12 月影珈琲店


 『月影珈琲店』は、彩乃の家から三分ほど歩いたところにある。


 知る人ぞ知る、今では見た目隠れ家的な感じの、いわゆるかつての喫茶店。


 店の売りは、やはり深みのある自慢のコーヒーであるが、早朝のお客はお得感満載のモーニングサービスを目当てにこの店を訪れている。

 今朝も五つしかないテーブル席とカウンターが埋まってしまうほど、ここら辺ではわりと人気の高いお店なのである。


 ほぼ開店と同時にやってきた彩乃は、その店内の一番奥のテーブルに座っていた。


 こんがりと狐色に焼けたトーストに店自慢のあんこをたっぷりと乗せて、それをかじりながら外の景色を眺めている。

 テーブルの上にはモーニングセットの他に、教科書やノートパソコンが置いてあり、さも勉強に打ち込む風を装っていた。


 近日中には必ず大学側に提出しなければならない論文があり、集中したいから外に出て仕上げたいと母に言って家を出てきた彩乃。

 実際問題、累計点数が低ければ本当に落としてしまいそうな科目の単位だったので、真剣に取り組まなければならなかったのは事実だった。


 バイトをしているせいで単位を落としたと母に思われるのはできるだけ避けたかったし、もしも父の耳にそんな事が伝わってしまったら、今後バイトを続けられなくなる可能性も否定はできない。


 まあ今更、父親なんかにどうのこうの言われようが知った事では無いと彩乃は思っているのだが。

 それでも母の手前、頑張らないといけないことは分かっていた。

 


 コーヒーを飲みながら、真剣に課題を取り組む女子大生。


 店が混雑してくれば、相席をお願いされるのは覚悟のうえだった。

 それでもギリギリまで相席にならないよう粘るため、勉学に打ち込む姿を猛アピール。


 ――と、出来る事ならずっとその雰囲気を打ち出していたかった彩乃だったが、やはり無理があったと自覚していた。


 ちらちらと店内の時計を気にしたり、窓から見える歩道を横切る人の顔を目で追ったりと、時々みせる落ち着きのない様子は、誰が見ても明らかに誰かと待ち合わせをしているといった風である。


 彩乃が待つ人物。それは他の誰でもない、幼馴染である海斗だ。


 偶然とはいえバイト先にたまたま客として入ってきた彼。

 まさか幼馴染だったとは知らずに、その彼をたまたま接客することになったのも奇跡的だったと言えよう。


 真正面に座る彼の顔を見た瞬間、彩乃の脳裏に電撃が走った。

 

 幼き日の顔立ちをそのまま成人にしたような顔。オタク感に溢れていたのは少々気になったものの、喋り方や仕草などは当時の記憶そのままだった。


 目の前の男性は、間違いなく幼馴染の海斗だと確信した彩乃。


 もう二度と会う事はないと思っていた幼馴染との再会。さすがに想定外の出来事だった事もあり、その時は心臓が飛び出るかと思う程に驚いてしまっていたが。


 変声期を過ぎた野太い声や、たくましく変貌した体つきは、海斗が男らしく変わった証拠であるため、彩乃の心にグッと刺さっていたりする。

 

 十年ぶりの海斗との再会。これはもう運命と言っても過言ではないと彩乃は思っていた。



 その思いは日を追うごとに大きくなって――――

 今の彩乃はもう、居てもたってもいられなくなっている。

 

 ――ただ一つだけ心に引っかかるのは、自分の胸……体に欠陥があることだ。

 両親と彩乃の主治医以外はこの事を知る者はいない。親しいしずかや京子でさえ全く知らないのだ。

 当然、海斗にも打ち明けるつもりは無かった。


(嫌だ、海斗にだけは絶対知られたくない)

 

 普段は医療用の特別なブラジャーを着けているので、外見からは全く分からない。

 ただ、ノースリーブといった胸元が見えるような衣服は着られなかった。膨らみの異形がはっきりと見えてしまい、逆に目立ってしまうからだ。

 そして、彩乃は思う……


(夏は嫌い)


 これから季節は暑い夏へと向かっている。

 友達は皆薄着に、肌の露出するファッションになるのに。と、毎年この季節は彩乃にとって苦痛になっていた。


(夏なんて大嫌い…………でも、

  …………海斗には会いたい)

 

 今の彩乃の心の中は、複雑な感情が濁流のように渦巻きせめぎ合っていた。


 この休日も海斗の予定を聞くために連絡を取りあった。

 口では母に勉強をすると言って早くに家を出たのだが、本当のところ海斗に会いたい気持ちの方が強かったりする。

 論文の話は嘘ではなかったのだが、今やそれすら会う口実に利用してしまう程、彩乃は海斗のことばかり考えてしまっていた。


「……そうよね。カイが来る前に、少しでも論文進めておかないと……不味いわよね」


 モーニングセットを食べ終わった彩乃は、泡立ったクリームたっぷりめのコーヒーを口に運ぼうとしていた丁度その時だった。


 カランコロン。


 店の入り口のドアベルが鳴り、一人の男性が店内に入ってきた。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」


 入り口付近でトレーを抱えた中年の女性店員が、今来た男性に話しかけている。

 男性は「あ、い、いえ……」などと言いながら、あたりをキョロキョロと見回していた。


 コーヒーカップの淵に口を付けていた彩乃は、落としていた視線を店の入口に向けると、瞬時にその表情が明るく変わった。


 ――――幼馴染の海斗だ。


「あっ! カイ! こっちこっち、こっちだよー」


 心待ちにしていた幼馴染の登場に、思わず声を張り上げてしまった彩乃。


 その元気な声に反応した海斗は、店の奥まった方に振り向いた。

 席から両手を大きく振っている彼女が目に入り、緊張気味だった海斗の表情が一気に和らぐ。


「あら? 彩乃ちゃんのお連れ様だったんですね。へえ~、なるほどね。」


 どうやら店員さんと彩乃とは顔見知りらしい。

 何故か妙に納得した面持ちで何度も頷いていて、不意に彩乃の様子を見た店員さんが「プッ!」と吹き出した。


「彩乃ちゃん、髭なんか付けちゃって、お茶目な子。笑わすためにわざとかしら?」


 コーヒーの白いクリームが鼻の下、上唇に沿ってべったりと。「さ、さあ?」と海斗は苦笑いする。


「では、あちらの席でお楽しみ下さいね。後でお水、お持ちしますから」


「す、すみません」


 頭を掻きながらお辞儀をする海斗。店員さんは満面の笑みでカウンターの奥へと消えていった。


 

 海斗は手招きしている白髭彩乃の居る奥の席へと歩み寄った。


「おはようカイ♡」

 

 彩乃はとびきりの笑顔で海斗に朝の挨拶をした。


「おはようアヤ。今日は朝から絶好調だね」


「何? いきなり会って絶好調とか、意味わかんないぞ」


 向かいの席に座った海斗に、真顔になった彩乃の顔が近づく。

 たまらず「ぷっ!」と吹き出してしまう。近くで見る白髭彩乃の顔はより一層おかしかった。


「いやいや、だから朝からその面白い顔っ! クリームの髭、いっぱい付けてさ……クックック! 面白!」


 言われた彩乃は鼻の下を指でなぞると、なぞった指に白い物が付着。


「え、え? えっ、えーーーっ!」


 お腹を抱えて笑う海斗に「そんなに笑わなくたって、カイのばかたれ!」と彩乃は顔を真っ赤にしながら恨めしい目で睨んでいた。


 慌てて手元にあったお手拭きで、着いたクリームを拭き取った彩乃。

 海斗はそこに置いてある飲みかけのコーヒーと空のお皿を目にして言った。


「へぇー、モーニングかぁ、いいねえ。僕もそれにしようかな? 他にもメニューあったりするの?」


 メニュー表に手を伸ばそうとしたが、それよりも先に彩乃が首を振って答えた。


「ううん、このお店はこれだけよ。コーヒーは何でもいいけど、セットのトーストとかポテサラとか凄く美味しいから、アヤは大好きなの。絶対食べて損はないわ、おすすめよ」


「アヤのおすすめなら間違いないか。僕は朝、食べて来なかったからね。お腹空いちゃったよ」


 と、丁度そこへ店員さんがやって来た。トレーに乗せたグラスとおしぼりを海斗の前に置くと。


「今日の彩乃ちゃん、いつもと様子が違うなぁって思ったのよ。やっぱり、彼氏と待ち合わせしていたんじゃない。さっきね、彩乃ちゃんに相席を頼もうかと思ったのよ。はぁー本当によかったわー、頼まなくって」


「えっ? ちょ、彼氏じゃないですよ! えっと、その、彼はですね――」

「いいの、いいの彩乃ちゃん。あなたの顔見れば大体は想像がつくから」


「いえ、おばさん、ちが――」

「で? そちらの彼は、もちろんモーニングサービスよね? 彩乃ちゃんと同じカプチーノでいいかしら?」


「あ、いえ、その……ブラックで、お、お願いします」


「そ、ブラックね。じゃあ、少々お待ちくださいませ」


 海斗に軽くお辞儀をして、店員さんはまたカウンターの奥に去っていった。


 去ってゆく店員さんを睨みながら「……ん本当にっ、人の話を聞けっつうの……」などと彩乃はブツブツ呟いていた。


 二人同時にため息をつく。

 彩乃は「さてとっ」と言って脇に置いてあったノートパソコンを開いた。すると海斗は、


「えっと、テーブルの上に置かれた物を見る限り、アヤはここで勉強をするんだよね?」


「ええ、そうよ。課題の論文、執筆中よ」


 鼻を鳴らした彩乃は、作家が創作活動している感じで言い放っている。


「それってさ、締め切り間近だったりする訳?」


「そうなのよ! 早く論文を仕上げちゃわないと、単位落とす事になるかもしれないの。いま、けっこうピンチなアヤちゃんだったりする訳よ!」


「……ああ。遊び惚けていたら、期限が無くなっていた。まるで、夏休みの宿題か……全然変わっていないよなぁ、アヤは」


「失礼ね! 仕方ないでしょ、気が付いたらもうこうなっていたんだから! アヤは全然悪くないんだからねっ」 


「誰に責任転換しているのかよくわからないけど。まあ、その自慢げに言うあたり、あまりピンチ感を感じないんだが……」


 呆れ顔の海斗はグラスの水を一口飲んだ後、続けてこう言った。


「で? そんな切羽詰まった場面に呼ばれた僕は、いったい何をやらされるんだ?」


「ん? カイを呼んだのはね。実は――」

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