を見た。


「そういえば、カイの誕生日ってそろそろよね。忘れていないわよ、八月八日、覚えやすいから」


「うん、そう。やっと、大人の仲間入りだよ」


 と、水槽の中のクラゲを目で追いながら海斗は言う。


 学生と違い、海斗は社会人として働いている。

 普通に生活している分にはとりわけ不都合は無いのだが、なにか手続きしようとするとなると、未成年ではできない事の方が多かった。

 例えば、自動車を購入するのもそう、親などの保証人が必要となってくる。とにかく面倒くさい。

 一人暮らしをしている海斗にとって、未成年という壁はそれなりに大きかった。

 早く誕生日を迎えて、二十歳になりたかった海斗。そうなれば自己責任という重圧が今よりもっとかかるものの、それでもやっと本当の自由が手に入る筈だと思っていた。お酒も飲める。


「じゃあ、アヤがお誕生日のお祝いしてあげる」


 海斗の視界に回り込んだ彩乃は、肩を窄めてはにかんだ。

 クラゲの映像が突如として幼馴染の笑顔にすり替わって、虚を突かれた海斗。


「お、おう? ありがとうアヤ」


「ねえ。カイはその日って、予定とか大丈夫よね?」


 目を細めて悪戯っぽく言う彩乃。海斗の予定なんていつも空いている。

 そんなこと訊かなくてもてもわかっているだろうと、海斗は思っていた。

 ただしその日は平日なので、会うとしても夕方からである。


「うん、全然余裕で予定無いから……でも、平日だよ? アヤこそ予定空いてるの?」


「大丈夫よ。実はもう夏休みに入ってるのよ大学生は。先月の終わりから九月の頭まで、ずっと夏休み。長いのよねえ、どうしよかって位に」


「あぁ、夏休みね……いいなあ」


 大学の夏休みは長いと聞いたことがある。実際にその期間を聞いた海斗は、その休みの長さに驚いてしまう。夢のような長期連休。

 そんなに休んでしまったら、自分ならきっと働く気が失せてしまうだろうと思った。

 大企業とは違う、小さな町工場。ほぼ一般的なカレンダー通りの休日配分だ。夏休みなんて以ての外である。

 

「ちなみに、うちの会社夏休み無いからなぁ」


「えー、そうなの? 社会人て可哀そうよね」


「うーん、長期連休は、お盆か正月かゴールデンウイークくらいだよ」


 基本、労働者基準の物差しでしか考えられない海斗は、祝日が重なる三連休でも長い休みと感じて、わりと嬉しかったりするのだが、大学生の長い休みを聞いて羨ましくなってしまう。可哀そうと言われればそうなのかもしれない。


「ふふっ、じゃあ仕方がないわね。カイが仕事なら、アヤはアルバイト三昧になりそう。……でも心配しないで、海斗の誕生日はバイト入れないようにしておくから」


 そう、彩乃のバイトと言えば、例のメイドカフェである。

 幼馴染の彼女との再会の場所でもあるので、海斗にとっても思い入れが深い。

 しかしメイド姿に扮装した、普段と全く違う顔を見せる彩乃が、誰とも知らない客の相手をしている。

 その事を想像するだけで、海斗の顔色は曇ってしまうのだ。


「……そうね、お祝いするの、カイの家でいいかな? あ、もし嫌なら、どこかのお店にするけど」


「いやそんな、外食にするまでもないよ。僕の家で十分」


「本当に? まあ、幼馴染同士水入らずってのもアリよね……うん。約束よっ!」


 にっこりと笑った彩乃は、掌を海斗の前に差し出した。


「ん、え? げんまんなら小指じゃないの?」


 約束の指きりなら、小指だけを立てて目の前に差し出すはずだ。

 しかし彩乃のか細い手は、握手を求めているような向け方だった。


「……だって、周りの人たちってさ、カップルばっかじゃない? それにちょっと薄暗いしさ、はぐれちゃうのも嫌だし……だから、手つないで欲しいかなって……思って」


 と、俯き恥ずかしそうにしながら彩乃が言った。

 海斗も、ドキリと心臓が跳ねた。


 周りの人たちがカップルばかりと言うには語弊がある。水族館には団体客や家族連れだって結構居るのだから。

 ただ、この空間のこの雰囲気に限って言えば、クラゲ以外は他のカップルしか目に入ってこないのも事実ではある。


「え、あ、手ぇつなぐって……その、恋人同士でもないのに、か? 幼馴染だぞ?」


 幼馴染がどうしたんだと、自分の言った言葉に突っ込みたくなった海斗。

 突然の手を繋いで欲しいとの彩乃の申し出に、嬉しさのあまり動揺し過ぎて、つい心にも無い事を言ってしまった自分を後悔する。しかし、


「ええ、そうよ。別にいいでしょ? それとも、幼馴染が手ぇ繋いじゃいけない、なんて法律無いでしょ?」


 彩乃は、むきになって食い下がった。


「う、うん、まあ、そうだけど……」


「だから!」


 戸惑い躊躇していた海斗の手を、彩乃がグッと掴んだ。

 掴んだ海斗の手をそのまま引っ張り、彩乃はか細い指でギュッとした。


「ね! こうやってしっかりつないでいようよ。そのほうが自然っぽくない?」


 確かに彩乃の言う通り、この雰囲気では離れて歩くほうが何だか気まずい気がする。返って手を繋ぐか寄り添っていた方が、より自然なのかもしれない。


 ただ、女の子とこうしていることに慣れていない海斗は、恥ずかしさが顔にはっきりと出ていたようで、


「もう、そんなに恥ずかしがらないでよ。アヤだって心臓が飛び出そうなくらい恥ずかしいんだからね」


 照れた顔で上目づかいに言う彩乃。

 海水ブルーの光に消されているが、おそらく彼女の顔も、そして海斗の顔も真っ赤になっていた。

 

「じゃあ、イルカショーを見にいきましょう」


 そう言って彩乃は元気よく歩き出した。海斗はそれに引っ張られる。

 

 結局、イルカショーに着くまであちこちの水槽を回り、その間ずっと手は繋いだままだった。繋いだ手は汗でベトベトになっていたが、それでも彩乃は離してはくれなかった。


 丁度、開演時間前にショースタジアムへ到着した二人は、空いていた前列の特等席へ。

 さすがにショーを見る時には、繋いだ手を放した。

 ダイナミックなイルカのパフォーマンスに圧倒される。見事な演技をするイルカもさることながら、それを調教するのにどれほどの血の滲むような努力が必要だったか、そんなことを思いつつ調教師に心打たれてしまった海斗。

 どんだけ仕事目線だよと、彩乃から冷ややかに突っ込まれた。


 ショーが終わってからも、興奮冷め止まぬ二人。

 彩乃は、終始嬉しそうな顔を振りまいていた。


 最後はもう一周館内を歩いてみたいと彩乃が言い出し、二度目の海洋生物探索へ。もちろん手は繋いで。



 帰り道も、高速道路を乗り継ぎひた走る。彩乃は早々に助手席で爆睡だった。

 せっかく寝ている彼女を起こしたくなかった海斗は、パーキングエリアで休憩を挟みつつ、なんとか一人で眠気と闘っていた。

 大切な幼馴染を乗せて走っているのだから、事故だけは起こしたくないと海斗は思う。


 ただ、酔いつぶれていた時もそうだったが、無防備な寝顔が可愛らしく、運転中なのにどうしても気になってしまう。

 ちょっとだけ悪戯してみたいという邪な気持ちが沸き起こりながらも、運転に集中しなければ……と、自制する気持ちに板挟みになっていた。

 そうこう自問しているうちに、ようやく見慣れた風景が。

 なんとか無事に帰って来れたのだ。



 一緒に遊びに出掛けて、楽しそうにしていた幼馴染。

 海斗ははっきりと彩乃のことを愛おしく思えるようになっていった。

 

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