07 鏡に映る姿に……


 夕食を終えた古嶋家。今は彩乃がお風呂へ入っている。


 母親の和恵はキッチンに残って夕食後の片づけをしていた。

 先に余ったおかずを冷蔵庫へ仕舞うと、あとは食器洗い。

 その日の献立によっては食器の使用量に多少の変化はあるものの、娘との二人分だから大したことは無い。

 もうここ最近の食器洗いは、大体決まって二人分だけだった。



 この家の主、つまり和恵の夫は、仕事の関係上で家にいない事がほとんどだった。


 成長していく娘の彩乃と向き合うのは、いつだって母親である和恵の役目である。

 夫もたまに帰って来るのだが、ここ数年は決まってただ寝泊まりするだけだった。

 親子三人での食事はおろか、和恵と食事することさえほとんど無かった。


 ――夫は、あからさまに娘を避けている。


 そう、本人は家族に悟られないよう気遣っているようだ。

 だがその行動や態度が和恵の目にはっきりと映っていた。その姿を見る度に夫への不信感を抱かずにはいられなかった。


 夫が娘を避けるようになったのには、やはりそれなりの理由があった。

 それは彩乃の身体的な病気。そして、病気が引き金となった心の病。

 和恵にとっても辛い出来事だったのだ。


 今の彩乃は病気を克服して、大学にも通えるようになっていた。

 活発で明るい性格も戻った。他の人と同じ普通の生活を送っているのだ。


 過去の理由はともかく、そうは言っても実の娘なのだから、もっと父親らしく接してもいいのではと和恵は思っている。


 そして娘の彩乃もまた、そんな父の態度を解っている。

 たまに家に帰って来ていても、極力顔を合わすことのないようにしていたのだ。



 ――家に帰って来ない夫。


 話だけ聞けば、この家族を見放しているようなのだが実はそうではない。

 むしろその逆で、普段の生活をどのように暮らしているのか些か疑問ではあるものの、働いて得た収入は殆どこの家に振り込まれていた。

 給与明細もしっかりと届き、内容を見るも欠勤や有休消化は全くしておらず、時間外手当や休日出勤は、超過しているのではと思えるほど毎月のように付いていた。


 すべては愛する家族のため。そして、彩乃のため……


 『金を稼いで家族を支えるのが俺の役目、お前は娘と向き合ってくれ』と、自分の身を犠牲にしてまで働き続ける夫に、和恵は感謝しつつも憤りを感じていた。


 夫さえ働いていれば家族を支えられる……今はそんな時代ではないのに。


 私だって働ける、そしたら親子三人もっと普通に暮らせたんじゃないかと考えてしまう。


 できたらあの頃に……家族三人で楽しく暮らしていたあの頃に戻りたい。


 主婦として家に一人だけ取り残されてしまうと、和恵はいつもそのことばかり考えてしまっていた。



 蛇口の水流に当てたお皿を見つめながら、和恵がぼそりと口にした。


「……今日の彩乃、本当に嬉しそうだった。いつ振りかしら、あんなにキラキラした娘を見たのは」


 子供の頃から使い続けている彩乃の茶碗を手に取る。

 ちょっとばかり小さめだが、新しい物に変える気は無いらしく、彩乃はずっと気に入ってそれを使っている。


 ――思い返せば、海斗と一緒にご飯を食べる時だった。

 時折、古嶋家で海斗を預かることがあった。

 幼い彩乃は海斗と一緒に夕食を食べれると大喜び。これとお揃いの茶碗を戸棚から引っ張り出しては並べていたのを思い出す。


 彩乃の思い出が詰まった茶碗を、和恵は優しく洗った。


「本当によかったわ、海斗君に感謝しないとね……これからも彩乃の支えになってほしいから、家にきた時うんとおもてなししなきゃよ、そうよね。んー海斗君、何が好物だったかしら……」


 和恵は目尻に涙を溜めながら、滲んだ視界のまま微笑み食器を片付けていた。


「海斗君……懐かしいわぁ、あの頃が一番楽しかった気がするわ……」



 約十年前の引っ越しをする直前までは、古嶋家はお隣の渋川家と家族同然のお付き合いをしていた。

 その切っ掛けとなったのは、やはりお互い母親同士の馬が合っていたのが大きな要因なのかもしれない。

 昼間は両家を交互にお邪魔して、毎日のようにお茶を飲みながら世間話や子育ての話で盛り上がっていたのだ。


 特に子育てに関しては、お互いが同じ年齢の子供を育てているという事もあって意気投合していた。

 男児か女児かの違いだけで、成長過程にはなんら違いは無く、共有できる悩みや役立つ知識などありとあらゆる面でお互いが支えになっていた。


 母親の仲が良ければ自然と子供たちが一緒にいる時間も多くなる。母親二人が時間を忘れて夢中になり話し込んでいても、子供たちはいつまでも仲良く遊んでいたのだから。


 もうこのまま子供たちを許婚にしちゃおうかしらと、冗談交じりに話したことも何度かあったほどだった。



『ごめんな和恵。仕事の都合で転勤になってしまったんだ』

『ここからは随分と遠い所だし、出来れば家族そろって引っ越したい。単身赴任より家族と一緒に生活をしたほうが、お前たちにとってもいいだろう』

『お前と彩乃には申し訳ないと思っているよ。渋川さんには色々と親切にしてもらっているし。でも、俺はこの家族と離れていたくないんだ』


 夫の転勤。それは和恵にとって突然の出来事だった。ずっと田舎のこの場所で生活していくと思っていたから。転勤の話を聞いたときは、冗談か何かと思ったくらいに受け止めきれていなかった。


 でも、それ以上に衝撃を受けていたのは彩乃だったのかもしれない。


 引っ越しの話を聞いていた時の彩乃は冷静に、そして静かに聞き入っていた。慌てふためき動揺をしていた和恵とは対照的で、薄ら笑いを浮かべていたくらいだったから。この子の心は強いと、その時はそう思っていた。いや、思い込んでいたのかもしれない。

 そして、直ぐにそれは和恵の思い違いだった事だと気付いた。

 いつもおしゃべりな娘が、次の日から殆ど口を開かなくなっていた。キラキラ輝いていた瞳も、何処かぼんやりと曇っていた。


 それでも娘は、海斗と遊ぶ時はいつも通りに明るく振舞っていて、落ち込んでいる素振りなど微塵も見せなかった。

 だが、ひとたび彼が帰ってしまえば、また表情は一気に暗く戻ってしまう。親でさえ話しかけるのに躊躇してしまうほどに。


 それから毎晩のように、彩乃が布団に入れば鳴き声や嗚咽が、何時間もドア越しに聞こえてくる。

 翌朝になれば、真っ赤に腫らした目で部屋から出て来ていた。


 そんな娘を見るたびに、和恵の胸が張り裂けそうになっていた。


 引っ越してからも彩乃の様子は変わる事無く、しばらくは一人自室で塞ぎ込む日々が続き、立ち直るまでにはかなりの時間が必要だった。



 時が経ち、再び明るく元気な少女に戻った彩乃。


 そんな彼女に、最悪の不幸が、最悪の病魔が襲い掛かる事になろうとは……


 誰も予想すらしていなかった。




◇◆◇



 お風呂の椅子に腰かけている彩乃の頭は、シャンプーの泡に包まれていた。

 それを両手の指を使ってゴシゴシと洗っている。


 満遍なく洗い終わったら、今度はシャワーを浴びるため彩乃はカランを捻った。


 壁に掛けたシャワーヘッドから出るお湯を頭頂部から受けて、髪の毛全体に水流を行きわたらせている。

 頭皮から髪の毛の先まで、両手を使い丁寧にすすぐ。


 そうして髪全体を包んでいたシャンプーの泡は全て洗い流されて、ぬめりが無くなると彩乃の手の動きがピタリと止まった。


「…………」


 動きが止まったまま、しばらくシャワーの水流を受け続ける彩乃。何か考え事をしているようで、下を向いたまま微動だにしなかった。


「………………」


 彩乃の右手が手前にゆっくりと動き出し、キュっとカランの栓を締める。と、同時にシャワーの勢いも無くなる。

 濡れた髪から、そしてシャワーヘッドからも雫がポタポタと落ち続けていた。


 顔を上げて正面の鏡を見る彩乃。


 しかし、鏡は曇って何も見えない。


 カランを握っていた右掌を鏡に当てて横に一振り。

 目線の高さの曇りを払いのける。


 映った姿は首から上の頭部のみ、滴る髪が頬と首筋に張り付いていた。


「……カイ」


 鏡の向こうの彩乃は、薄茶色の瞳で自分の瞳をジッと見つめている。

 当たり前だ、自分が鏡の中の自分を見ているのだから。


 今日、幼馴染の海斗に巡り会い、とても嬉しいはずなのに、鏡の中に居る自分の瞳はどこか虚ろだった。


 その原因は……



 鏡に当てていた掌を、ジグザグに擦りながら下方に移す。

 首下の胸部が、曇りの取れた鏡面に映り込む。


 そこには、他人よりも大きめな、たわわに実った豊満な二つの山が……






 片方無い。


 そう、左胸だけが無かった。



 女性のシンボルともいえるそれは、二つ並んでこそその優美を、その存在を主張しているといってもいいかもしれない。


 だが彼女の胸の膨らみ方は、そんな甘い考えを根底か崩し去るものだった。


 右側の乳房は、普通の女性のそれとなんら変わらない。

 むしろ色白でふくよかなその形は、とても綺麗で美しいと言っていいだろう。


 だが、対照となる左胸は違っていた。


 左の乳房が、まるで鋭い刃物で切り落とされたかのように、或いは何者かにえぐり取られてしまったのではと思えるほどに、その存在自体が消し去られていた。


 しかも、ほ乳類ならある筈の桃色の突起物さえ見当たらなかった。


 歪なまでに平たく均された地肌は、あばら骨の形が浮かび上がって見えそうな、そんな場所さえあるのだ。


「カイ……アヤは……アヤの胸は――」


 もうずいぶんと見慣れてきた自分の体。

 欠乏した左胸。


 この事実を知る者は、担当医師達と両親以外いない。

 親戚や仲の良い友達には知られていない。


 当然、幼馴染の海斗にも言うつもりはない。


 ……海斗だけには絶対に知られたくはないのだ。絶対に。


 いつもはこんな切ない気持ちにならないのに。

 幼馴染に会ってしまった今日は、その感傷を抑えることが出来なかった。


「カイ、こんなんでごめんね……でも、アヤは……」


 思いを口にした途端、薄茶色の瞳が。


「うっ、ううっ…………」


 すぐにカランに手を掛けて捻った。

 再び、勢いの強いシャワーを頭上から浴びる。

 

 浴室から響くのは、彩乃の嗚咽をかき消しているシャワーの音。


 それが、

 いつまでも聞こえていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る