13 頼みたい事


「実はね、この論文を今日中に仕上げようと思っているの」


 テーブル脇に置いてある参考書類をポンと叩きながら彩乃は言った。

 何を言われるのかと不安に思い身構えていた海斗だったが、彼女からの第一声は意外にも正論から始まった。


「……だよな、僕もそうした方が良いと思う。めんどくさいことを後回しにしたツケだからな、とっととやっちゃった方が身のためだ」


 と言って彩乃に同意を示したが、彼女の本題はきっとこのあとだ。


 既に学業から離れてしまった海斗だったが、仕事だって日常生活だって同じこと。

 嫌な事を後回しにして、ズルズルと先延ばしにしてしまうと、いつかそのツケが回って来てしまう。


 実際の話、海斗の苦い思い出として、幼少期の彩乃があてはまる。

 嫌な事を後回しに、挙句は押し付けられるといった事が、何度も繰り返されて泣かされてきた。

 そのほとんどが学校の宿題だったが。


 夏休みとかの長期連休の宿題は特に酷く、連日遊び惚けていた彩乃は、ほぼ何も手付かずのまま最終日を迎えることになる。

 大騒ぎして泣き付かれ、結局最後は海斗の答えを丸写ししていたのだ。日記までも。

 

 そのおかげかどうか、海斗は早め早めに対処する、しっかり者の性格に育っていったとか。


 きっと彩乃の性格はあの頃となんら変わっていないのだ。嫌な事はギリギリまで後回しておく。

 その結果が今まさに目の前に起こっている事態であるに違いないと、海斗は確信していた。


「そうなのよ! もうアヤ、やんなっちゃうー。だ、か、ら……」


 妙にもったいぶった言い方をする彩乃の顔を良く良く見れば、ほのかに薄笑いを浮かべているのがわかった。


「――――――!!」


 海斗はそれを見た瞬間、背筋に悪寒が走る感覚を覚える。

 当然嫌な予感しかしなかったので、すでに想定していた最悪のシナリオを思い浮かべながら恐る恐る口を開いた。


「あの、アヤさん」


「ん? なんでしょうか、カイどの」


 胸を張り威張った感じの上から目線で言ってくる彩乃に、若干イラッとくるも海斗は下手のまま話を続ける。


「ちなみに、僕への頼み事って? まさかとは思いますけど……」


「お! さすが我が幼馴染よ、以心伝心、察しがよろしいかな。言葉にしなくともわらわの頼みがわかるとは、苦しゅうないぞ」


 ほらやっぱりと海斗は確信する。

 頼み事はよほどのことが無い限り、基本断れないのを知っていて、しかもこの調子だ。図に乗り過ぎている彩乃に心底失望してしまう。

 そう、彩乃は絶対に論文を書くのを手伝えと言うに決まってる。何を考えているのだ幼馴染、無茶苦茶だ……と、海斗は考えていた。


「ちょっと待て、……それってまさか! 論文手伝えって言うんだろ! 久しぶりに会ったアヤがそんなんだったとは、見損なったよ! だいいち僕は勉強から離れているし、無理無理無理だって!」


 強く否定してみせた海斗。しかし正面の彩乃からは、思いもよらない反応が返ってきた。


「ち、違うわよ! そんな事カイに頼むわけないじゃない! 大体、他人に書いてもらった論文なんて全く意味ないし、そんなの絶対先生にバレちゃうって。失礼しちゃうわ!」


 海斗の予想に猛反発の彩乃。逆に怒られてたじろいでしまう。

 では、彩乃の願い事とは何なのか。


「…………じゃあ、僕に頼みたい事って何なのさ?」


「えっと、論文書き終えたら、気晴らしにどこか遊びに連れてってほしいと思ったからなの。……もちろん、論文は途中まで書いてあるから、そんなに時間はかかんないつもりだけど……」


 伏し目がちに照れながら彩乃は言った。


 そう、彼女はもう二十歳になった大人だ。自分の事は自分でやる。

 離れ離れになっていた十年もの間、彼女は一人の女性として立派に人生を歩んできた。

 幼き日の彩乃に置き換えて考えるだなんて、何て失礼な事だろうと。

 彩乃の事を疑った自分に、少なからずとも反省していた。


 しっかりと女子大生している彩乃に対して、志半ばで大学進学をあきらめてしまった海斗とは大違いなのである。


「なあんだ、そんなのお安い御用さ。希望とあらば、僕が可能な範囲ならどこだって連れってあげるよ。前もって言ってくれたらよかったのに」


「ありがとうカイ。今度から遠慮なしに頼んじゃうからね」


「……お手柔らかに、……はは」


 瞳を輝かせて笑みを作る彩乃に、乾いた笑いを返す海斗だった。


 ……で、それはそれで良いのだが、やっぱりそれとは別に腑に落ちない点もあり、海斗は彩乃に伺う。


「……でも、今日のそれってさあ、アヤ」


「ん? 何?」


「論文を書き終えたいってことは、つまり、アヤがそれを仕上げるまで、僕はここで待ってろって事だよね?」


「そうよ、そういう事よ。当然でしょ! 悪い?」


「悪いも悪くないも……それなら僕が来るのって、論文終わってからでも良かったんじゃないの? 呼ばれたらすぐに駆け付けたのにさ」


「えーっ、それじゃあ呼んでからカイが来るまで、アヤが待ってなくちゃいけないじゃん」


 待つと言っても十分程度である。

 海斗の住むアパートから彩乃の家まで車を走らせるとその程度だった。思っていたよりも意外と近距離だった事に海斗は驚いていたのだ。

 まあ、行動派の彩乃がその十分を短いとは思わないだろうが。


「いや、せめて、もうちょっとで終わりそうかな~って時にしてほしかったな。僕はいつも暇してるし、丸一日家で待っていろっ言えば、ずーっと待機していたぞ」


「それは……そうかもしれないけど、でも……」


「そもそも論文書くのに、他人がいたら集中出来ないんじゃないのか? せめて図書館でやるとかさ」


 集中できる環境は、人それぞれである。賑やかな場所でも集中できる人は集中できる。

 ただそれはごく限られた人であって、大多数は落ち着く場所や静かな環境が好ましい。

 ただでさえ集中力散漫であろう彩乃には、図書館のような静かな場所が適していると海斗は思う。だが、


「実はね、アヤは、ああいった静かーな所は苦手なんだよね~。すぐに眠くなっちゃうし」


「…………あー、なるほど、凄くわかるわ~」深々と首を縦に振る海斗。


「あっ、ひどーい! カイの意地悪」


「自分で言ったんだろ」


 不服そうな顔をしている彩乃はカプチーノを一口飲む。


「んー、美味しい!」


「アヤのそれも、うまそうだな」


「クリームがほんのり甘くておいしいのよ、あとで頼んでみる?」


「……アヤはそんなに長居するつもりなの? ていうか論文書き終えるのって、今日中に終わるよね?」


「うんうん大丈夫、アヤ的にはちょちょいと終わらせるつもりだから…………まぁー、途中で飽きちゃう可能性も、無くは無いとも言えないけどね」


「何だよそれ、意味わからんし。そもそも、大事な論文をちょちょいでやっていいのかと、疑問に思うぞ」


「見ていなさい。アヤにかかれば論文なんて、ちょちょいよ、ちょちょい! ふふふっ♡」


 彩乃は楽しそうに人差し指を振りながら言った。海斗もクスクスと笑いをこらえる。

 すると、先ほどの店員さんが二人のテーブルの脇に姿をあらわした。

 

 小声で店員さんが「しつれいします」と言うと、トレーに乗せた注文の品をテーブルに置いていった。


「ごゆっくりどうぞ」


 深々とお辞儀をした店員さん。海斗も軽く会釈を返す。

 彩乃が「ありがとうございます」と店員さんに声をかけると、


「じゃ、ゆっくりと楽しんでね彩乃ちゃん」


 そっと彩乃の耳元で囁き、意味深なウィンクを彩乃へ飛ばした店員さん。すぐさまきびつを返してカウンター奥へと戻っていった。


「――――」


「アヤ? どうしたの顔赤くして」


「……いや、べつに、何でもない」


「まあ、しょうがないな。頼んだコーヒー来ちゃったし、論文書くの手伝えって言われるよりマシだと思って、諦めてここで待ってるよ」


「ありがとカイ。見てて、ちゃちゃっと終わらせるから。美味しいコーヒーでも堪能しながらくつろいでいておくれ」


「はいはい、そうさせて頂きます」


 せっかくの焼きたてのトースト、それに香ばしい良い匂いだ。早速大口を開けて噛り付くと、


「んッ、んまい!」

「でしょ、でしょー!」


 他にもポテトサラダ、スクランブルエッグやソーセージがセットになっていて、どれも凄く美味しいのである。


「ほぉ~、さすがアヤのおすすめだ! 気に入ったよこの店」


「よかったぁ、カイのお口に合って、うふ♡」


 彩乃はにこりとはにかみノートパソコンを開くと、カチャカチャとキーボードを打ち始めた。

 横には医療か医学か、そんな感じの参考書が三冊ほど積まれていた。

 時折、そのうちの一冊を開き、拾い読みしながら考えている姿も。


 考えがまとまれば、またパソコンとにらめっこする。

 傍から見ていると、なんだか微笑ましくて。


 海斗は頬杖をつきながら、画面と向き合う彩乃を覗き見る。


「……ちょっと、気が散るからやめてよねっ」


「悪い、悪い」


 あまりからかい過ぎると、かえって待っている時間が伸びてしまう。

 性格上、とにかく些細な事でもいちいち反応してしまう彩乃だ。邪魔にならないように、なるべく不要なアクションは控えようと海斗は心がける。


 パソコンと向き合っている彩乃は、真剣そのもの。

 海斗はコーヒーを飲みながら、彩乃の作業が終わるまでスマホでネットニュースを閲覧している事にした。



 そうやって静かに二人の時が過ぎていく――――


 会話こそ無かったものの、海斗にとって彩乃とこうしている時間は、とても心地のよいものだった。


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