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 2月18日。

 早朝、岸元はまだ人けもまばらな三沢基地に入った。勤務先は北部航空方面隊司令部棟1階の渉外室だった。渉外室に入る。すでに出勤していた副官の岡田が「おはようございます」と声をかける。岸元も挨拶を返す。窓際にある自分の机にカバンを置き、ダスターコートを脱いだ。

 左隣の机から渉外室長の望月が挨拶する。当直明けの眠そうな声だった。岸元は望月の顔を見た。鼻の下に髭を生やした望月は眼尻をすっかり下げている。

「ご機嫌ですね。室長、何かあったんですか」

「分かっちゃう?」望月の口元に笑みが広がる。「すぐに顔に出ちゃうようじゃ、おれもまだ修行が足りんようだ」

「何があったんですか?」

「内示が出た。来月は百里だ」

 百里は茨城県小美玉市にある航空自衛隊の基地である。現在は民間の茨城空港としても使用されている。10年ほど前に石岡市の郊外に家を建てた望月にしてみれば、自宅から通勤できるようになる。

「ようやく単身赴任ともおさらばですか」

「そういうこと」

 岸元は岡田が淹れてくれた緑茶を飲みながら、詳しい話を聞いてみる。望月の自宅と基地は直線距離で10キロほどあるので自家用車で通勤するつもりだという。基地に勤務する隊員たちから「陸の孤島」と言われるほど、百里に向かう交通の便は悪い。

「そういえば、《ナイト》は百里にいたんだったな」

 望月は岸元をタックネームで呼んだ。苗字の岸から騎士を連想して付けた。

「ええ」

「どこにいたの?」

第501飛行隊ご・まる・いちにいました」

「偵察か」

 第501飛行隊は空自で唯一の偵察部隊として長い間、百里基地でF-4EJ《ファントム》に偵察装備を搭載したRF-4EJを運用していた。しかし、偵察任務を無人航空機に代替することになったために飛行隊は廃止された。

「失礼します」

 渉外室の入口で声がする。望月は椅子を反転させる。岸元も眼をやった。北部航空方面隊司令官付きの隊員が一礼して部屋に入ってくる。隊員がまっすぐ岸元の前に来る。

「岸元・二佐、司令がお呼びです」

「分かった。すぐ行く」

 望月が岸元に親指を立てて見せた。

「直々に呼び出しって何かな」

「さあ」

 岸元は首をひねってデスクから立ち上がった。司令部勤務とはいえ、三沢基地を本拠地とする北部航空方面隊の最上位指揮官から直接呼び出されることは珍しかった。

「おれと同じで転勤の内示だったりして」

「司令から?あり得ませんよ」

 岸元は顔の前で手をひらひらさせる。司令官付きの隊員について渉外室を出た。司令部棟中央の階段を上がる。2階の突き当たりに司令官と副司令官の部屋がある。2つの部屋は向かい合っていた。司令官室の前に来る。

 岸元は開け放たれているドアをノックして声をかけた。

「岸元・二佐、入ります」

「入れ」

 司令官の銘苅・空将が返事をする。岸元は入口を塞いでいる衝立を回り込む。広々とした部屋の中央に配置された応接セットのソファに銘苅は腰を下ろしていた。向かいに座っているのは副司令官の山懸。銘苅は副司令官の横を手で示した。

「座ってくれ」

「失礼します」

「千歳の第201飛行隊のパイロットが行方不明になってる件は把握してるな?」

 岸元が腰を下ろした途端、銘苅が用件に入る。メモを取る暇も与えられなかった。

「はい」

「明日、市谷から防衛書記官がこの件について聴取に来ることになっている。聴取は千歳でやる。航空幕僚監部ばくから協力するようにという命令が出てる。君もこの聴取に参加しろ。飛行機はすでに手配してある」

「防衛書記官が聴取ですか?誰を、ですか?」

「事故当夜、行方不明機と一緒に飛んでた僚機のパイロットを聴取するそうだ」

 山懸が行方不明機と僚機のパイロットの個人データを告げる。僚機を操縦していたパイロットの氏名は三雲篤。階級は二等空尉。行方不明になった機のパイロットは氏名が篠崎真。階級は一等空尉。

「たしか、三雲・二尉に対しては・・・」

 山懸が岸元の言葉をひき取った。

「第2航空団がすでに聴取をしてる」

「何か不審な点でも見つかったんですか?」

「おそらくそんなことは無いはずだが・・・」

「篠崎・一尉が行方不明になった海域は分かってますよね?捜索は海保が?」

 銘苅はうなづいた。

「遺体か墜落した機体は見つかったんですか?」

 銘苅が首を横に振る。山懸が代わりに答える。

第601飛行隊ろく・まる・いちからの報告だと、レーダーから篠崎・一尉が消失ロストしたと思われる海域は公海上になる。今は第7艦隊の駆逐艦が現場の海域に展開して、周辺を封鎖してるそうだ。巡視船もサルベージ船も近づけんようで、海保が困ってるらしい」

「どうして、米軍が?」

「民間の貨物機が墜落したので、その事故の調査をしてると」

「防衛書記官が調査に来るのは、もしかして米軍の絡みですか?」

 銘苅が話に割り込んでくる。

「防衛書記官が本件に関わる理由は正直に言って、全く分からん。航空幕僚監部ばくは何か掴んでるようだが、はっきりと話してくれん。君は明日の聴取までに、事故調査報告書ぐらいは眼を通しておけ」

 銘苅はそれで終わりだというように、ソファから立ち上がった。岸元と山懸は司令官室を退出する。岸元は廊下で山懸に訊ねる。

「三雲は今どうしてるんです?」

「基地には出勤してるが、航空幕僚監部ばくから飛行禁止令が出されている。司令は前線のパイロットを1人でも外したくないと抗議したそうだが、聞き入れてもらえなかったようだ」

 それでカリカリしてるのか。岸元は普段よりもぶっきらぼうだった銘苅の態度にとりあえず納得した。ソ連が崩壊してロシアに名前を変えてから30年以上経つが、千歳基地は依然として「北の護りの要所」である。ロシア空軍機に対するスクランブルの回数は最盛期より減ったとはいえ、現在も要衝であることに変わりはない。

 司令官の抗議は当然として、まずは明日の聴取だった。時間は限られていた。北海道に飛ぶ前にやるべきことはたくさんある。渉外室に戻った岸元は岡田に命じて、第2航空団から同航空団の防衛部が作成した事故調査報告書の一式を借り受けた。

 岸元と岡田は司令部棟の会議室にこもり、事故の検討を始めた。防衛部が三雲に対する聴取を行ったのは事故発生の翌日。岸元は事故調査報告書の綴りを開いた。

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