第5話:初めての
翌日、金曜日。今日も夕方からアルバイトだ。昨日は夜遅くまでミヤコさんに「学べる」恋愛漫画を教えろとしつこく迫られたせいで、帰りが零時を過ぎてしまった。しかも今日の出勤前にそれを買ってこいという。
窓から差す柔らかな日差し。朝のホームルーム前というのは一番平和だ。瞼の上下がくっつきそうになるのに抗っていると、近くで人の気配を感じた。
「おはよう、安室くん」
平和は早々に崩れた。進級早々の席替えで窓際を確保できたのは恵まれていたものの、こういう時に逃げ道を塞がれてしまうというデメリットがあることに気がついた。
御堀さんの笑顔は標的を逃がさんとばかりに爛々としていた。
「カラオケ」
「行かない」
「駄目」
「駄目じゃない」
「もう、強情なんだから」
「その言葉、そっくり返すよ」
さも普通に、まるで友人同士のような会話をしているのはどうしたことだ。僕は他人と関わりを持つつもりなんてないし、特にこの御堀優羽とはあまり距離を寄せたくない。いろいろと疑われては面倒だ。
昨日駅の改札で別れた時のように、やや離れたところから女子三人組がこっちをみてひそひそ話をしている。その内の一人がおずおずと近寄ってきた。
「美羽、おはよう。……何、話してるの?」
「おはよう。今ね、安室くんも今日のカラオケに誘ってるの」
女子の笑顔が一瞬ひきつった。ああもう。こういう状況が一番厄介なのだ。陰で「能面」と呼ばれている僕が、人気者の女子としゃべっているだけで、まるでこっちが光に吸い寄せられる害虫のような目で見られる。それ自体は構わないが、御堀さんは自身が後々変にからかわれたり、陰口を叩かれるといったデメリットの想像ができないのだろうか。
模範的な態度でいることが正しいとは限らないというのに。むしろそういった、微妙な陰陽の境界線付近の立ち振る舞いを学ぶのが高校だと僕は思っている。
「腹が痛い」
御堀さんの友人に聞こえるようにつぶやいて、席を立つ。ホームルームが始まるまではトイレに一時避難だ。本当はホームルームが始まるまでに一時間目の道徳の宿題を終わらせたかったのだが、すっぱり諦めよう。
教室を出る時に、絶対だよ、と後ろから聞こえたが返事はしなかった。
午前の授業が終わり、昼休みの開始を告げるチャイムが鳴る。先生が教室を去ったのと同時にカバンから弁当箱を取り出し、後を追うようにして教室を出る。昨日の反省を活かしてちゃんと前の扉から。それでも念のため用心して、トイレで五分ほど身を潜めてから、校舎の脇にある非常階段へと移動し、昼食をとった。階段に座っていれば外から姿が見つかることはないので、昼休みが終わるぎりぎりまでをそこで過ごした。
五時間目もつつがなく過ごし、三年進級の初週、授業がすべて終わった。
放課後の教室は昨日までとは違う喧噪に包まれる。あちこちから「最近の曲全然わかんない」とか、「一緒にアニソン歌おうぜ」とか聞こえてくる。幹事と思しき男子が費用を徴収して回っていく。このクラスの人たちはみんな仲が良いようで(僕を除く)、カラオケ親睦会にはほぼ全員が参加するようだ。一列ずつ後ろから順々に参加費の千円を集めている。最後の列、窓際では僕の前の後ろまでお金を受け取って、教壇へと戻っていった。
この喧噪に紛れて教室を出てしまおう。カバンを肩にかけて、そそくさと後にする。意外、というわけではないが、この間に御堀さんが僕に声をかけてくることはなかった。まあ、さすがにここまで露骨に避けていれば、いい加減諦めてくれたのだろう。
急いで生徒用玄関でローファーに履き替え、まだ人がまばらな桜の並木道を早歩きで抜け、校門をくぐる。
「……あなたは僕のストーカーですか」
校門のすぐ脇に、御堀さんがいた。
「嫌だなあ。誰もここであなたを待ち伏せしていたなんて言ってないじゃない」
「では、さようなら」
歩き出そうとしたところで、制服の袖が後ろに引っ張られる。
「あなたをここで待ち伏せしていたの。これから一緒に遊びましょう?」
「カラオケ親睦会はどうしたんだよ」
「断ってきちゃった」
足を止め、御堀さんの方を振り返る。
口調こそフランクだが、表情は真剣だった。真珠のような黒い瞳がまっすぐに向けられている。
そしてやはり、言葉に嘘偽りはなかった。脳内に、たった今聞いたのと同じ言葉がよぎる。
「そんなにわたしのこと嫌い?」
「そんなに僕のことが好き?」
「ええ。級友として。あなたは?」
「嫌いじゃない。けれど、イコール好きってことでもないだろ」
「それで充分よ。さ、行きましょう」
「ちょっと……って、うわ」
また僕の袖をつかんで、今度は先頭に立つ。探検に出発するトレジャーハンターのような、きらきらとした輝きを瞳に宿して。
何なんだ、本当に。
どうしてこうも僕に関わるのだ。御堀さんと僕は天と地ほどの離れた場所にいる人物のはずだ。恋愛的な好意を抱いているわけでもないのに、なぜたった一人の人間にここまで固執するのだ。
わからない。
こういうちょっと強引なところも、人によっては魅力的に映るのかもしれない。
じゃあ、僕にとって御堀優羽とは。
決まっている。
ただのクラスメート。それ以上でも以下でもない。
それなのに、心の奥でかすかに、何かがざわついている。正体不明で意味不明な何かが。いびつで、不気味で、それでいてどこか懐かしい。
「ほら、さっさと歩く!」
僕は考えるのをやめ、一瞬だけ歩く速度を速める。
御堀さんの横に並び、学校を後にした。
十八年の人生で初めての、友人との帰り道だった。
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