[5]

ミッツ、右に急旋回しろブレイク・ライト

 両耳を覆うヘッドフォンに怒鳴り声が響いた。

 三雲はヘッド・アップ・ディスプレイの照準環に捉えていたロシア空軍機―スホーイSu-27《フランカー》を諦め、操縦桿を倒すと同時にラダーペダルを踏み込んだ。《イーグル》の機体が大きく右に傾き、眼の前の光景が左へ吹っ飛ぶ。

 青い空が灰色に変わる。

『ミッツ、4時の方向をチェックしろチェック・フォー・オクロック

 パイロットが方位を知らせる場合、時計の文字盤を利用する。正面が12時、右の真横が3時、背後が6時、左の真横が9時を表す。

 三雲は射出座席の上で前傾姿勢を取り、それから首をねじって右の後方を見た。戦闘機のコクピットから後方を見る場合は一度、身体を前に倒す。射出座席の上で背中を伸ばしたまま背後を振り返っても、視界は限定されてしまい、十分なチェックができないからだ。

 視認。

見えたタリホー」三雲は口許のマイクロフォンにコールした。

 右側のやや下方。特徴のある二葉の垂直尾翼を持った戦闘機が見える。旋回を切りながら上昇して《イーグル》の背後に食いつこうとしている。

 Su-27。先ほど三雲が照準環に捕えていたスホーイの編隊僚機に違いなかった。戦闘機は最低でも2機がペアとなって行動する。

 三雲は操縦桿を右に倒したまま、わずかに引き上げた。《イーグル》の機首が上がる。上体を前傾させて首をひねり、後方に眼を向ける。頸筋が伸び切って震えている。奥歯を食いしばる。

 Su-27が左後方へ回り込んで下方に潜り込もうとしている。ヘッドフォンからは耳障りな電子音が鳴り続けていた。レーダー警戒装置の警報だった。断続的に鳴り続けている警告の間隔が次第に短くなっている。スホーイのレーダーが照射範囲を狭め、三雲機の後尾を的確に狙いつつあることを示していた。

 尻がむず痒くなる。三雲はさらに操縦桿を引き、旋回半径を小さくする。まだスホーイを視界の隅に捕えていた。巴の旋回戦の場合、敵機を見失った時は自機の真後ろを捉えられた」ことを意味する。すなわち撃墜。

 苦しくても、生き残るためにこの一瞬を踏みとどまるしかない。

 スホーイは射出座席の上端に隠れそうになりながらも、まだ機影を見せていた。敵のレーダーがこちらを捕らえかかっているが、ミサイルは発射しない。現在の位置関係なら敵がミサイルを発射しても振り切れる。それは相手も分かっているので無理に発射しない。

「ミッツ、交戦するエンゲージ」三雲は口許のマイクロフォンにコールした。

 敵機のヨーヨー機動を旋回で切り返す。2機は典型的なシザース運動に入る。その時から三雲は分かっていた。《イーグル》はいずれ失速するだろう。敵機を見上げるように首をのけぞらせる。だんだんと頭上から後方に視線が移る。

 やがて敵機が真後ろについた。レーダー警戒装置が甲高くわめき立てる。

 身体が自然に反応した。

 急激に操縦桿を引いてスロットルを絞る。《イーグル》が空中で一瞬、棒立ちになる。速度計を確認する。ほとんどゼロになっている。三雲は天を見上げ、眼をしばたたいた。何が起こっているのか。考えている余裕はない。祈るような思いで操縦桿を付いた。

《イーグル》は震えながら、次第に機首を下げる。左手はスロットルレバーの点火位置まで押し出している。ターボファンエンジン特有の着火までのタイムラグがもどかしい。

 風防ガラスの眼の前を排気口からオレンジ色の炎を閃かせてSu-27が駆け抜ける。主翼に吊るしたミサイルはすでに安全装置を外してある。AAM-5赤外線追尾式ミサイルの弾頭に内蔵された感知部シーカーが敵機のエンジンから出る赤外線に反応する。耳元でオーラルトーンが弾ける。目標を完全に捉えたことを知らせる音だった。

発射フォックス・ツー

 三雲は操縦桿の発射スイッチを二度押す。主翼下のパイロンについているレールを滑り、ミサイルが飛び出した。

 完璧な攻撃だった。

 三雲はスロットルレバーについているレーダー管制スイッチを切り換えた。

 ヘッド・アップ・ディスプレイに眼を落とす。敵機と自機の距離が表示されている。4キロ。この距離で発射された赤外線追尾式ミサイルはSu-27の排気熱をしっかりと捉えている。スホーイに逃げ場はなかった。不意に、ヘッドフォンの中に怒鳴り声がした。

『ミッツ!急旋回しろブレイク9時上空に敵機バンデッド・ナイン・オクロック・ハイ

 三雲はとっさに操縦桿を左に入れ、左側のラダーペダルを蹴った。続けて操縦桿を前に倒しながら、上空を見上げた。左に旋回を切ったため、9時上空から襲いかかってきた敵機をまともに見上げる格好になる。

 眼を見開いた。透明な風防いっぱいに敵機が覆いかぶさってくる。

 先ほど逃がしたもう1機のスホーイ。三雲は旋回を切り続ける。だが、すでに遅かった。スホーイの右翼、付け根あたりからオレンジ色の炎が閃いた。30ミリ機関砲が火を噴いた。風防が真っ赤に染まる。やがて周囲の背景が白濁して消えた。

 ヘッドフォンに声が響いた。

『ミッツ、被撃墜キルド。ゲームオーバー』堀井が言った。『昼だ。飯にしよう』

 三雲は溜めていた息をそっと吐いた。操縦桿とスロットルレバーにかけていた両手をだらりと下げる。周囲を見渡す。白い壁が広がっている。マイクロフォンと一体になったヘッドフォンを外し、風防の枠に引っかけた。

 6本の柱で支えられた戦闘機用の模擬操縦訓練装置シミュレーターの中で、三雲は射出座席と自分の身体を固定していたベルトを外し、ゆっくり立ち上がった。三雲は戦闘機乗りとしては背が高い方だった。身長183センチ。濃いグリーンのフライトスーツに包まれた身体は引き締まっているが、首は太い。パイロットたちはGに抗い、敵機を探し求めて首を振るうちに必然的に首が太くなる。

 三雲は正確に再現された《イーグル》のコクピットを見下ろす。グリーンやアンバーのランプが並んだ計器パネルはまだ電気が通っている。三雲は部屋を出る。

 もう1機のスホーイ。気づいて当然だったはずだ。廊下を食堂に向かう間、胸奥に苦いしこりが残っていた。

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