[10]

 三雲はワイルド・ターキーのボトルを寝室から持ってきた。

 バーボンのオンザロックを2人分作り、犬飼にはグラスで手渡した。三雲は普段使いの汚れたコーヒーカップに入れて飲んだ。洋酒をちびちび口に含んでみる。普段から飲み慣れていないであろう犬飼は酒の強さに顔をしめかる。三雲はテーブルの上に置かれたコーヒーカップを見つめている。犬飼は口を開いた。

「自分はまだ信じられないんですよ」

「何が?」

 三雲が顔を上げる。

「《シン》さんが海に落ちたなんて。あんな良い腕したパイロットが」

「そうだな」

「あの日の夜、何があったんですか?」

 三雲は思わず犬飼を睨んだ。

「隊長から聞いてこいとかは言われてませんよ。言いたくなければ・・・」

「どうせ聴聞でも同じことを話したんだ。あの夜、気象班から接近してくる低気圧の情報がうるさいぐらいで、《シン》も別に変ったところはなかった」

 深夜の緊急発進待機所アラートパッドはひっそりしている。中央に置いてあるテーブルでは、1時間待機に就いている2人のパイロットがノートPCに向かって書類づくりをしている。警戒待機アラートに就いている間は眠れないため、日ごろ溜めていた書類仕事を片付けるのに都合がいい。

 篠崎と編隊僚機ウィングマンの三雲が5分待機になっていた。5分待機は文字通り出動下令後、5分で離陸しなければならない。2人とも装具はすでに身に着けている。フライトスーツの上にゴム引きの耐水服を着用し、パラシュートとパイロットの身体を結ぶハーネスとサバイバルベストを着けている。下半身はGスーツで締め上げ、重いブーツは履いたままだった。待機所の両脇にF-15が2機ずつ入る格納庫があり、合計4機のF-15を待機させている。

 編隊長リーダー機のパイロットである篠崎はソファの肘掛けに手を付き、テレビの深夜ニュースを眺めていた。大量の煙を吐き出す住宅の映像が映っている。火災とテロップが出ていた。三雲はディスパッチャー席の後ろで、気象用のパソコンを見ていた。篠崎が声をかける。

「天候は?」

「悪くなってる。2月だってのに、何でこんな大きい低気圧が来るんだ」

 パソコンのディスプレイに天気図と衛星写真が並べて表示されている。衛星写真にはオホーツク海上空に渦状の白い筋がくっきりと写っている。

 日付が変わろうという頃、篠崎は掌で顎を支えて寝息を立てていた。三雲にはとても信じられなかった。待機任務に就くのは今日が初めてではないが、毎度緊張してしまう。三雲も何度か眼を閉じたが、眠れなかった。ディスパッチャーの席にあるパソコンが気象情報をプリントアウトする音で起きたり、壁に掛けた時計の長針が動くたびにかすかに立てる音で眼を開いたりした。

「スクランブルが掛かった後は?」犬飼は言った。

「〈クイックサンド〉・・・レーダーサイトからアンノウンの前方に大きな雲があると言われた。台風並みに強い低気圧だ。左も右も、雷がバチバチ鳴って雲の内側が光ってた」

「それで?」

「《シン》はアンノウンが引き返すかも知れないと言ったんだ。《シン》はそのままアンノウンの追尾を続けて、こっちは上昇してアンノウンが引き返した時に捕捉できるよう二段構えにした。《シン》が編隊長リーダーだからな。それで、いったん離れたのが最後だった。気が付いたら〈クイックサンド〉がいきなり《シン》、《シン》って連呼しはじめたんだ。ふとこっちのレーダーを確認したら《シン》の機影が消えてた」

「レーダーサイトが最初、異変に気付いたんですね」

「チャンネル2(編隊内部の周波数)で呼んでみたんだが、返事が無い。電子機器というか無線の故障かと思って〈クイックサンド〉に聞いた。離陸した飛行機が地上に戻るには2つに1つしかないだろ?」

 犬飼がうなづいた。

「墜ちるか、降りるか。相手は何て答えたんですか?」

「『待機せよスタンバイ』だけ。いつまで経ってもそれしか言わない」

「墜ちたとは言わないんすね」

「認めたくもないんだろう」

「アンノウンは目視確認ヴィジュアルアイディできたんですか」

 三雲は首を横に振る。

「レーダーに映ったアンノウンの機影は大きかった。おそらく《ベア》だろう」

《ベア》とは、ロシア空軍のツポレフTu-95を示すNATOのコードネームだった。当初は核兵器も搭載できる4発の爆撃機として開発され、今では電子戦機としても運用されている。全幅51メートルという大型機だが機動力は優れている。

「雲の中を下りて探したんだが、結局アイツもアンノウンも見つからなかった。気が付いたら帰投限界燃料ビンゴ・フューエルになる5分ぐらい前だったから、〈クイックサンド〉に言った」

「向こうはやっぱりスタンバイですか?」

 三雲はうなづいた。

「さすがに、〈クイックサンド〉の指示を無視して引き返してきた」

「それでよく基地まで帰れましたね」

 帰投限界燃料はあくまでもフライトプランを作成する時の計算値で設定されている。悪天候の中で飛行していたことを考えると、燃料消費も跳ね上がったに違いない。

「もうアフターバーナーは使えない状態だった。だからミリタリーのまま、なんとか35000フィートまで上がって、水平飛行レベルオフしてからはアイドルまでエンジンを絞って降下しながら距離を延ばすしかなかった。帰って来た時は燃料の残りが300ポンドを切ってた」

「ホントですか?」

 規定では着陸時に最低でも3000ポンドの燃料を残しておくことになっている。

「滑走路に脚がついてすぐにエンジンを1発で切って、シングルエンジンで駐機場エプロンまで戻ったんだ」

 三雲は大きく息を吐いた。急に眠気がもたげてきて欠伸が出る。涙が浮かんだ眼で壁にかかっている時計を見る。

「まだ、日付が変わったばかりだってのにな。どうも眠くなってきた」

「おれもうちに帰って寝ることにします。お酒、美味しかったです」

 犬飼は自分のアパートに帰っていった。洗濯物を片付けた後、三雲はテーブルに置かれた汚れたコーヒーカップにワイルド・ターキーのボトルから酒を少し注いだ。バーボンを喉にひと息で流し込む。熱さが一瞬で喉元を焼いた。思わずため息が漏れる。

 また犬飼に訊きそびれたな。三雲はぼんやりとした脳裏であることを思い出した。

 篠崎は2か月前から変わった。その日、昼間に実働アクチュアルのホット・スクランブルが千歳基地に発令された。5分待機組として基地を飛び立ったのは、篠崎と犬飼のペアだった。

 篠崎はスクランブルで何を見たのだろうか。

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