第3話:僕の秘密と、彼女の雑談

 帰りのホームルームが終わる。僕は教科書とノート、筆記用具を学校指定のカバンに詰め込んで、すぐに教室を飛び出すつもりだった。


 しかしそれは阻止された。


 廊下に踏み出そうとしていた僕の、腕部はがっちりと捕捉されていた。


「駅まで一緒に帰りましょう?」


 教室内から聞こえる御堀さんの声。


 失敗した。前の扉を使えばよかった。つい生徒用玄関に近い方から出ようとしてしまった。


「あの、どうしてこう、僕に関わるんですかね」

「決まっているじゃない。仲良くしたいからよ」


 誤解されるから他の男子には言わない方がいい、とは答えなかった。


 結局逃走は失敗。並んで教室を出て、一緒に学校を後にした。


「ねえ、時間があったらこの後」

「クレープは苦手だから無理」

「あら、よくわかったわね」


 しまった、くい気味で答えてしまった。


 甘いのが苦手なのは本当だ。さらに言えば、今君が食べたがっているバナナチョコクリームは特に苦手だ。温かいクレープの皮に冷たいクリームというのは、想像しただけで吐き気がする。


「僕は人の心が読めるんだよ」


 堂々と答えた方がかえってごまかせるのではないか。ついでに変なことを言うやつだと距離感を持ってくれればなおのこと好ましい。


「へえ、すごいね」


 しかし返事は肯定するものだった。しかも割とあっさりめに。僕は御堀さんという人間を侮っていたらしい。


「今までずっと?」

「まあ、少なくとも物心ついた頃からね」

「だから他人の下心がみえみえの人生で人間不信になっちゃったわけだ」

「……」


 こっちの心まで読まれているのではないかと勘繰ってしまう。


 僕には他人の心の声が聞こえる。対面した人物が何かをしゃべるたびに、その言葉の真意が聞こえるようになっている。だから嘘や上辺だけの言葉はすぐにわかる。


 それが当たり前だと思っていた。両親は、言葉の裏を指摘する僕に対してはじめは勘の鋭い子だと微笑ましい様子だったが、次第に恐怖の色が濃くなっていった。やがて病院に連れていかれたが、脳に異常はなく担当医曰く「相手の目や表情の動きに人一倍敏感で、微細な変化から感情を推察する能力に長けている」ということだった。親は一番身近な他人だから、より読み取りやすい対象なのだとも。


 それを両親と一緒に聞いている時、脳裏に「馬鹿な妄想でガキ連れてくるなよ。忙しいんだから」という医者の声が届いたのは今でも覚えている。


 小学校に上がれば、少しずつ僕らは本音と建前を覚えるようになっていく。嫌いな相手に嫌いと正面から言える子はだんだん少なくなっていった。みんなあいまいな笑みを浮かべて、あいまいな関係を築いていく。そのストレスは、いじめや迫害といった凶暴な形に変化していった。


 僕はそれを見ているのが嫌だったのだ。だからいち早く、人とのつながりから離脱した。逃げだしたのだ。


 相手の顔を見なければ、心が読めることもない。親しくならなければ、対面をすることもない。そうやって十年以上、生きてきた。一つ屋根の下で暮らしている親の顔もはっきりと覚えていない。


 だが今年に入って、二つのイレギュラーが発生した。一つは三か月前のある出来事。もう一つは、御堀優羽との邂逅。


 御堀さんには言葉の裏が存在しない。嘘をつかない。十七歳にしてそれは異常なのだろうか、それともまっすぐに生きられる環境で育ってきたからだろうか。


「大丈夫だよ。世の中そんなに悪い人ばかりじゃないから」

「御堀さんが特殊すぎるんだよ」


 嫌味のつもりだったのだが、機嫌を損ねる様子はない。それどころか、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


「なんだか、嬉しいかも」

「は?」


 もしかしてマゾヒスト。


「他の人は、あなたの秘密を知らないんでしょう? これって、二人だけの秘密ってことだよね。つまり、親睦の証」

「おたくは馬鹿なんですか?」


 思わず本音が漏れてしまった。しかしそれでも御堀さんはひるまない。


「いいじゃない。馬鹿だって」

「いや、駄目だろう」


 どこか抵抗しようとする自分がいた。


 認められない。認めてはいけない。


 このままでは、適合してしまう。


 御堀さんが小走りで僕の先を行く。


 そして正面に立ちふさがり、両手を広げて僕を見据えた。


「わたしはあなたと友達になるためだったら、喜んで馬鹿になるわ」


 御堀さんは、満面に笑みをたたえていた。


 僕は開いた口がふさがらなかった。この人は本物だ。


 本物の善人。


 我ながら薄っぺらい価値観だ。そもそも善と悪の基準なんて知ったこっちゃないけれど、御堀さんを悪だと罵る人間は全世界に一人だっていないだろう。自分を肯定してくれる人を悪人だと言い張る人はもっといない。


 僕は立ち止まったまま、御堀さんの瞳を見つめていた。


「で、行くでしょ?」

「え?」

「だから、クレープ」


 この人にとって、さっきまでのは決して特別な話ではなかったのだ。


 善意も悪意もない、ただの雑談。


「えーと、無理」

「もう、どうしてよ!」

「リアルな話、このあとアルバイトがあるから」

「アルバイト?」


 僕の横に立ち戻り、また二人で歩き出す。


「そういえば、いつも学校終わったら慌てるように帰っちゃうよね。何の仕事なの?」


 正直に答えてしまってよいものか。だが嘘をついたところで、この人の前では僕も心が見透かされてしまいそうだ。


「うーん……、テレビの下請け、みたいな」

「へえ。制作アシスタントとか?」

「そうだね。といってもほとんど雑用ばかりだけど。たまに取材の手伝いをしたりとか。ただ実際はこれが制作会社か、っていうくらい緩いんだよね」

「コンビニとかファミレスだったら会いにいけるのに。残念」


 だからあ。そういうのを知り合ったばかりの男相手に言うもんじゃありません。


 勘違いなんてしないけど。


 高校から駅までは徒歩で二十五分と、そこそこの距離がある。昼食が終わってから昼休みが終わるまでの間や、授業の間の十分休憩中、御堀さんとは何度か一緒に過ごしているが(いつも御堀さんが僕の元へやってくる)、これほど長い時間を共有するのは初めてかもしれない。


 となると、表面的な会話だけではもたないので、学校の話だけじゃなく友人のこと、家族のこと、受験のことなど少しプライベートな内容も互いに話したりすることになる。


「そういえば、あの噂って本当なのか?」

「あの噂って?」

「密室で自殺志願者を説得したって話」

「説得っていうか、わたしはただ、おじさんの身の上話を聞いただけだよ」


 二か月前、とあるアパートの前で、借金苦による自殺を宣言した男が、アパートの前で喚き散らしていた。男はガソリンをかぶってライターを握り、おまけに酩酊状態。いつ火だるまになってもおかしくないほどに興奮していた。


 そんな中、三十人近くの野次馬をかき分けて男に対話を申し出た女子高生がいた。


 しばらく二人はアパートの前で言葉を交わし、やがて男は女子高生を部屋へと招き入れた。中についていこうとする女子高生を、さすがにその場にいた全員が止めようとした。


 しかし女子高生はそれを振り切って、実に十時間以上、部屋に二人きりで、男の話に付き合った。結果、男は自殺を思いとどまり、女子高生は警察から感謝状を贈られた。

 その女子高生こそ、この御堀さんである。


「本当に苦しい時って、親しい人にも相談できないんだよ。だからあの場では、初対面で、ただの高校生だったわたしが一番適任だったの」


「そういう問題じゃない気がするんだけれど」

「そういう問題じゃなくても、命は大切だから」


 模範解答のように答えてから、うっすらと笑みを作る。


 御堀さんの人としての正しさにも驚いたが、もう一つ驚くべきは、これまで級友と呼べる存在がいなかった僕が、さっきから知り合って一週間も経たない女子を相手に普通におしゃべりができているということだ。起承転結のロジックなどろくに習得してこなかったのに、すらすらと口から言葉が出てくる。


 これはむしろ聞き上手な御堀さんの功績だろう。相槌は多すぎず少なすぎず、適度なタイミングで自分の話もする。それが話し手の安心感にもつながっているのだ。心理学では自己開示とか言うんだっけ。


 時折見せる笑顔に愛想笑いは一切なく、本当に楽しそうにしている。感情表現の乏しい僕は終始のっぺらぼうだったが、それに嫌そうな顔をする気配もない。


 駅までの道のりはあっという間だった。


「僕のバイト先は駅の向こう側だから、ここで」


 改札で御堀さんを見送る。少し離れたところで同じ学ランを来た生徒が、僕と御堀さんを交互に見て訝しげにしている。たぶん同級生だ。


 そりゃあ、釣り合わないもの、ね。


 小さく手を振って、御堀さんはホームへの階段を下りていった。


 さてさて。多少のイレギュラーはあったものの、今日という日、ここからが本番である。


 人気の女子生徒と一緒に下校したくらいでうきうきしたりなどしないし、三年間の高校生活、この程度、一度や二度くらいは誰にだってあるだろう。もちろん、彼女に好意を抱いている者からすれば、血の涙を流すくらいに恨めしく妬ましいことを僕はしたのかもしれない。


 ただ運動部の人間がオーケストラのコンサートに出かけても身体能力が上がらないように、吹奏楽部の奏者がマラソンの練習をしても演奏技術が上達しないように、僕という人間が他人と触れ合ったところで何ら意味をなさないのである。



 だって三か月前、僕は人間を辞めたのだから。

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