第2話:善人の定義
君は善人か?
机を挟んでクラスメートと対話をするさなか、過去に尋ねられたことをふいに思い出した。
それなりに付き合いの長い友人から訊かれたのならまだしも、あのヒトと出会って開口一番のセリフだったのだから、当然僕は質問に対して明確な回答をすることができなかった。
はじめまして、とか、こんにちは、とかもっとふさわしい挨拶があっただろうに。出会いがしらにそんな抽象的かつ哲学的なことを訊かれても、こんな時代とはいえ普段から善と悪について考えている人間はどれほどいるのだろうか。もっともはじめから回答を持ち合わせていたとしても、きっと正直に答えてはいなかったと思う。
三か月前の出来事を回顧していると、机の向かいにいるクラスメートが僕の額を人差し指で突いた。
「こら、ちゃんと聞いてた?」
聞き逃しは許しませんとばかりに、大きな瞳が僕を捉えている。
「聞いてたよ。明日のカラオケだろ? 行かない」
「ただ遊びに行くんじゃないのよ。高校最後の一年間をともに過ごすクラスメートとの親睦会なんだから。ここでチャンスを逃したら出遅れちゃうよ」
「別にいいよ。これまで二年間と同じように過ごすだけだ」
去年や一昨年と同じ。もっと言えば、中学校の三年間、小学校の六年間と同じように過ごすだけだ。今さらやり方を変えるというのはかえって体力がいる。
しかし目の前のクラスメートは納得がいかないようだ。始業式から三日、事あるごとに彼女は、クラスの誰とも話そうとしない僕を三年A組の輪に入れようと、あれこれ手を焼いてくれている。
名前は確か、
同じクラスになったのは初めてだ。三年生は進学に合わせたクラス配分となる。国立か私立か。文系なら社会の選択科目は日本史か世界史か地理か倫理か。理系なら生物と化学、物理のいずれかを選ぶことになる。科目の選択が見事に一致した結果、僕らは同じクラスとなったわけだ。
といっても互いに面識はなかったし、同じクラスになったのは本当にただの偶然だ。僕が一方的に彼女を知っていただけのことだ。
これは決して僕が御堀さんに特別な好意を抱いていたからというのではない。成績が三年間常にトップクラスで、というか一位で、毎年恒例のマラソン大会も常に上位をキープしていて、合唱コンクールでは御堀さんが指揮をするクラスがこの二年間最優秀賞を獲っている。いくら本人が目立とうとしなくたって、表舞台にこれだけ名前が出てくれば、やや珍しい名字と連動して否応にも記憶してしまうというものだ。
さらに生徒として優秀なだけでなく、男子からも人気があるらしい。大きな瞳、すっとした鼻梁、艶のある黒髪ストレートのセミロング。こうして話をしながら耳元の髪をかき上げる仕草はどこか大人びて色っぽい。
三か月前の僕だったら、ときめいていたのかもしれない。
メイクは薄めで、ヘアピンやイヤリングなどの装飾もついていない。が、率直に言って、クラスの誰よりも可愛い。むしろ素材の良さを活かした結果というか、限りなく素の状態に近いこの状態こそ、御堀優羽にとってもっとも魅力的な姿なのかもしれない。
僕の生返事に業を煮やしたのか、御堀さんは大きな瞳を少し鋭くして、真一文字に結んでいた桜色の唇を開く。
「君も大学受験でしょ? 大学生活は四年間。社会人生活は約四十年あるけれど、高校時代はあと一年しかないの。それに大学生や社会人にはいつでもなれるけれど、高校生にはもう二度となれないのよ? もったないじゃない」
凛とした表情で諭す。
もったいない。
間違いない。その通りだ。
よく「やらなくて後悔するよりやって後悔した方が良い」というが、それはきっと正しいと思う。やって失敗したとしても次の糧になるし、苦い思い出もいつかは笑い話になるだろう。
こうして二日続けて二人で昼休みを一緒に過ごしているのは、何も御堀さんもクラスに馴染んでいないというわけではない。
高校生活を「普通に」送っていれば、二度目のクラス替えでも初日の段階で、知り合いや友人は何人かいるものだ。ましてやA組は文系コースだから女子の比率が大きい。男女比で三対七。女子の八割は既に御堀さんと友人関係にあるようだった。残りの二割も時間の問題だろう。男子は僕以外もれなく御堀さんを憧れの的として認識している。担任も生徒の前で堂々と「御堀さんがうちのクラスで良かったわあ」なんて自慢げに話すくらいだ。御堀帝国樹立はすぐそこまで来ている。
予鈴が鳴る。タイムリミット。僕の勝ちだ。
五分後に午後の授業が始まる。次は確か道徳だっけ。
御堀さんは腰を上げ、もう一度人差し指を僕に向けた。
「いい? 絶対来るんだよ。サボったら怒るからね」
先生のような口調で言う。
御堀さんの席は僕とほぼ対角線上の、後方入り口付近だ。つまりクラス替えと同時期に早速A組で浮き気味の僕のために、わざわざこうして勧誘に来てくれているのだ。男女二人きりで、しかも自分のクラスで一緒に過ごしていてはあらぬ噂を立てられてしまうかもしれないというのに、周囲の好奇の目もどこ吹く風だ。
地味で目立たない、おまけにひねくれている男子にクラス一、いや学年一の人気者がこうして話しかけてくれる。それどころかみんなの輪に混ぜてあげようと、積極的に奔走してくれている。
一般的な男子だったら自分に気があるんじゃないかと妄想してしまうか、仲間内の罰ゲームで無理やり派遣させられていると想像するか、あるいはスクールカーストの弱者に手を差し伸べる自身に陶酔しているのだろうかと邪推してしまうところだ。
だが、僕にはわかる。わかってしまう。
御堀さんは、心の底から僕と友人になりたいと思ってくれている。そしてみんなで仲良く高校生活最後の一年を送りたいと願っている。
「御堀さんってさあ」
僕は見上げる。御堀さんと目が合い、黒くて大きな瞳に吸い込まれそうになる。
「御堀さんって、善人だよね」
「なによ、それ」
そう言って少し笑う。嫌味も屈託もない、春風のような微笑み。
小さく手を振って、自分の席に戻っていく。
放課後にも声をかけてみよう。一緒に駅まで帰ろう。
そんな御堀さんの声が、脳内に届いた。
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