22 相川病院


「では、渋川さん。お大事に」


「……すみません、ありがとうございました」


 左腕に包帯を巻いた海斗が、外科の診察室にお辞儀をして、ゆっくりと出てきた。

 検査の結果、骨にはヒビ等の異常は見られなかった。それに関しては一先ず安心と担当医の先生は言っていた。

 だが、激しく裂けた皮膚は五針も縫う大怪我だったので「ご家庭で、このような損傷はあまり考えられないのですが……」と医師が眉を寄せて海斗を疑った。

 が、海斗は社長の指示通り嘘を突き通した。


 麻酔の効力で感覚がおかしくなっている左腕を庇いながら廊下を歩く海斗。

 未だ怪我のショックで放心状態の海斗は、事故の瞬間が脳内で走馬灯のように繰り返し再生されていた。気を付けていた筈なのにと、あの時の状況を何回も何回も……。

 床に視線を落としながら、ゆっくりと待合ロビーへと歩いていった。




 この相川病院は、羽柴製作所から遠く離れた場所にある。

 社長の命令により、会社近くの専属病院ではなく、わざわざ遠くの、しかも病院名まで指定されて来た。


 新村が付き添い役として、海斗を社用車でこの相川病院まで送ってくれた。

 運転中はずっと不機嫌だった新村。道中の車内は終始気まずい空気だった。

 新村の怒りの原因は、海斗のちょっとした不注意で起こった事故ではなく、どうやら社長のやり方に対してのようだった。

 その不満が社長の悪口やら愚痴となって、海斗は車中で延々と聞かされる羽目に。


 その後は、海斗が受付を済ませると「後のことは心配するな、今日は会社来なくていい。まっすぐ自宅に帰って休んでろ」とだけ言い残して、新村は病院を立ち去っていったのだ。

 直ぐに立ち去ったのは、会社ぐるみでの隠ぺいが、病院側にばれないようにとの配慮らしい。




 ロビーに到着した海斗は、待合用のソファーへと向かう。

 

「あれ!? カイよね?」


 ソファーの方から知った女性の声が海斗の耳に届いた。

 落としていた視線を声の方へ向けると、そこには幼馴染の彩乃が。

 一人ポツンとソファーに座っていた彩乃は、驚きの眼で海斗を見ていた。


「えーっ! どうしたのその腕?」


「あ、いやぁ、会社で……あっ!」


 思わず口から出てしまった『会社』という言葉に、海斗はハッとして慌てて言い直そうとした。


「え? なになに? 会社? 会社でどうかしたの?」

「アヤ、ちょ、声が大きいって!」


 海斗は慌てて彩乃の隣に座るのと同時に、幼馴染の口を手で押さえつけた。

 口を塞がれた彩乃は、薄茶色の瞳をパチクリして「ふごふご」と言葉にならない声を発していた。

 そして海斗は彩乃の耳元で、


「ごめん。ちょっと訳あって、会社って言ってほしくないんだ。ねっ」


 そう小声で言った海斗に、彩乃は横目で海斗を見ると数回頷いた。

 海斗も一度だけ首を縦に振ると、押さえていた手を開放する。

 

「ぷはぁぁー、ちょっとぉーいきなりなによぉ、窒息して死んじゃうじゃないの、まったくー、はぁー苦しかった」


 苦しかったと言う割には、終始笑顔が溢れていて、声も弾んでいた彩乃。


「でも海斗のその左腕って、結構な大怪我じゃないの? 大丈夫だった?」


「まあ、五針縫ったけど……なんとかね」


 心配そうに海斗の左腕を見つめる彩乃。

 ふさぎ込んでいた海斗の顔は、強張っていてどこか血の気も引いていた。


「ごめんアヤ。僕にも色々事情……っていうか、この怪我は家で寝ぼけて、テーブルにぶつかって、それで……」


 海斗の顔をジッと見ていた彩乃は、今の言葉の言い回しに違和感のような、もしくは不審な点を覚えていた。

 それを裏付けるように、海斗の表情からも伺い知れたのだ。

 何かを隠そうとしている、そういったちょっとした仕草に。


「変よ。平日のこんな時間に? 仕事休んで?」


「う、うん。まあ……」


「……ふうん、そうなんだ……」


 明らかに怪しむ目を向けている彩乃。

 その鋭い眼光に、海斗は背中に冷たい何かを感じていた。


「なーんか、怪しいなぁ」


「な、何がだよ」


「どうしてさ、家から来たのに、そんな大きな荷物を持ってるの? まるで着替えが入ってるみたいじゃない?」


「当然だろ。慌ててたから血の付いた服のまま来ちゃったんだ。その着替えを入れてあったから」


「あぁ……まあ、そこは仕方がない、納得してあげるわ」


 彩乃は何処か腑に落ちないといった口調だった。海斗は出来るだけ悟られまいと、ポーカーフェイスを維持し続けようとしている。


「だって、カイは家から一人で病院に来たんでしょ? 車を運転して」


「……ああ、そうだよ」


「だよね! 汚れた服じゃ電車に乗れないし。そもそも、血が流れ出ててどうしょうもなかったのかな? 五針も縫うぐらいだからね。で、どうしてそんな大怪我だったのに救急車呼ばなかったのよ!」


「――っ!」


「それに、今日、仕事休んだ理由は何なのよ?」


 海斗の怪我の理由を全て怪しむように、眉を寄せて質問攻めしてくる彩乃。

 まるで母親のような探りの入れ方の彼女に、嘘は通用しないのかと海斗は感じていた。


 今日はもう会社に戻るなと言われていた。それは社長からの言付けでもある。

 そして社名の入った作業着をわざわざ私服に着替えさせられている。


 そこまで注意が払われているのは、病院側に会社名がばれないためであり、診察のとき医師たちに怪しまれないようにとの偽装のためだった。


 破れて血糊の付いた作業着は、私服に着替えて持ち帰っていた。そのため、海斗が持っているバックは、ぐちゃぐちゃに詰め込んだ作業着で膨らんでいたのだ。

 普段着で登場すれば、たとえ疑われ怪しまれたとしても、何とか言い逃れしろとの命令だった。



「アヤの見た部屋の感じだと、そんなふうにケガするなんて考えられないんだけどなぁ。あ、そうだ! 今度、アヤと一緒に現場検証しましょうよ!」


 豊満な胸の下で腕組みをしながら鼻を鳴らす彩乃。

 まるで海斗は心を読まれているのかと錯覚するほど、彩乃の鋭い察知能力に脱帽するしかなかった。これ以上は嘘を突き通せないと判断した海斗は、ついに観念することに。


「……わかったよ。正直に話すよ」


 そう海斗が肩を窄めて言った途端に、彩乃の唇が大きな弧を描いていた。

 やはりどう足掻いたって昔から彩乃には敵わないと、そう自分の弱さを再認識した海斗だった。


「うむ、ならよろしい。カイは嘘ついても駄目なんだから。目が泳いでて直ぐにわかっちゃうの。だから、アヤには通用しません! えへ♡」


 笑顔に戻った彩乃は、ピッと舌を出してウィンクした。

 なんとも可愛らしいその仕草に、海斗は一瞬ドキリとする。


(あれ? なんだろう、この気持ち……)


 自分のこの感情は一体何なのか。



『ありゃ絶対お前に気がある』

『今がモノにする良いチャンスなんじゃねえか』

『押し倒してみるのもアリなんじゃねえかなぁ』


 今日、新村に言われた言葉がふとよみがえってきた。


 怪我をしたあの時も、その言葉が海斗の頭をよぎっていた。

 機械の操作を誤ってしまい、怪我につながった原因だ。工場内の暑さで思考能力が低下して、判断を間違ってしまったと言い訳したが、実際には違っていたのだ。

 今まで何も感じていなかった幼馴染の行動や言動を、思い返しているうちにあの事故になってしまった。そう、海斗は反省していた。



 変に彩乃を意識すると、また違う意味で怪しまれてしまうのでは……。

 そう思った海斗は、雑念を振り払うようにがぶりを振った。


「ん? カイどうしたの?」


 首を傾げて海斗を見つめる薄茶色の瞳。出来るだけ意識しないようにと、海斗は目を逸らした。


「あ、いや、なんでもない」


「うふっ、へんなのっ」


 今まで幼馴染としか彩乃を見ていなかった海斗だったが、同僚の新村に言われたことで、どうしても考えがそっち方向に寄ってしまいそうになる。


「で? 聞かせてよ。怪我の理由を」


「うん……実は……」


 海斗は近くに人が居ないか辺りを見回した。もし病院関係者に聞かれでもしたら大変なことになりかねない。

 幸いにも通り過ぎる人も看護婦すら見当たらず、言うなら今しかないと思い、口に手を添えて彩乃に耳打ちをした。

 

 彩乃の髪からシャンプーの良い匂いがする。

 顔を近付けたせいで、よりいっそう海斗の心臓は激しく鼓動していた。





「えーーっつ!! 酷い! それって絶対いけない事じゃないのっ!」

「シーーッ! アヤ声大きいって」


 海斗は、機械操作を誤り、この相川病院に来るまでの経緯を彩乃に打ち明けた。

 もちろん彩乃のことを考えていた旨は、話していない。


 聞いた彩乃は驚きのあまり声を張り上げてしまい、慌てて海斗が制止する。


「あっ、ごめんなさい。つい」


 彩乃は両手で口を押えると、上目づかいで海斗に向かってペコリ。

 意識しているつもりはない海斗だったが、ちょっとした仕草も途端に可愛く見えてしまった。


 ほんのり頬を染めながら、誰かに怪しまれていないかキョロキョロと見回す海斗に、彩乃は肩を寄せて小声で話し出す。


「カイの不注意かもしれないけど、でもそれって事故を隠してるってことでしょ?」


「まあ、そういうことになるよな。だから社長が……」と海斗もヒソヒソ声で返していた。


「…………ブラックじゃん、ブラック企業」


 そう言われると、海斗は何も言い返せない。


「えっとね。アヤはこう見えても一応医学系の学部に通ってるから、少しはこういう法律のこと勉強してるのよ」


「……」


「えっと確か……社内で起きた事故や怪我は、必ず報告書を提出しなければいけないの、そのための再発防止も考えなきゃなのよ。それにね、監督署? からかな、厳しいチェックも入るはずだから」


 羽柴製作所は小規模な企業である。従業員の数も少なく、日々の生産を滞りなくやっていってなんとか利益を出しているような会社だ。

 そんな会社が、事故対策の為に操業できなくなることなどあってはならない。たちまち経営が立ち行かなくなってしまう可能性は十分に考えられるのだ。


「そっか……近々大口の注文が入るって社長が言ってた。事故のことで機械も止めたくないって言ってた。もし僕の不注意を正直に言ってたら……そんなにおおごとになるなんて……」


「事故の事実を隠していたと判ったら、もっと大変なことになると思うの。……どうしたらいいか考えてみてよ、カイ?」


 海斗は歯を食いしばり、床に視線を落とした。

 彩乃はそんな海斗の横顔を、憂いを帯びた瞳で見つめていた。


「……やっぱり」


「うん」


「やっぱり、僕は黙っていようと思う。事故を隠すことは、悪い事だってわかっていても、でも、それでも、今の僕が頼れるのはあの会社しかないんだ」


「うん」


「バレちゃった時は、しょうがない、共倒れするしかないよね。ははっ」


「……そっか、カイがそう決めたんだったら、アヤはもう何も言わないよ。うん! この事は秘密にしておいてあげる」


「アヤ……ありがとう」


「ううん。でもさ、この病院を選んだ社長さんて凄いね。ねえ、カイ知ってる?」


「ん? なにが?」


「この病院の医院長ってここらでは一番の凄腕なんだってよ」


「へえ、そりゃ凄いなあ。ちなみに僕の担当医じゃないけどね」


「そりゃそうでしょ、一番のお偉いさんだもん。でね、この病院全体で、絶対に秘密を守ってくれるの。その絶対の信頼があるのよここは。個人情報以外知られたくない事って、人によって様々なの。どんな患者さんでも、どんなに小さな会社でも、そしてどんなに悪い人でも、絶対秘密にしてくれるのよ」


 彩乃は淡々と、しかしどこか確信をもって話していた。それはまるで、彩乃自身がここの医院長を頼っているかのように。


「……それってアヤも何か秘密があるって事?」


 海斗がそう訊くと、彩乃はハッとした表情になった。


「えっ! い、いやいや、そういうんじゃなくて。き、聞いた話よ、他の患者さんから聞いた話。……ほら、アヤは一応医学系学んでるし、ね」


 妙に落ち着きのない態度になってしまった彩乃。本当のことを語り過ぎてしまい、逆に墓穴を掘ってしまったと内心ハラハラしていた。

 しかし海斗は、彩乃の焦りっぷりに気を止めることなく「へえ、そうなんだ」と納得していた。


「で?」


 彩乃は「ん?」と首を捻る。


「で、アヤは何の用事で今日はここに居るの? もしかしてどこか具合が悪いとか?」


 ――彩乃がここに来た理由。

 それはたとえ幼馴染の海斗にさえ言えない、彩乃が抱えている秘密。

 彩乃は天井を眺め、何かを言わなければと……。


「あー…………盲腸」


 とっさに出た嘘だった。


「盲腸?」


「そう盲腸! 盲腸の手術したのよ、今日はその抜糸なの。見る? 見たい?」


 彩乃はシャツの裾を掴みまくり上げようとする。しかし海斗は、


「ちょ、いいよ、こんなところで。人に見られたら恥ずかしいだろ」


 彩乃の腕を押さえつけて、海斗は裾をまくり上げるのを阻止した。


 海斗のその行動に、彩乃は内心ほっとする。でまかせで言った盲腸なので、傷跡など全くなかった。海斗が止めてくれるのを見越しての行動だったのだ。


 彩乃は「ふふっ」と笑って、腕の力を抜いた。海斗は苦笑いを浮かべていた。


 

 するとロビーのスピーカーから、海斗を呼び出すアナウンスが聞こえてきた。


「あ、会計だ。僕はこれで帰るけど、アヤは抜糸頑張れよ、じゃあな」


「うん、カイまたね」


 海斗は右手を振り清算カウンターへ向かっていった。

 彩乃もベンチから手を振る。




「古嶋彩乃さん。先生の準備が出来ましたので、こちらへどうぞ」


 と、カルテを持った看護婦さんが、彩乃の横に立って話しかけてきた。

 彩乃は「はい」と一言だけ言って立ち上がり、看護婦さんの後をついていった。


 目を伏せて無表情のまま後をついてゆく彩乃。

 ただ無言のまま後をついてゆく様は、もう幾度も同じことを繰り返してきた、そんな風に見えていた。


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