06 彩乃の帰宅
「それじゃあ……また、連絡するから。気を付けて帰ってね」
彩乃は運転席の海斗に向けて掌を振った。それに応えるように、海斗は左手をハンドルから放して軽く上げた。
「ああ、じゃあ、またな」
「またね、バイバイ」
彩乃がドアを閉めると、海斗はゆっくりと車を発進させた。
大きく手を振る彩乃。
ルームミラー越しに彼女の姿を見た海斗は、一回だけ短いクラクションを鳴らした。
日中ならばこの住宅街は車の通りが少ないが、夕方過ぎのこの時間になれば、帰宅へと向かう自動車が多少は行き交っている。
だが今日に限って言えば、なぜか一台もすれ違う車はなかった。海斗の運転する赤い軽自動車の軽いエンジン音だけが、彩乃の耳に響いていた。
そして海斗の運転する車の音はすぐに遠ざかって、それに比例するように、赤く光るテールランプも見えなくなっていった。
「…………」
周りを見れば辺りはもう真っ暗。
所々にある街灯が人通りの無い道を明るく照らしていた。
彩乃は日の落ちた空を見上げた。
曇り空では無かった。なのに、都会の夜空はいつも街の明るさのせいで、星の輝きさえ奪ってしまうくらいに薄ぼんやりとしている。
「星……見えないなぁ」
子供の頃に海斗と見たあの澄んだ星空が思い起こされて、そんな星たちの見える空なんてここに来てから一度も見ていないと気づいた。
長い黒髪を揺らす初夏の生暖かい風が肌を吹き抜けていく。
「…………ふぅ」
虚ろな瞳で青息吐息をもらした彩乃。
輝く星空が見えないあの夜空のように、心の中もすっきりとしない複雑な霧がかかっているような、そんな気分だった。でも……
渋川海斗。
偶然とはいえ、幼馴染だった彼とほぼ十年ぶりに再会できた。
毎日とはいえないが、それでも連絡を取りあえばきっと昔のように会うことができる。
それだけでもいい。
彼と会うだけでも、自分の心は救われるかもしれない。
海斗のことを考えるだけで、今まで氷のように冷え切っていた胸の内が、ほんのりと温かくなってくるような、そんな気持ちになっていた。
彩乃は再び海斗の車が行ってしまった方向を眺めると、薄茶色の瞳を潤ませながらしばらく玄関先に立ち竦んでいた。
◇◆◇
玄関に入った彩乃は脱いだ靴を揃えると、いつも通りに「ただいまー」と家中に声が届くように言った。
「あら、彩乃お帰りなさーい」
すぐに家の奥から彩乃の母、
廊下からダイニングルームに入るドアは開けっ放してあり、そこへひょいと顔を出した彩乃。タイミングよく和恵と目が合った。
「どうしたの? 今日はいつもより随分と早かったのね?」
キッチンに立っていた和恵は、娘が顔をのぞかせると少々目を見開いていた。
彩乃はほぼ決まった時刻の電車に乗るため、あと一時間位は帰ってこないだろうと時計を確認したばかりだったが、思いがけず早くに帰宅した彩乃に不意を突かれた様子である。
「早めに帰るなら帰るで連絡くらいすればよかったのに。夕食まで、まだもう少しかかるからね」
和恵はいつもの帰宅時間に合わせて夕食の支度を始めようとするところだった。あらかじめ予定がわかっていればどうにでも出来たので、せめてメール位は欲しかったと、嫌み交じりに彩乃へ言葉を飛ばす。
「ごめんお母さん、連絡するのすっかり忘れてた……あ、そうだ! アヤも夕食の準備手伝おうか?」
「あら? 珍しい事言うじゃない。やだわ、明日の天気は台風かしら、それとも季節外れの大雪! 困ったわねえ」
悪戯っぽく細めた目を彩乃に向ける和恵。母のからかいじみた悪口に彩乃は苦笑い。
「もう、お母さんたらひどーい!」
ふくれっ面で和恵に文句を言った彩乃だったが、その言葉には棘が無く薄茶色の眼差しも柔らかかった。
「冗談よ彩乃。でも折角だから手伝ってもらおうかしら」
「オッケー! で? アヤは何やったらいい?」
「そうねぇ……キャベツの千切り、できる?」
「オッケーオッケー、任せて頂戴なっ」
「……なーんか、いつもよりノリが良すぎて心配ね。ちゃーんと切ってよ、お願いだから」
彩乃は両手を上げて元気よく「はーーい」。それを見た和恵はやれやれといった感じでため息をついた。
「それにしても彩乃……なんだか、今日のあなたはいつもより楽しそうね。何か良い事でもあったのかしら?」
彩乃はテーブルの椅子に掛けてあったギンガムチェックのエプロンを着けていた。背中の紐を結びながら「別にぃ、何もないって」と言いながら、表情はにやけていた。
彩乃は一人っ子で、父と母の三人暮らしである。
父はいつも出張で、ここ最近はほとんど家にいたことが無い。たまに帰って来ていても、顔を見るのはほんの一瞬。彩乃が父と会話を交わした記憶に関して言えば、思い出せない位に過去の話になってしまうほどだった。
だから彩乃にしてみれば、普段から母と娘の二人で生活をしているようなものだと思っていた。
母の和恵は専業主婦。娘も大きくなり家の中で暇を持て余すより、外に出て少しでも家計の足しになるようにと働きに出ることも考えた時期はあった。しかし、夫の強い反対もあったために今は働きに出ることを断念している状態なのだ。
娘だってアルバイトしているのだし、そのうちに私だって働きに出て少しでも家計の負担を減らせればと考えているようだ。
常日ごろ娘に夫について何かしら愚痴をこぼしているので、チャンスが巡ってくればその時は外に出ようと狙っているようではある。
インターネットやワイドショーなどで報道される情報では満たされない和恵は、日頃の近所付き合いやスーパーやデパートの買い物などで、身近な噂話や情報を集めるのが日課となっている。
が、やはりそれとは別に外に出て働くことに憧れを感じているようだ。
最近では専ら年頃の娘の動向に興味があるようで、些細なことでも根掘り葉掘り訊いてくる。
鼻歌を歌いながらキャベツを千切りにしている彩乃の顔を、和恵は横目でジッと見つめていた。
今夜はポテトコロッケ。和恵はジャガイモをつぶして具材を混ぜ込んだコロッケのタネを丸めているところなのだが、その手が止まっていた。
「なに? お母さん。そんなに人の顔ジロジロ見て……へんなのっ」
「なんだか今日のアヤはやっぱりいつもと様子が違うわ、ずっと嬉しそうにしているから。ねえ、本当はなにか良い事あったんでしょ?」
「……嬉しそうに見えるかなあ? これでもちょっと落ち込んでいるんだけど」
「えー、そうかしら? そんな筈ないわ。だって、鼻歌なんか歌っちゃってるし、表情は緩みっぱなしだし、普段と明らかに違うんですもの。親の目は誤魔化せないものなのよ、正直に言ってごらんなさい」
ぐっと彩乃に顔を近づけた和恵は、どこかのドラマの刑事や探偵のように探りをいれる。そんな和恵の圧に押され気味の彩乃は、猫背になっていた背中を反らせて、半歩後ずさりした。
「あ、判ったわ。もしかして、同じ大学生の背の高い彼? えっと何て言ったっけ……にし、にしだ、そう! 西田クンだったわよね。彼、カッコイイから、お母さんとっても賛成よ」
弾む母の言葉に、彩乃はちょっとばかりムッとした。
「やめてよお母さん! 全然違うから! 西田君のことなんてコレぽっちも、それにアヤのタイプじゃないし」
「あらそう? 勿体ない、残念ね。私は親ばかじゃないけど、彩乃は他の子に比べて美形だから結構イケていると思うのよ。その気になれば、誰だってモノにできそうなのにねぇ……勿体ないわ」
「もうっ、お母さんっ!」
これ以上彩乃を褒めたてると真剣に怒られそうなので、和恵はピッと舌を出してコロッケのタネを丸める作業を再開した。
「……で?」
「ん?」
「いつもの帰宅時間じゃない理由聞いてないわ。誰かに送ってもらったんでしょ? まさかあなたがタクシーで帰って来るとは思えないし」
「あーー、あのねお母さん、今日バイト先で偶然カイに会ったの」
彩乃が口にした聞き覚えのあるその呼び名に、再び和恵の手が止まった。
「えっ!? カイってあの……渋川海斗君! えーー本当に?」
驚きのあまり、彩乃に訊きなおす和恵。問われた彩乃は嬉しさのあまり、口早にその時の状況を語り出したのだ。
「本当よ、アヤもびっくりしちゃった。最初は信じられなかったけど、でも、あの頃の面影がはっきりと顔に出ていたから間違いないと思ったの。その時カイは全然アヤのこと分からなかったみたいだけど。でもこれって間違いなく運命よね、離れ離れになった幼馴染が遠くの地で偶然の再会。ねえお母さん、偶然にしても凄すぎると思わない?」
興奮して喋り過ぎたせいか、彩乃は息を切らす。黙って聞いていた和恵は、
「凄いわ! 良かったじゃない彩乃。あれからずっと海斗君のこと気にしていたのだから」
母の言葉に彩乃も頷いて「ふふっ」と声を漏らした。
「で? どうだった海斗君。 カッコよくなってた? イケメンになってたの?」
前のめりになって彩乃に問いかける和恵は、どうやらそっちの方が気になるらしい。
「ど、どうって……べつに、昔と変わんなかったよ。あのまんま、大人になったって感じかな、うん」
「そう? それにしては随分と照れているわね? 彩乃、顔、真っ赤よ」
言われた彩乃は肩を窄めて照れ隠し。隠してもいまさら遅いのよと、和恵はジト目で娘を見ていた。
「で、カイ、車を運転してきたって言ったから、じゃあ送ってって頼んだの」
「あらまあ、図々しい。彩乃らしいわね」
「図々しいのはカイにだけよ、普段はそんなこと無いから!」
「どうだか……え! それって、ちょっと待って! それじゃあ海斗君ここまで来ていたんじゃない、どうして寄ってもらわなかったのよ、駄目じゃない彩乃っ。お母さんだって久しぶりに海斗君の顔見たかったのに、残念だわ」
「アヤもそう言ったんだけどね、急には悪いからって、また後日寄らせてもらうって言って帰っちゃった」
「そうなの、顔くらい見せてくれても良かったんじゃないかしら、知らない仲じゃないのにねえ。大人になったって事かしら。でもまあいいわ、また海斗君来るの楽しみに待っているから……彩乃っ、今度は絶対に海斗君連れてきて頂戴!」
「うん、わかった」
彩乃は柔らかく目を細めて頷いた。
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