こんがり化けたモノクローム

こんがり化けたモノクローム

第1話 消えたあんぱん

「ええっ、どうしてですか！？」

　その声がロビーに響いたのは、じめじめとした空気が生暖かさを伴い始めた六月上旬のことだった。

　例年であれば生乾きがトレンドを賑わせている時候だろう。しとしとと厳（おごそ）かさを演出していた気団の退散は思いの外早く、ここ数日は部屋干しが嫌な匂いを漂わせないくらいには気持ちのよい日が続いていた。肌で微かな湿り気を感じながらも気分が暗くならないのは、新年度の交友関係がある程度安定してきたという心的補正もあってのことかもしれない。

　連日、ニュースのお天気コーナーでは早梅雨（ひでりつゆ）などと謳われていた。たしかに昼休みの校庭に目を向ければ、怠惰な雨に代わってセオリーを無視した光線たちが燦々（さんさん）と降り注いでいる。

　無秩序にまき散らされたそれは円形ロビーの南側から差し込み、小さな塵を反射して不規則な形を成す。その光景が、暦に合わないからであろうか、今日は不思議と芸術的に映った。

　ことその場に不相応な光景というのは、目立つものであると実感する。

「一番人気だったはずじゃないですか！？」

　こんな次第である。

　強制のない衣替えもフェードの真っ只中。昼休みの購買前に形成された、いや、形成されるべき列には白と黒が入り混じり、さながら囲碁のごとく知能バトルを繰り広げている。……わけもなく、昼には戦地と化すこの場に礼儀正しさなど、もちろんありはしなかった。この場合、なわばりを取り合う黒猫白猫たちの争いという比喩の方が遥かに適切だろう。

　その喧騒を一瞬にして静寂へと変える咆哮を繰り出したのだから、山根小冬（やまねこふゆ）という人間は傍から見ればその種を統率する長のようにも映ったはずだ。

　騒がしくしていた猫たちも、今や全員がボスの方へ目を向けていた。

「復活の予定はないんですか！？」

　小柄な少女はさらに前のめりになって、ご自慢のサイドテールをぴょんぴょんさせる。本人曰く、いい土壌にパンという最高の肥料が加わってにょきにょきと育まれた傑作なのだとか。自分の頭皮を土壌と喩えるのはいかがなものかと思ったが、なるほど確かに生き生きとしている。そんな小冬があれほど大きな声を上げるということは、大好きなパンを中心に何かひと悶着あったとみていいだろう。

「そう言われても、ウチでは何ともねぇ……」

　購買の女性は困った様子で首を傾げる。どうやら小冬が言い争っている――否、一方的に責め立てている相手はこのおばちゃんのようである。

「そんなぁ……」

　小冬はわかりやすく肩を落とし、じたばたと暴れていたサイドテールも生気を失う。完全に意気消沈のご様子だった。

「ごめんねぇ……」

「うぅ、わかりました……。じゃあ、これとこれとこれとこれとこれください」

　いやいや買いすぎだろう。ツッコミのノルマを脳内で完遂し、俺は即座に踵を返す。しかし、フライング気味の逃亡もむなしく、小冬は頬を膨らませながら、もうそれは走りと定義できそうなくらいの歩行速度で俺に詰め寄ってきた。

　とはいえそれは「先に戻るな」という威嚇に過ぎず、結局はすっと悲しい顔になってすぐさま徐行まで速度を落とした。

「うええぇん……ケンちゃぁぁん……！！」

「……なんだよ」

　今だにそんな呼び方をしてくる小冬とは、幼いころから付き合いがある。背丈こそ伸びたものの、童顔とその振る舞いから感じ取れる印象は昔から何も変わらない。

　整った顔立ちであるのは間違いないのだが、面倒事を持ち込んでくるという悪癖がすべてを台無しにしている。行動原理も単純なので俺が介護……、面倒を見るという構図になりやすい。

　小冬は腹からそのまま抜けてきたような、枯れた声で続けた。

「なくなったんだって……」

「ほう、何が？」

「しらたまクリームあんぱんだよ！」

「……」

　俺は無言で小冬に背を向け、教室のある二階へ戻るべく歩き出す。

「まてまてまってーーーい！」

　小冬は俺の肩を強引に掴み、完全に冷静さを欠いた目でこちらを睨む。

「これは……パンデミックだよ！」

　ちげーよ。

　俺は説得にかかる。

「小冬、気持ちはわかるが考えてみろ。しらたまパン？　がなくなったとして、俺が待っても何も変わらないだろう」

「しらたまクリームあんぱんだよ！！　でも正式には、おしるこ風ポイップパン！！」

　パンでもナンでもいいから、会話を成立させてくれ。

「わかった、すごくよくわかった。教室戻るぞ」

「ソンナコトイワナイデ……タスケテ……」

　ショックで海馬が損失し、ついにはイントネーションが飛んだようだ。重症である。

「何をどう助ければいいんですかね」

　俺は適当に流す。冷たく見えるかもしれないが、対処としてこれ以上適切なものが存在しない。

「抗議に行こう！」

　……は？

「講義？」

　俺は見えないペンを持ち、勉強のジェスチャーをする。

「抗議」

　子冬は足を前に踏み出し、俺のペンを握りつぶして拳を構える。

「いやだ」

「いこ」

　小冬は都合の悪いワードは弾くBotと化していた。こうなってしまっては、熱く反抗しても仕方がなかった。一旦こちらが冷静になり、下手に出るほかあるまい。

　俺はひとまず質問に徹する。

「抗議って、どこにだよ」

「…………生徒会？」

　なぜ疑問形？　さてはこいつ、感情のまま動いていて何も考えていないな？

「生徒会に行ってどうする。さすがに購買のメニューを決める権限まで持ってないだろ」

「だって！　あたしが学校に来る理由第三位！　約二十パーセントを占めていたしらたまクリームあんぱんだよ！？」

　……これはひどい。

「生徒会も、購買のメニューを決める権限までは持ってないだろ」

「学校に来る理由の約二十パーセントを占めていた、しらたまクリームあんぱんだよ！？」

　繰り返してみたが、再現性が確認できた。どうやらこの不自然なレスポンスも仕様のようである。せめて聞き間違いなら、この会話のキャッチボール――否、ホームランダービーも修正の余地があったものを。

「せめて目安箱止まりにしておけって。お前の社会的なイメージが完全にあんぱん女になるぞ」

　こいつが暴れ回ると部活にも支障が出るのだ。勘弁してほしい。

「しかしこの怒り、直接ぶつけずして何がパン愛か……ゴゴゴゴゴ（擬音）……」

　知らねぇよ。何がパン愛なんだよ。

「その怒りの矛先が間違ってるんだよ。付いていってやるから、目安箱な」

「……わかった」

　今、こいつを一人で放っては危ない。

　俺は仕方なく小冬についていくことにした。

　その直前、周囲の生徒にやたらと声をかけて回っている怪しい連中を見かけたことは、とりあえず内緒にしておいた。