25 二日酔い


 飲み過ぎてしまった次の日。

 彩乃はあれからずっとベッドの上に。閉め切った部屋の中は、徐々に温度が上昇していく。


 窓のカーテンは閉めてあったのだが、真夏の照りつける日差しと、外気温の温め効果があまりにも激しく、弱運転だったクーラーが効かなくなってきていた。


「う゛ーーん」


 徐々に室内温は上がっていき、彩乃はうなされるように目覚めた。

 そしてゆっくりと上体を起こした。


 重い瞼を開き壁の時計を見ると、時刻はもう10時を回っていた。

 朝だと思っていた彩乃は、どうりで部屋の中が暑いはずだと納得する。


「あ゛~、頭がガンガンする……ううっ、きもちわる」


 ひどい頭痛に、吐き気もする。

 完全に二日酔いだ。

 汗ばんでいる体も、髪の毛もベトベトだった。

 

 クシャクシャになったタオルケットをはがすと、自分の服装がいつものパジャマ姿ではなく、昨夜の衣装のままなのに気づいた。


(あーあ、着替えもせずに寝ちゃうなんて……)


 そう思った彩乃は、どうして着替えもせずに寝てしまったのか不思議に思った。いや、それどころか、この体のベタつきからして、シャワーすら浴びていない。おそらくメイクもそのまま。


 いくら思い返してみても、昨夜ベッドに寝転がった記憶も無ければ、帰宅して家に入った記憶もない。


(……あれ? どうやって家まで帰って来たんだろう?)


 ――昨日の記憶を辿ってみる。


 女子会が始まって、しばらくは大人しく飲んでいた。途中から気持ちが熱くなり、飲むペースを上げて、しずかと意気投合した。

 その後は、しずかと競うようにお酒を飲み、制止する京子の忠告を聞かずに次々と追加していった……そこまでは覚えている。

 しかし、その後が全く思い出せない。


 居酒屋を出た記憶すらもあやふやだったのだ。


 いくら記憶を辿ってみても、どうしてもその部分からの記憶が曖昧。いや、むしろ無いと言ってもいいくらいだった。


 きっと京子が付き添ってくれて奇跡的に帰って来れたんだと、都合の良い事を考えてみる。が、電車の方向からして、それはありえないことに気付く。


 じゃあ、どうやって?

 考えれば考えるほど、彩乃に不安が襲って来る。

 どうにもわからない事態に、背筋か凍るほどの恐怖を覚えた。


 とにかく彩乃は、完全に記憶が無くなるまで飲んでしまった事に、今更ながら後悔していた。


 とにかく頭がガンガンする。



◇◆◇



 二階から降りてきた彩乃は、足取り重くおずおずと居間に入ってきた。


「あら彩乃、おはよう。まだ起きてこないと思ってたわ」


 テレビを見ていた和恵は、横目でちらりと彩乃を見て言った。

 冷たい視線を受けた彩乃は苦笑い。


「……おはよう、お母さん。……うーん、気持ち悪い……頭が痛い……」


「当たり前でしょ、あんなに飲んで。まあ、学生の分際で、良いご身分だ事」


 嫌味ったらしく言い放つ和恵に「……あはは」と乾いた笑い声の彩乃。


「……ねえお母さん、昨夜どうやって帰って来たのか、思い出せなくて……京子ちゃんと一緒だったのかな? それとも一人で?」


 頭とお腹をぼりぼりと掻きながら、寝ぼけ眼で和恵に尋ねる。


「あなた本当に何も覚えていないのね」


「えへへ、恥ずかしながら……イテテッ!」


 彩乃は照れ隠しで頭を傾げたが、二日酔いの頭痛で傷みが増してしまった。冷めた目で見ている和恵は、ため息をつく。


「海斗君があなたをここまで届けてくれたのよ」


「え! カイが! え? どうして?」


 海斗の名前が出てきたことに驚いた彩乃。今日も仕事の予定のはずなのに、わざわざ迎えに来て、家まで送り届けてくれていたなんて。

 図々しくも海斗を呼び出したのは、自分ではないのかと一抹の不安を覚える。なにしろ、酔いが回り過ぎていて殆ど覚えていないのだから。


「そんなの知らないわよ」


 と、冷たくあしらうように言い放った和恵は、続けて昨夜あった事実を語る。


「とにかく、夜中に海斗君が車で送ってくれたんだけど、あなたが酔いつぶれていて、ちっとも起きなかったから困っていたわ」


 全く記憶にないので、彩乃は苦笑いするしかなかった。


「仕方なく、私と海斗君で、彩乃を担いで二階まで……そりゃ大変だったわよ。海斗君だって怪我したばかりでしょ。しかも仕事終わりで、疲れていたと思うわ」


 和恵のその言葉に、ぐさりと胸を刺された気分になった。

 意識が飛んでいる人を二階まで運び上げるのは、さぞかし重労働だっただろうと、彩乃は心の中で反省していた。しかし……、


「ちょ、ちょっと待ってよ、お母さん」


「なによ」


 ある不安が彩乃の頭を過った。


「それって、もしかして、カイも、アヤの部屋に入ったってこと?」


「ええ、そうよ」


 いま幼馴染の海斗に一番見られたくなかったものを、見られてしまった事実。後日バカにされるのは火を見るよりも明らかだ。


「……うわぁー、最悪。お母さんも、部屋の状態わかってたなら、カイに見せないようにしてくれても――」


「バカ言わないで! 当たり前じゃない。私ひとりじゃあなたをベッドまで連れていけないわよ! いちいちそんなところに気を使うなんて、とてもじゃないけど出来ません!」


「うわー、マジかぁ……」


「だから、日ごろから片付けをしておきなさいって、あれほど言ってたじゃない。その度に、あーうるさいだの、今度の休みにやるだの言って逃げて……ホント、自業自得だわ」


 それ見たことかと言わんばかりに、和恵は鼻を鳴らした。彩乃は暫し放心状態。


「そうね。これからも海斗君には、ちょくちょく来てもらおうかしら。そうすれば彩乃の部屋も、ずっと綺麗を維持していられる……かもしれない。うん、我ながら名案ね」


 かっくりとうなだれた彩乃は、おずおずと居間を出ようとした。


「……シャワー浴びてくる」


 と、彩乃はぼそり。

 昨日の汗も、曇った気持ちも洗い流して、キレイさっぱりリフレッシュしたい気分だった。


「ん、いってらっしゃい。あー、洗濯機回しておいてね。あなたの洗濯物待ってたんだから」


「あーはい、はい」


 彩乃は適当に、気の無い返事を返した。

 と、直後、思い出したかのように和恵が彩乃を呼び止めた。


「あっ、彩乃。……それとね」


「ん? なによ」


「昨日、相川病院の医院長から電話があったの」


 ――相川病院の医院長。

 それを聞いた彩乃は、少しだけ表情が硬くなっていた。


「……へえ、先生何て?」


「なんか、もう一回調べたいことがあるから、また近日中に来てほしいからって伝えてくれって。彩乃この間、検査に行ったでしょ?」


 海斗が腕を怪我して、相川病院の待合ロビーで彩乃と会った日だ。

 まさか病院でばったり出会うなんて、彩乃は思ってもいなかった。

 海斗に病院に居る理由を訊かれてしまい、とっさに盲腸の抜糸なんて嘘をついてしまった。あの日だ。


「先生が言うには、どうも血液に気になる数値が出てたらしいのよ。いや、今すぐどうするとか、緊急性は無いらしいし、もしかすると検出の間違いかもしれないって。だから、あくまで念のためって言ってたわ」


 あの日も、定期的な検査の日だった。

 あらゆる検査をした結果、最後の問診で医院長から「今回も大丈夫ですよ」と太鼓判を押された。


 今日の検査も、いつも通り何も見つからず、彩乃は胸を撫でおろしていた。

 なのに……。


「……そう、わかった」


 彩乃の顔はより一層険しくなっていた。そして伏し目がちに廊下に出る。

 心配そうに彩乃を見つめている和恵は、彼女の背中にこう訊いた。


「彩乃……最近、貧血とか吐き気とか、体が不調なんてこと無いわよね?」


 彩乃は立ち止まるが、振り返りはしなかった。


 ここ最近の体の不調に、全く心当たりが無い訳ではない。動物園や合コンの時のあれだ。

 でも、それ以外は特に不調になることは無かった。普段通りの生活を送れている。


 妙な夢を見始めて、もう何回か見ているが。


「もし、少しでもおかしなことがあれば、必ずお母さんに言ってちょうだい。ね」


 そう神妙な面持ちで和恵は言った。


 彩乃が病気になってしまったと判明した五年前。大事な一人娘が、それもよりにもよって乳房切除しなければならない難病。

 一般的に早期治療を施せば、生存率は高い病気だと言われている。

 だが彩乃のそれは、少し厄介で、あまり旗色が良くないと医院長が言っていた。

 和恵には医学的な詳しい内容はよくわからなかった。でも目の前の医院長の表情を見ればその深刻さが伝わった。

 一緒に医院長の話を聞いていた夫の顔から、見る見る血の気が引いていたのを今でも思い出す。


 思春期だった娘が、青春を謳歌したかったろう娘が、大切な物を切り取られてしまうなんて……。

 代れるものなら自分が代わってやりたいと、和恵は心底そう思っていた。


「うん、大丈夫だよお母さん。アヤは全然元気だから」


 そう、言い残した彩乃は、シャワーを浴びるためバスルームに向かっていった。

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