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 2月19日。

 三雲は自分専用のマグカップで薄いコーヒーを飲んでいた。カップの底が透けて見える程で、紅茶のようにも見える。緊急発進に備えて基地に24時間待機する戦闘機パイロットたちにコーヒーを飲む機会が多く、胃を保護するために伝統として薄いコーヒーを淹れるようになったという話を聞いたことがある。

 マグカップをテーブルに置いた。同じテーブルにキチンと畳んだ新聞があった。三雲が隅から隅まで眼を通したが、オホーツク海の洋上で行方不明になったF-15―篠崎の失踪に関する記事は今日も出ていない。テレビも同様だ。市谷から三沢や千歳に箝口令が敷かれているのだろうか。だとしたら、それは非常に上手く機能しているようだった。

 何だかはぐらかされた気分で第201飛行隊の指揮所に立ち、三雲は窓越しに空を見上げる。気象情報を聞いていないと落ち着かない。離陸を始めた飛行機から眼を逸らすことが出来ない。これらはパイロット特有の職業病に当たるだろう。そうした病を患うのは、三雲が『戦闘機パイロットが選ばれた人間である』という思いを抱いているからだろう。

 篠崎は常にその事を意識していた。言葉にした。その近くで過ごすことが多かった三雲も心のどこかで同じ思いを抱いている。

 三雲が航空自衛隊の航空学生制度に志願した年、受験生は約300人だった。そのうち航空学生教育隊に入って来たのは65人だった。

 航空学生教育隊のフライトコースでは8名ずつのクラスに編成される。2年間の基礎教育課程、プロペラ練習機T-7の操縦訓練から始まって内容は徐々にレベルアップする。学生たちはパイロット不適格として除籍処分エリミネートにされない限りはずっと同じクラスに配属される。

 三雲には、篠崎が難なく全ての課程をこなしているように見えた。

 初めてジェット練習機に乗った時もそうだった。ジェット練習機の操縦訓練は静岡県浜松基地で行われた。T-4中等ジェット練習機は素直で扱いやすい機体だったが、240ノットという速度は学生たちを面食らわせるには充分だった。機速はそれまで操縦して来たプロペラ練習機の約2倍に相当する。もっともいま三雲が乗っているF-15では、240ノットは着陸進入時の速度に過ぎない。酸素マスクの着用もこの時が初めてだった。ゴムの臭いで気分が悪くなることもしばしばだった。

 教官は飛行教導隊アグレッサー出身である池谷。三雲はT-4の後席に座る池谷から罵倒され続けた。バカ野郎、どこ見てんだよ。機首ノーズが下がってるだろうが、このタコ。滑走路に突っ込む気か。編隊飛行が出来なくて戦闘機乗りになれんのかコラ。

 篠崎に対しては池谷がどういう風に教えていたかは知らない。いつかの酒席で三雲は聞いてみたことはある。その時、篠崎は珍しく苦笑を浮かべて「怒鳴られっぱなしだ」とぼやいていた。だが池谷も素直に篠崎の技量を認めていたようだった。

 その頃には、篠崎との差は決定的になった。篠崎は常に試験の成績、飛行過程の進捗で三雲よりも一歩先を歩いていた。単独で長距離を飛ぶ航法訓練の時、最初にソロフライトをしたのは篠崎だった。いつでも篠崎機が先頭を飛んでいた。篠崎の後ろは必ず自分が飛ぶ。三雲はその一念で必死に練習機を飛ばして篠崎の後を追い続けた。

「ミッツ」

 背後から声を掛けられる。三雲は振り返った。千歳基地で三雲をタックネームで呼び捨てするのは、飛行班長の堀井だけだ。三雲は小さく会釈した。

「マスブリーフィングが終わったら司令部棟の会議室に行け」

 三雲は眉間に皺を寄せる。

「でも、ブリーフィングの後、すぐにシミュレータですよ」

「今日のお前の訓練は全部キャンセルだ」

「そんな話、聞いてないですよ」

 堀井は渋い表情で答えた。

「俺もたった今、聞かされたところでね」

 2人は指揮所に隣接する会議室に入る。会議室の正面には大型のスクリーンが取り付けられ、ゆったりとした造りの椅子がスクリーンに向かって並べられている。ほとんどの席がすでに埋まっていた。三雲は一番後ろの席、堀井は飛行隊幹部用席である壁際の一列に腰を下ろした。幹部籍の先頭には隊長が座る。

 整備小隊長、気象班幹部が次々に現れる。最後に隊長が会議室に入ってくる。飛行隊のマスブリーフィングは予定通り午前7時20分に始まった。最初に隊長が立ち上がってスクリーンを背にして立つ。当直幹部が号令をかけた。

「起立」

 全員が立ち上がる。隊長が一渡り見回した後、穏やかな声で挨拶した。

「おはよう」

「おはようございます」

 着席の号令で再び全員が腰を下ろす。隊長が訓示を始めた。

「天候等の理由によりフライトの一部が消化しきれていないが、辻褄合わせに無理なフライトは断じて見合わせるように・・・」

 飛行隊のマスブリーフィングが終了した後、三雲はすぐに第201飛行隊の隊舎から司令部棟に向かった。隊舎から司令部棟までは歩いて五分ほどかかる。隊舎は滑走路に面して建てられているが、司令部棟は滑走路からもっとも離れた場所にある。司令部棟に勤務する隊員たちは少しでもジェットエンジンの騒音から遠ざかっていたいのかもしれないが、F-15がF100ターボファンエンジンのアフターバーナーに点火して跳び出せば、半径5キロ以内の建物はすべて震え出すほどだ。

 今から思い返せば、新千歳空港でF-15の轟音を聞いたことが全ての始まりだった。小学生になったばかりの三雲は家族旅行で北海道に来た時、空港で建物全体が震えるほどの轟音に足を止めた。大きな窓に近寄り、滑走路に眼をやる。長い滑走路にF-15が1機だけ止まっていた。

 連想したのはセミだった。暑い夏に樹にとまって大音量で鳴くミンミンゼミ。

 いったん轟音が静まったかと思うと、さらに大きな音が響き渡る。空港の大きな窓がびりびり震える。機体はあっという間に加速して飛び立っていった。空の彼方まで小さくなっていく機体を眼で追い続けた。姿形がすっかり見えなくなって母親に手を引かれても青空を見続けていた。

《カッコいいなあ・・・!》

 幼い頃に抱いた憧憬が戦闘機パイロットを志す原動力になったのは間違いない。

 普段なら司令部棟に行く時は誰かに自転車を借りるところだが、今朝はわざと歩いた。訓練中止が面白くなかった。少しばかり相手を待たせてやるつもりだった。そう言えば、会議室で自分を待っている相手とは誰だろう。三雲は釈然としない思いを抱え、司令部棟に歩き続けた。

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