第5章:交錯

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 2月22日。

『順調に飛んでいるじゃないか』

 岡村典弘は操縦室の右席で自分に言い聞かせていた。南に向かって飛ぶジェット・スカイライン954便ことボーイング737-500はオホーツク海上空を高度33000フィートで順調にフライトを続けていた。視線を少し下げて計器板を眺める。

 ナビゲーションシステムを映し出している液晶ディスプレイを確認する。ディスプレイを両断するようにマゼンタの航路トラフィックが1本だけ表示されており、自機を示すシンボルマークは航路の半ばに位置している。上に次の通過点ウェイポイントである《レクスト》が徐々に近づいている。

 定期便のパイロットにとって、地図はもはや意味がなかった。地球全体をカバーする人工衛星からの信号と航法システムを支える世界規模のネットワーク、機上コンピュータがリアルタイムで連携して旅客機を航路から外れることなく誘導している。

 岡村は顔を上げて窓を眺める。西はロシアの領空が広がっている。何となく尻が落ち着かない気分になる。ニューヨーク発ソウル行きの定期便にとって《レクスト》が航路上で最も西寄りにあるとはいえ、ロシア領空に入るわけではない。だが、過去にこの空域では1983年に当時のソ連空軍機によって大韓航空機が撃墜される事件が起きている。最近も航空自衛隊のF-15が失踪した事件や、貨物機墜落を伝えるニュースが報道されていた。

 落ち着かない理由はもう1つある。岡村は以前、航空自衛隊で戦闘機パイロットを務めていた。小松基地でレーダーサイトからホット・スクランブルを受けて上がった時、大体は〈トウキョウ・エクスプレス〉と呼ばれるロシア空軍機と遭遇した。つたない英語やロシア語で領空侵犯を無線で警告しても、爆撃機のパイロットは不敵に手を振って挨拶してきたこともある。空自を辞めてから約5年は経っていたが、今もその記憶は遺っている。

 不意に操縦席の左席―機長のシドニー・スコットが声を発した。

「何だ、あれは?」

 スコットは岡村の鼻先で右を指で示した。眼を転じた岡村は身を乗り出して瞬きした。わずかに明るさが残った空に浮かび上がったシルエットは戦闘機だった。

 特徴のある2枚の垂直尾翼。ロシア空軍の戦闘機―Su-27《フランカー》に間違いなかった。フラッシュライトが胴体の上下で瞬き、翼端に緑色のライトが見える。緑の航空灯は左舷を表した。

 ヘッドセットの内側にざらついた声が響いた。

《こちらはロシア連邦空軍・・・繰り返す、こちらはロシア連邦空軍。貴機はロシア連邦領空を侵犯している。ただちに当機の指示に従い、すみやかに針路ヘディング265ツー・シックス・ファイブに変更されたい》

 国際緊急周波数ガード・チャンネルでヘッドセットを通じて聞こえてくる英語は訛りが強かったものの、言葉を使い慣れている感じを受けた。

『265?』

 岡村は戦闘機のシルエットを睨みつけて胸の裡に呟いた。

『領空侵犯どころかロシア国内に入っちまうだろうが』

 方位265度と言えば、ほぼ真西になる。岡村は正面の計器板にあるディスプレイに表示された電子水平位置指示器(EHSI)を一瞥し、自機のシンボルマークがマゼンタの航路上にあることをすばやく確認してからスコットに振り返った。

機長キャプテン

「ああ」

 スコットは眼の前にある計器に眼をやった。

「私は現在位置を確認する。まずは社内通信カンパニー・ラジオで連絡を入れてくれ」

 954便ではスコットが操縦を担当し、岡村がそれ以外の業務を受け持っていた。

「しかし・・・」

 岡村が勤める航空会社―ジェット・スカイラインはニューヨークのジョン・F・ケネディ空港を基地ベースとする格安航空会社だが、本社があるニューヨークまでは2000キロ以上離れている。無線が届く距離ではないし、会社が所有する航空機は5機しかない。自分たちが操縦している1機は今、ロシア空軍機に拘束されつつある。残り4機のいずれかに連絡が付けば、本社の運航本部にリレーして繋がる可能性はある。

「試してくれ」

 スコットが社内通信に固執するわけは理解できる。どのような理由があるにせよ、実際に自分たちがロシア領空を侵犯していれば、会社として大きな問題を抱えることになる。出来るだけ外部に情報を漏らさずに対処できるなら、それに越したことはない。

 岡村はうなづいた。カンパニー・ラジオの周波数を設定してあるナンバースリー無線機を選択する。岡村はホイールのトークボタンを押した。

「こちらJSL954、ジェット・スカイライン、応答願います」

 岡村はトークボタンを放した。ヘッドセットからは雑音が流れてくるだけだった。さらに二度繰り返したが応答は無い。機長に顔を向ける。交信の全てをモニタしているスコットはうなづいた。

「ハバロフスク管制に通報しろ」

緊急事態エマージェンシーを宣言しますか」

「いや、とりあえず状況を報告して当機の現在位置を確認できないか訊いてみてくれ」

「了解しました」

 岡村はナンバーワン無線機に切り替える。周波数をハバロフスク管制に合わせてトークボタンを押した。すぐに応答が入ってくる。現在、ロシア空軍機の接触を受けており、針路変更を求められていることを告げた。管制官は落ち着いた様子で答えた。

待機せよスタンバイ

 再びロシア空軍機が声をかけてきた。

《こちらはロシア連邦空軍。貴機はロシア連邦領空を侵犯している。ただちに当機の指示に従い、すみやかに針路265に変更されたい》

 スコットはトークボタンに手を伸ばした。

《こちらは民間航空・・・ジェット・スカイライン954便である。機器の故障で航路を逸脱した可能性がある》

 岡村は眼を見開いてスコットを見た。スコットは掌を見せて落ち着けというようにうなづいた。

 相手は通告を繰り返した。

《ただちに当機の指示に従い、すみやかに針路265に変更せよ》

 岡村が戦闘機を一瞥した直後、明るくなった空間にグリーンの閃光が一直線に伸びた。

 警告射撃。

 ロシア空軍機は通告をレベルアップした。パイロットは30ミリ砲弾を航空機の前方に向けて撃ったが、今度はエンジンかコクピットを狙って撃墜してくるだろう。おそらくは機体後方にも編隊僚機が飛んでいる。ホット・スクランブルでは、必ず2機編隊で敵機に対処することは容易に想像できる。

 岡村は首筋に冷たいものを感じた。

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