第4話:ミヤコさん

「おはようございます」


 事務所全体が見渡せる玄関から、少し声を張って挨拶をする。


 テレビ番組を作る職場といっても、実際は貸しビルの一室で、ちょっと広めのアパートくらいの広さしかない。手前に一部屋、奥に一部屋。玄関側は打ち合わせ室や作業スペースも兼ねているため、いつも資料が散らばっており、順調に浸食範囲を広げている。今も靴底で参考画像らしき資料を踏みつけているが気にしない。玄関の両脇にそれぞれトイレと給湯室。流し台の脇にはインスタントコーヒーの瓶がずらり。ここでバイトを始めてからコーヒーばかり飲んでいるせいか、胃がたまに謎の不協和音を立てることがある。


 よそのいわゆる下請けと呼ばれる映像制作会社がどのような風かは知らないが、おそらくここはもっとも簡素な部類に入るだろう。


 下請けも下請け。末端だ。


 それでいて国営という、かなり特殊な会社である。


 収録スペースもなければ、モニターもない。クラブDJが使うようなチューナーのたくさん付いたミキサーみたいな機材だって見当たらない。編集機材と呼べるものは、隣の部屋に面した右角に鎮座しているデスクトップパソコン一台だけだ。編集さんの姿はそこにはない。また街のどこかで幼い女の子の観察でもしているのだろう。


 もう一人の女性社員、というかこのスタジオの局長は、移動式の椅子で足を組みながら、本を読んでいるようだった。


「……」


 銀色の髪がさらりと揺れる。毛先が首筋にかかり、きらきらと輝きを放っている。首筋は真っ白で、まるで陶器のようだ。


 鋭い瞳をさらに研ぎ澄まして、まるで視線で切り殺さんとばかりに本の中身を真剣に見つめている。近寄りがたい雰囲気を醸し出しつつも、その眼差しはどこか蠱惑的にも映る。


 ぎらりとした眼光を引き立てる鋭い眉、すっと筋の通った鼻梁、きつく閉じた唇。顔全体からサディズムの香りがあふれ出ている。


 これで服装がパジャマじゃなくて、せめてオフィスカジュアルくらいならだいぶ映えるのに。ご丁寧にぽんぽん付きのナイトキャップまでかぶって。


 リラックスした格好でいるのがパフォーマンスを上げるための第一歩という持論である。


「やあ、安室くん」


 ようやく僕の存在に気づいたようで、片手をあげて挨拶をする。


「何読んでるんですか、ミヤコさん」

「ん? ああ。今日は男女の機微というやつを学ぼうと思ってね」


 本を閉じ、表紙を僕に見せる。


 高校生らしき女の子が二人。一人は制服のブラウスのボタンに手をかけ、豊満な胸をぎりぎりまで露出させていた。もう一人はスカートの両手でまくり、健康的な太ももを惜しげもなく見せつけている。どちらも誘惑するような顔つきでこちらを見つめている。


 これは一体……。


「思春期の男女の恋愛を描いた人気漫画だよ。主人公の男の子の貞操観念が世界の存続とリンクしていて、彼の心が動揺するとたちまち嵐が起こり、海は荒れ、大地はひび割れる。世界を滅ぼさんとする魔女っ娘たちが、あれこれ色仕がけをして主人公に迫るんだ。彼は世界を守るため、必死に理性を保とうとする。それでいてなお、彼女たちを大事に思い、優しく接し、ピンチの時には身をなげうって駆けつける。そのうち魔女っ子は彼の真摯さに心を打たれ、本当に好きになってしまう。いわゆるハーレムものというらしいが、この本は十代の少年にとってバイブルのようなものらしい」


「たぶんそれ、恋愛じゃなくて偏愛ですよ」

「そうなのか? 私はまた表紙に騙されてしまったのか」


 部屋の片隅にあるゴミ箱へ投てきする。漫画は壁に跳ね返り、ソファーの裏に落下した。


「世の中は欺瞞で満ちている」


 ミヤコさんは心底残念そうに、ため息をついた。


 ミヤコさん。趣味は読書。


 都さん。宮子さん。美耶子さん。それが名字なのか名前なのかは知らない。まあ別にどうでもいい。そもそも本名ではないだろう。ただこのヒトがそう名乗ったからには、僕は「ミヤコさん」と呼ばなければならない。年齢は二十代前半くらいに見えるが、時折子どもっぽいリアクションもとるし、はっきりとした年齢は不詳だ。仮に年齢の質問をすれば、きっと言葉の鞭が飛んでくる。


 ミヤコさんが僕を安室くんと呼ぶのは、僕の名字が安室だからだ。中学校の時に一年だけクラスに同じ名字の男がいたが、彼はことあるごとに有名シンガーになぞらえたイジリを受けていた。その頃の僕はクラスメートとは完全に距離を置いていたので、僕も安室の一人であるということを知っていた者は果たして何人いただろう。


 ミヤコさんは腕を組んで、先ほどの漫画のヒロインにも負けない暴力的な胸を強調して言う。


「いつまで玄関に突っ立っているんだ。早く働け」


 ミヤコさんは、ほとんどの時間をテレビか読書に費やし、僕に仕事を押しつけてくる。確かにこのヒトは「スタジオミヤコ」の代表で、僕は末端のアルバイト。命令する権利は大いにある。現に一分前から僕には時給が発生しているのだ。


 ソファーにカバンを置くと、その隣のテレビから否応なく、始まったばかりのニュースが耳に流れてくる。


『織北区で発生したバラバラ殺人事件から、今日で十年を迎えました。犯人は未だ捕まっておらず、捜査は難航を極めています。被害者の波戸南さんは当時……』


「物騒な世の中だな」


 どの口が言う、と心の中で吐いて、僕は仕事を開始する。


 とはいえ、映像編集をするとか、企画立案をするわけではない。僕のここでの仕事は部屋の掃除、備品の買い出しといった雑用がほとんどだ。あとはミヤコさんだったり編集さんの話し相手になること。たまに取材に同行したり下調べをすることもあるが、業務内容の九割はテレビとは無関係である。


「調査の進捗状況はどうなんだ、安室くん」


 床に散らばった資料を拾い集めていると、ミヤコさんが珍しく仕事の話を振ってくる。仕事モードになると声色が一段階低くなり、加虐的な雰囲気が強くなる。


「ようやく一人、条件に該当しそうな女の子と知り合いましたよ。彼女ならたぶん万人が納得する人物だと思います」

「学校の関係か?」

「ええ。この春から同じクラスになった子で。成績優秀、品行方正、おまけに僕なんかに積極的に関わろうとしてくれます」

「クラスメートか……。後々が面倒だが、まあいい。ならば私も、久しぶりに仕事をするとしよう」


 唇の端を吊り上げ、冷笑を浮かべる。


 彼女の元で働き始めて三か月が経った。尊大で傲慢で非人道的。目的のためなら何でもする。


 僕がここで時給七百円という最低賃金を下回る法外な労働を強いられているのは、人質を取られているからに他ならない。


「本来なら無給で酷使してやりたいところ」らしいが、僕の人の心を読める力への対価だという。そもそもこの力さえうっかりミヤコさんの前で露呈させなければ、人質をとられることも無理やり働かされることもなかった。


 まあ、どちらにしろ時間を持て余していたし、テレビ関係の仕事は時給に見合わない過酷な労働環境だという。ほとんど人と関わることもないし、社会勉強だと思えばこれはこれで悪くはないのかもしれない。


「手が止まっているぞ、きりきり働け!」


 僕は若者らしく、学校帰りはアルバイトに精を出している。

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