第36話:取り戻す(後編)

 ここで初めて、僕らは事件を先回りすることができた。


 ただ一つ、疑問点がある。


「……そもそも、憎の名前を持っている人なんているんですか?」


 そんな縁起の悪い名前をつける親がいるのだろうか。下の名前じゃなくて名字だとしても、ちっとも思い当たらない。


『逆に考えたまえ。該当する人物が少ないからこそ、狙われた人間をピンポイントで見つけ出せるのだと』


 なるほど。まず休憩室にあるパソコンで、名字一覧のサイトを探せば、該当の世帯数くらいは調べられる。数は多くはないだろうし、地域にゆかりのある名字なら、固まって住んでいる可能性が高い。その中から、心にまつわる仕事をしている人物が見つかれば、事件を未然に防げる。


「希望が見えてきましたね、ミヤコさん」

『何がだ?』

「だから、これ以上死人が出なくて済むかもしれません」

『そんなこと、私にはどうでもいい』

「え?」


 すっ、と自分の身体から温度が引いていく気配がした。


『最初に言ったはずだ。事件に私は首を突っ込むつもりはない。そんなもの、警察にでも任せておけ』

「……で、でも、ミヤコさんにとっても営業妨害になるんじゃないですか?」

『確かに、緊急会議は面倒なことこの上ないな。しかし私は殺しをする手間が省ける。決して迷惑とまでは思わないな』

「それでも、死ぬより死なない方が良いに決まっているじゃないですか!」

『君の価値観はそうかもしれないな。しかし私は違う。他人がどうなろうと関係ない』

「そんな……」

「君は正義の味方にでもなったつもりか? 断じて違う。君は私と同じ、ただの罪人だ」

「……どうして」



 どうして。



 どうして僕はこんなにムキになっているんだ?



 最初、刊野さんには黙っていたことを、ミヤコさんには真っ先に教えるつもりでいた。刊野さんのことをないがしろにしているわけじゃない。人として僕は彼女のことを信頼している。


 だが実際は、正義のジャーナリストではなく、僕は、僕の心を奪った人殺しを優先していた。


 つまりこれはもっと単純な話。


 僕はミヤコさんの方が好きだったのだ。


 読んだ本にすぐ影響されたり、マジックで驚かせようなんて子どもっぽいところがあったり。根っからのパジャマっ子だけれど、仕事着の時は凛々しくて、格好いい。思ったことを隠さず、飾らず、常に本心で相手と向き合う。


「……ぐっ!」


 僕は受話器から手を離す。大理石の床に激突し、甲高い音が鳴った。ソファーに腰を預けていた夫婦らしき二人が何事かと僕を見る。


 受話器を放置したまま、無人のフロアを駆け抜ける。熱い。体の内側で、ねっとりとしたものが、ぐつぐつと煮立っている。


 気持ち悪い。頭もぐらぐらする。視界がぼやけて、物の輪郭があいまいになる。何度も足がもつれそうになって、そのたびに左へ、右へぐらつく。


 ようやくたどり着いたトイレで、洗面台に頭を低める。熱い。せきを切ったように、喉の奥からせりあがってくるそれをぶちまける。今度は、間に合った。


 咳をしていると、目頭に涙がにじんできた。


 前にもこんなことがあった。五月の誘拐事件。正確には、藤城ありすの両親の思惑を知った時。眠っている藤城ありすに暴力をふるった時。


 思えばあそこから僕はおかしかったんだ。特に、この二日間で様々な人と会って話をして、心の奥で、支柱がぐらついている。


 さっきまで全身が熱を帯びたようだったのに、今は寒くて仕方がない。




「……何なんだよ、これは!」




 拳で洗面台を叩く。痛みと、遅れて痺れが伝わってくる。


 僕は感情を根こそぎ奪われたんじゃなかったのか。それなのに、どうして苦しいんだ。どうして、ミヤコさんに裏切られたような気がしてしまうんだ。


 あのヒトは出会った時からずっと変わっていない。尊大で、傲岸不遜で、自分を絶対的に正しいと信じている。


 それに比べ、僕はどうだ。感情を失ったロボットの癖に、まるで一人前の人間のように、傷ついたり、怯えたり、悲しんだりしている。


 ……悲しいのか、僕は。


 そうだ。これは、悲しいんだ。


 悲しいだけじゃない。


 悔しさや、怒りや、情けなさ。


 怖い、恥ずかしい、妬ましい。


 憎い。


 連続殺人犯が憎い。


 ミヤコさんが憎い。




「――――――っ!」




 声にならない声で、僕は絶叫した。






 僕はこの日、感情を取り戻した。

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