恋する乙女と想い人

駆ける、駆ける、駆ける!

目的地なんて見当もつかないのに一切の迷いも抱かずに体は動いてくれる。惹かれあっているんだ、ツヴァイトークの血とユグドラシルが。

陛下が凶刃に倒れた時から自分が誰かに呼ばれているような違和感が芽生えていたけど、正体が今なら分かる。適合者の一人を失って暴走し始めているユグドラシルが私を呼ぶんだ!

封印は城の地下だとアルテミシアは言っていたけど、入り口がそのまま城にあるとは限らない。

導かれるまま私が辿り着いたのは敷地内に設けられた教会の礼拝堂でした。

間違いなく地下への入り口が何処かにあると確信出来る証拠が礼拝堂を埋め尽くしているから。

「酷い……」

濃密な死の匂いに思わず左手で口元を覆ってしまった。あれだけの屍が積み上がった謁見の間の比じゃない。初めからその色で染められていたと言われても頷いてしまえるくらいに見渡す限り撒き散らされた血痕の夥さ、そしてここにも積み上げられた天の車の亡骸が確固たる証拠。

恐らく小父様に襲い掛かり返り討ちに遭ったのでしょう、本気のあの人に挑むなんて無謀が過ぎます。

敵とはいえ本来ならば手向けの一つの差し伸べたい所ですが、生憎と今は時間が無い。

礼拝堂の奥を見やると粉々に砕けた祭壇から地下へ続くであろう階段が伸びているのを見ると、きっとこの先に小父様とエリオットさんが居るに違いない。

暗闇へ向かい踏み出すのに躊躇いは生まれなかった。

二人を止めるのが、小父様を助けるのが私の役目なんだから!

「イリス、お願い!」

不死鳥の大翼を背中に纏い、階段を急降下していく。

イリスの焰が照らしてくれるお陰で視界は明るく、石造りの粗末な道を地下へ向かい跳ばすこと凡そ五分。

通路の先にイリスの金焰すら跳ね返す紅々と視界を焼く光が姿を現した。

遂に辿り着けた! 翼は更に加速し躊躇なく紅の空間へと飛び込んでいく。

抜けた先は階段と同じ粗末な石造りの大部屋でした。長年手入れがされていないのは埃に満ちた空気とカビ臭さで想像が付きます。

だけどそんな些細な物事なんて気にする暇なんてありませんでした。

大部屋を紅々と照らす得体の知れない何か。

部屋の中央に聳え立つ光の柱。

これこそがユグドラシル、世界を支える御柱の一柱。

そしてその近くに横たわる黒尽くめに身を包んだ初老の男性と、その喉に突き立てた長剣を杖に立ち尽くす濃紺のフロックコートを装ったあの人。

鮮血に薄汚れて、婚姻の儀の時は皺一つ浮かんでいなかったフロックコートは見窄らしくあちこちが破れて、とても元の様相は成していない。それだけ小父様が掻い潜ってきた戦場が壮絶だったのだとその出で立ちが語り掛けてくる。

「……小父様」

それでも私は語りかけなくちゃいけない。

「エリオットさんは……」

親愛なるこのお方に向き合わなくちゃいけないんだ!

「私が殺した」

淡々と色の無い声音が返ってきました。

「天の車とは言え、エリオット殿はならず者である私に貴族としての生き様を伝授して下さったもう一人の師……二人も師の最後に立ち会うとは、まったくこの手はどこまで穢れるのを望んでいるのか……」

「小父様……小父様も天の車だったと言うのは本当ですか?」

「……そうだ、天の車が結成された所以はユグドラシルを確保し皇帝に成り代わり国政を……いや、世界の法則の一部を掌握するのが目的だった、だが決起にまで至った道筋を忘れ去り、あろうことかアイリスを毒牙に刺そうとするとは、これではオールハイド殿も浮かばれん」

一瞬ですが思考が反応するのに時間が掛かりました。

「父様……」

話の流れから、今だに信じたくなかった事柄が事実だと言う線がより濃くなった。

「ユグドラシルの間に辿り着いたと言う事は事の顛末はアルテミシアから聞き及んでいるだろう、だがあれも知り得ない事実があるとしたらそれは二つ……私が天の車に組みした理由と、天の車の創設者の正体だ」

「……本当なんですね、父様が帝国に……世界に弓を引いた反逆者だと言うのは?」

脳髄が痺れて意識が遠退きそうになるのを唇を噛み切る痛みでどうにか堪える私に、小父様は次々と真実を明るみにしていく。

「オールハイド殿は今の世界の在り方に常々疑問を投げかけていた、御柱と同調し収められる人間が志を差し置いて国を牛耳り、権力の代償として望まざれなくとも命を差し出さなくてはならん歪んだ仕組みに」

「ですが皇帝陛下は実力主義を貫かれていたではないですか、それなら反旗を翻さなくとも道はあったのではっ!」

「いくら陛下と言えど所詮は人の子、人柱としての役割を王家とツヴァイトークのみで賄おうとしたのだろうがそれでは一つでもピースが欠けてしまえばユグドラシルを鎮められる手立てが潰えてしまう、些細な揺らめきでは足りないと悟ったオールハイド殿は根底から法則を作り替える劇薬を模索し答えを見つけ出した、自らを純粋な包力へと変換させ半永久的に御柱を制御する術式『ニブルヘイムの鍵』を……」

「父様はご自分を犠牲に世界の成り立ちを書き換えようとしていた?」

「そうだ……若かりし頃の私はオールハイド殿が掲げた新世界に希望を見ていた、実現すれば地位や名誉が蔓延る社会を淘汰し、誰しもが平等に扱われる世が訪れると信じていた、しかし希望の箱に詰め込まれていたのは形を保つのも難しい夢物語、ニブルヘイムの鍵は致命的な欠陥を抱えていたのだから」

「致命的な欠陥?」

「鍵が完成すれば御柱は完全に鎮静し世界の崩壊は食い止められる、たったの一年に限ってな」

「一年……そんな、それじゃあ鍵をかける意味がっ!」

「そうだ、確かに拘束力は飛躍的に高まるだろうが持続力については目も当てられない程に劣化する……それでもオールハイド殿は計画の実行を判断した、鍵が十分な効力を得ていなくとも帝国の権力から人類を解放すべく決断を下した、だが……」

小父様の長剣がガツンと床に打ち付けられる音が木霊する。

あの人の苛立ちがありありと分かる。

「オールハイド殿の決断に反旗を翻した構成員も存在した、それが私とエリオットだ」

「教えて下さい……どうして父様を裏切ったのですか、少なくとも同じ大義を掲げた同士だった筈です」

「エリオットの場合は早計な決行を危惧しての反逆だった、事を成しても長期に渡る結果とならなければ勝利とはならんと主張していた、比べて私の動機は幼いものだ……」

引き抜かれ振り上げられる長剣、その切先が狙い定めるのは……。

「天の車の大義が過ちだと気付いたのだ、不安定な鍵の術式では世界の仕組みに抗うのに誰かの命を犠牲にし続けるのは変わりない、だからこそオールハイド殿が命を投げ出すのを食い止めたかった……十年前のあの日、オールハイド殿に逆らった同志達は師を討つべく行動を起こした、一刻も早く師の下へと向かい逃亡の手助けを申し出なくてはと急いだが、行く手を阻む天の車と剣戟を交わし、心器と心器がぶつかり合う最中に辿り着いた先に見たものは、エリオットがアイリスを手に掛けた瞬間だった……」

「あの時の賊……まさか、エリオットさんだったなんて……」

「目的の為なら非情に徹する男だ、私の怒りの矛先はエリオットへ向けられるも取り逃がしてしまったがな……」

遠目からでも分かる、剣を握る小父様の手に激情が込められたのが。

「愚かにも師を守れなかったのだ!」

躊躇なく振り下ろされた長剣が深々と床を打ち砕いた。

「師を止めようなどとほざきながら結局は救うことなど出来なかったのだ、よく理解したよ所詮はならず者の思い上がりだとな! だがそれでも踏み出した道程を引き返すなど無理な話だ、逃げ果せたエリオットを捕縛し利用することで権力を手に入れてでも成就しようと誓った、オールハイド殿が願った犠牲無き平和の実現、そしてアイリスの幸福を!」

「……私の幸福って、どういうことですか!」

「当初、鍵の研究が始まった公の理由は人権の解放だった、しかし真の動機はツヴァイトーク家の呪いとも言える連鎖からアイリスを解放する事なのだ、オールハイド殿とて人の親だ、大切な一人娘を避けようのない死の運命から遠ざけようとするのは当然の感情なのだろう」

「そっ、そんな事って……それじゃあ十年前の反乱も今回の事件も私が原因……」

「思い上がるな小娘がっ!」

「……っ!」

「全ての責任は我らにある、誰かが血を流さなくては保てない仮初めの平穏を創り出し、無様にも縋り続けた大人の責任だ、子供が悲観するなど思い上がるな!」

言い返せない、小父様の言葉には体が震え上がるような威厳が巨岩の如く乗せられている。

人の世の平和を護り続けてきた威厳がありありと感じられる。

「アイリス、師として親代わりとして最後の言葉を贈るぞ、陛下が崩御された時点でユグドラシルは暴走へと向かっている、このままではドゥーランドだけでなくこの世全ての均衡が崩れ崩壊するだろう……だが一年だけならば猶予を作れる、僅かに残された時間を使い態勢を立て直せ、アイリスなら出来るはずだ……」

一年だけの猶予、この言葉をツヴァイトークと同等の適合者である小父様が口にする意味は明白でした。

「ご自分を鍵に仕立てるおつもりですか、やめて下さい!」

「道は他に存在しない……最後にアイリスと言葉を交せて心残りも残さずに終われそうだ、感謝する」

「だめ……」

金焰の剣を握る右手に力が込もる。

「だめぇっ!」

踏み出した体は躊躇なく小父様へ向かい駆け抜けて、金焰の剣を上段から振り下ろしていました。

難なく小父様の長剣に防がれるも武器としての格は心器が勝る、長剣は見る間に融解し防御を突破しようとした。

ですが突破しきる寸前に私の横腹を襲った衝撃に左方へと弾き飛ばされてしまった。

数回石畳みを転がり起き上がると衝撃の正体は小父様の蹴りが見舞われたのだと認識が追いつきました。

「まだです、あきらめない!」

「邪魔をするなアイリス……最早こうする以外に手立ては存在しない、賽は投げられたのだ」

「いいえまだです、不完全な術式であるのなら改変する余地は残っているはず、だったら小父様が一人で背負う必要はありません!」

「そんな仮説は詭弁に過ぎん、奈落へと堕ちていく賽を押し留めるには迷いは許されんのだ!」

「この分からず屋! どうして全てをご自分だけで背負おうとするのですか!」

「分からず屋で結構、まだまだ子供だと思っていたが大概に聞き分けが悪いか……であるなら、躾けるのもまた師としての責務か……」

小父様は長剣を後方へと放ると改めて私へと正面に向き直りました。

その足下に出現する銀雪色の包術法陣は小父様が確固たる決意を固めた証なのでしょう……。

「奉り願う、我が心域が世界を包もう!」

法陣が見る間に規模を拡張し封印の間の全てを埋め尽くすと同時に、瞼すらも透過してくる眩い光が視界を覆い尽くす。

「これが最後の教えとなるだろう……アイリス、我が弟子よ、確かにお前は心器に目覚め強くなった、だが真の高みには到達してはいない、この先歩むであろう道に待ち受ける到達点の一端を披露してやる」

(……到達点?)

光が収まり視界が開けた時、師が口にした言葉の意味をありありと見せつけられる事となりました。

「これは……」

世界の景色が完全に一変していたのです。

乾いた風が吹き荒ぶ死が転がる荒野。

草木の一つも姿を置かず、所々に点々と転がる白骨がこの世界が命を否定する場所なのだと無言で語りかけてくる。

「どういうことなの、私は確かに封印の間に居たのに……」

「御神が棲まうのは人間の心に形成される内なる世界、心器も包術もこの世界より齎される力の一端だ、だがもし内から溢れる力が現実を超越するとしたらどうなるか……」

小父様は十歩ほど離れた離れた場所に佇んでいる……。

「世界を包む力、即ちその究極は世界を書き換える事にある……『心界領域』、全ての術師が目指す包術の極みであり、私が屠ってきた命が転がるこの荒野こそがその象徴だ」

包術光と同じ板金鎧を纏い、手に雄々しい大木を思わせる両手剣を携えた騎士。

忘れる筈が無い、あの姿は十年前に私を救ってくれたあの騎士様なのだから……だけどあの時に比べると鎧も大剣も見るも無残にひび割れ、砕けていて色合いも燻みが強く嘗ての輝きは微塵も残っていない、まるで

「その姿は……」

「無様だろう? この醜く朽ち果てた鎧と武装こそが我が心器『ダモクレスの末路』だ……戦いに明け暮れながら走る続けてきたが、我ながらならず者に相応しい出で立ちだと感心してしまう……まったく、部を超えた力に手を出すものではないな」

(そういう事ですか)

心器は例え破損しようと時間の経過と共に修復されていく性質があります。

ですが小父様の心器の姿は壊れているのではない。ひたすらに、孤独に帝国の平和を保つべく凡ゆる戦場に立ち続けたあの人の心は磨り減って遂にはその姿を変質させてしまったんだ、あの傷だらけの心器こそが救国の英雄が辿り着いてしまった末路なんだ。

「止めてみせます」

この人を相手に手を抜く余地なんて作れない、私は俊風の構えを取ると視線を微塵もぶれさせずに相手を見据えました。

「未熟な剣であろうと諦めはしない、貴方に届くその時まで振るい続けてみせる!」

「ならばな力を誇示してみせるのみ」

小父様は左腕を突き出してピタリと止まりました。

「来なさいアイリス、今のお前では超えられぬ壁が在るのだと教えてくれる……奉り願う……」

小父様の詠唱に合わせて灰褐色の空と荒野に夥しい法陣が展開されていく。

「裁きの光を!」

法陣より光の刃が放たれるのと同時に私も俊風を発動しました。

僅か十歩の距離なのに千里にも錯覚するほど小父様を遠くに感じてしまう。

降り注ぐ刃が肩を脚を掠めるも痛みなんて無視して突き進む。

あと二歩、そして一歩、ようやく小父様の下に辿り着こうとした私の剣ですが、無残にも阻まれてしまった。

小父様の大剣が振るわれ切先同士がぶつかり合っただけなのに二の腕まで痺れる衝撃が伝わってきて、思わず剣を手放しそうになる。

負けじと右の片手でなんとか保持した金焰の剣を相手の胸に目掛けて突き上げるも在ろう事か素手で止められるてしまった。

「そんなっ!」

「まだまだ心器を御しきれていないな……未熟!」

(まずいっ!)

振り下ろされた大剣に体を切り裂かれるビジョンが浮かんで、逃げ去るべく金焰の剣を解除して心内にしまい込む。

剣を掴んでいた小父様の左手が空を掠め、その隙に私は相手の間合いから脱出します。

五歩程距離を開けた場所で金焰の剣を再構成し身構えるも、小父様は安堵する余裕を許してはくれませんでした。

「奉り願う、疾風の導きを」

俊風、先に自分が使った技が今度は私に迫り来る。右脚が不自由にも関わらず疾風脚と併用する事で使い熟してみせるなんて、それも私よりも幾段と速い!

「払え金焰!」

がむしゃらに剣から金焰を放射しても目眩しにしかなりません、でも左横に動く猶予は作れたお陰でどうにか避けることは出来た。

「甘いぞ!」

左手で大剣の腹を豪快に叩き強引に起動を私へずらした小父様は更に拳が前に飛び出す勢いを利用して私の体制が崩れた所へ体を縦方向に回転させながら上段からの蹴りまで見舞ってくる。

(流円脚!)

力技でありながら華麗な技の連携に場違いにも見惚れてしまいそうになる、迫り来る襲撃は鼻先を掠めて荒野に突き刺さると派手に抉り巨大な陥没を引き起こした。

足下を崩されて仰向けに転がる私に突き付けられる。

「はぁはぁはぁ……」

息が上がるのが止められない。

剣でも包術でも数手しか交えていないのにまるで歯が立たない、しかも間違いなく手加減されているのは明白です。

最初の包術も狙いが定まっておらず致命傷になり得る刃は見当たらなかった、俊風も焔で眩ませられる精度で放たれていたし、流連脚に至っては初めから荒野に向かって振り降ろされていた。

威力も規模も普段の鍛錬の時と比べて段違いです。確かに本気を出しているのは間違いないかもしれないけど、それにしても空を埋め尽くす包術も、荒野を叩き割る体術も、心器を素手で受けきる防御力も異常に高い。

どうしてここまでの力を引き出させるのか、答えはきっと小父様が展開した心界領域にある。

そもそも包術は心の内に眠る意識を活性化させる事で包力を操る術。

そしてそれが空間全てを覆い尽くすとなれば共鳴する包力の量も桁違いに跳ね上がるはず。

だから小父様は言ったのです、『今のお前では超えられぬ壁が在るのだと教えてくれる』と。

宣言の通り、小父様はこの立会いを教鞭としてしか捉えていないのです。

そもそも負ける訳がない、だから今は勝利を諦めて自分の思惑に従いなさいと立会いを通して仰っているのでしょう。

「理解したかアイリス……今のお前では到底世界を背負うには力が不足している」

すぅっと大剣が引かれ、真上から見下ろす小父様は見たこともないくらい無表情でした。

喜怒哀楽の全てがごっそりと抜け落ちて一粒の色彩も宿していない。

「だがそれも現時点での話だ……鍛錬を積み続ければやがて私を、オールハイド殿を超える時が訪れるだろう、だからこそ今は生きろ、醜くとも生にしがみつけ、その為の猶予を作るのが私の使命であり願いだ、どうか汲んではくれないか」

そう、宿していない様に見える。

確かに表情が動く事は微塵もないかもしれない、でも……。

(……嘘つき)

小父様の瞳から流れた一筋の雫は表情なんかより雄弁にこの人の心境を物語っている。

「受け入れたくないくせに……」

呟きが口から漏れてしまう。

「死にたくないくせに!」

雫が流れたという事は心が揺れた証拠、即ち隙が生じた瞬間です。

跳ね上がる様に体を起こした私に我を取り戻した小父様ですが、こちらの方が速い。

大切な師匠が教えてくれた騎士としての私の長所がこんな形で役に立つなんて、この人に師事出来て本当に良かった。

無防備に開かれた小父様の胸に抱きついてからグイッと首を伸ばして距離を更に縮めていく。

急に気恥ずかしくなって瞳を閉じてしまったけど、私の唇はちゃんと目的地に辿り着いてくれた。

「アイリ……!」

私の名前を呼び終える前に小父様の唇は塞がれていました、私のキスによって。

「……んっ」

物語に出てくるような情熱的なキスなんて私には分からない。

唇と唇を重ねるだけの幼い口付けです、この人に向ける熱い恋慕を届けるのには足りないかもしれないけどこれが今の精一杯。

お願い、伝わって。

薄っすらと瞼を開くと瞳に映ったのは隠すことなく驚きを露わにする愛しい人の顔でした。

演技でもなく心の底から驚いているのでしょう、私を突き離すも抱き寄せるもしないで呆然と立ち尽くしているその有り様はついさっきまで豪剣を振りかざしていた騎士だとは信じられない。

つまりそれだけこの人の心を揺さぶる事は出来たという事でしょう。

迫った時の何倍も時間を掛けて唇を離していくと、更にはっきりと愛しい人の驚きを眺められた。

言葉を失ったまま立ち尽くしていた小父様はようやく動いたかと思うと私の右肩に片手を置いてくれた。

「まさかとは思うが……」

言葉に色が戻り始めている、困惑と羞恥が綯い交ぜになった震えを含んだ声音がその証です。

「そういう事なのか、アイリス……」

「はい」

返事に躊躇は要りません。

「おじさ……いいえ、ベルクリッド様の御察しの通り私は貴方に想いを寄せています、愛しく想っているのです、貴方のことを」

「馬鹿な……私のお前の親代わりだ、親に恋心を抱くなど正気の沙汰とは思えんぞ!」

「親代わりで在ろうと親ではありません……私の両親はオールハイド父様とアザレア母様だけです、でしたらベルクリッド様に恋焦がれるのも決しておかしくなどありません」

「御託を述べるな馬鹿者が!」

肩を掴む手にぎゅうっと力が篭りました、少し痛いくらい。

「アイリスの気持ちを私が受け入れるとでも思ったか! そんなことをしてしまえば凡ゆる感情に取り返しがつかなくなるぞ! 許されん……それだけは絶対に許されんのだ!」

強く強く言い聞かせるみたいに吐き出される言葉の羅列は確かに私へと向けられているのでしょう。

だけど本当に私だけに向けられた物なのでしょうか、どうにも引っかかる気がするのは何故なの?

「そうだっ許されん! 私の様なならず者がアイリスの愛を受け入れるなど断じて許されんのだ!」

外に向かうと言うより内へ向けて言葉を発しているかのような語調に聞こえる。

まさか……。

(あり得るの、そんな事が……)

ベルクリッド様の言動から思い至ってしまった推測は仮に事実ならば恥ずかしくて沸騰してしまうであろう内容でした。

(だけど、もしも……)

それが正解ならこの上ない幸運です。

ええい、ここまで来たのならば恐る事なんて今更です!

だったら当たって砕けてしまえ!

「ベルクリッド様、もしかして……」

私が声を挟んできたのを切っ掛けにしてベルクリッド様は言葉を慎みました。

「ならん、その先を口にするな!」

「もう遅いです、先程から許されない許されないと仰っていますけどそれは私に向けての言葉ですか? 私にはどうもそうは聞こえない、なんだかベルクリッド様がご自分に向かって言い放っているように思えてならないのです!」

「止めろアイリス! その先を口にしてはならん!」

「私の思い違いかもしれない、だけどもし間違いでないならば教えてほしい! ベルクリッド様もしかして貴方は……」

グッと一息を飲み込んでから……。

「私を……アイリス・ヴァン・ツヴァイトークに想いを抱いてくれているのですか!」

ありったけの声量を尽くして胸にわだかまる疑問をぶつけてやりました。

「………………」

「………………」

ゆっくりと息継ぎを三回は繰り返せる沈黙が、もしもの答えを如実に語っていました。

もう間違いない、ベルクリッド様はアイリス・ヴァン・ツヴァイトークに想いを寄せてくれている。

「……隠し通すつもりだったのだがな」

隠蔽は最早無駄だと悟ったのか、ベルクリッド様は滔々と心の内を曝け出し始めた。

「そうさ、アイリスが私を想ってくれているように私もお前に愛情を向けてしまっている……それも師弟愛や親愛の類ではなく一人の男としてのな」

「信じられません、ベルクリッド様と過ごした十年の時間の中でそんな素振りなんて全然分からなかった……」

「アルテミシアとの婚姻について話した時を覚えているか……私とて女性が色恋に浮かされているくらいは見当が付く、あの台詞はアイリスにも当てはまるのだぞ? 幼い頃のアイリスが私をみる都度に頰を赤らめれば察しはつく」

「お恥ずかしいです、私こそ隠せているとばかり思っていました」

「詰めが甘い、大人を舐めるなよ? ……そう私はアイリスと比べて歳が離れている、大人と子供と言い換えて差し支えないくらいにな……お前を引き取ってから最初は罪悪感に苛まれていたさ、どんな訳であれ幼い娘から両親を奪ったのは言い逃れのない事実だ、しかしいつからか両親を失いながらも笑顔を絶やさず振舞うお前の姿に気高さを感じるようになった、俯くことをせずに前を向き続けるアイリスの姿に心臓が鼓動するは仮初めの親心なのだと判断していた……いや、言い聞かせていたのだ」

肩から手を離され、ベルクリッド様と私は互いを真摯に見つめ合いました。

場違いな感情かもしれませんが私の心臓は早鐘を打つように鼓動を繰り返している。

速く、しかも大きく打ち寄せては返す拍動は激しいにも関わらずいつまでも浸っていたくなる魅力がある。

きっとベルクリッド様も同じ気持ちでいてくれるはず。

だってこの方のお顔も赤く染まっているが隠せていない、早鐘のせいで熱が灯ってしまっているのでしょう。

(嬉しい……ベルクリッド様と両想いだなんて、夢みたい)

この幸せをずっと噛み締めていたい。

いつまでもいつまでも身も心も委ねて、時が止まってしまえばいいのに。

だけど、それは許させれない選択だともお互いに理解している。

「そろそろ、決着をつけましょう」

右手で金焰の剣を天高く掲げて、宣言します。

「我が名はアイリス・ヴァン・ツヴァイトーク! オールハイド・ヴァン・ツヴァイトーク並びにアザレア・ヴァン・ツヴァイトークの嫡女にしてツヴァイトークを継ぐ者なり! この名を前にして剣を携えるのならば汝の信念を我に示せ!」

父と母、そして自らの名を連ねて宣言するのは後継者が家督を継ぐ決意の表明となる。

今この時、私はベルクリッド様に背負われるのではなく自分の脚で歩くことを心に決めて突きつけた。

さあベルクリッド、貴方はどう応えて下さるのですか?

「……ツヴァイトーク当主、アイリス・ヴァン・ツヴァイトークの宣言しかと受け取った」

ベルクリッド様も大剣を天高く掲げて。

「我が名はベルクリッド・ファン・ホーテン、ドゥーランド帝国騎士団団長にして貴族の長なり! 汝の剣に応え奢りなく我が剣にて立ち向かおう!」

ありがとうございますベルクリッド様、私と真っ向から向き合ってくれて。

互いに全力でぶつかり合い、立っていた方の選択が未来への選択肢となる。

私が勝てば二人で世界を支える。

ベルクリッド様が勝てば彼だけが人柱となる。

思い合うが故に譲れない火花が散ってしまうのは致し方がない、だから後は全力でぶつかり合うだけ!

「奉り願う……」

もう迷いはしない。

この立合いは私とベルクリッド様の意地と意地のぶつかり合いです。

世界の命運を掛けているというのに好いた惚れたの駆け引きで幕を下ろそうなんて、世間に知られてしまえば暇を賑やかすゴシップくらいにしかならないでしょう。

だけど私達は真剣だと言い切れる。

誰かを愛する心は全ての感情の中で最強だと知っているから。

私達は自らの最強を持って決着をつける!

「ツヴァイトークよ再誕せよ!」

背に出現する不死鳥の大翼。

ふわりと脚が地を離れたかと思うと体は光の速度で天空へと舞い上がっていた。

力が漲ってくる、それも自分の内から沸き起こるだけでなく外部から干渉で包力の供給がなされているのは明らかな勢いで。

ツヴァイトークが有する属性【再誕】は過去から紡がれる包力の連鎖に働きかける能力です。

私はただ闇雲に飛び回っているのではない、世界に点々と存在する平行世界の通過点を幾つも触れて回りながら包力の供給を受けているのです。

この通過点は再誕に目覚めた術師にしか感知は不可能。

平行世界の先には歴代のツヴァイトークが残してきた過去の記憶が宿っている。

通過点に触れる度に流れ込んでくる歴史の重み。

初めてユグドラシルを鎮静させた初代の記憶から現在までの責務と戦いの歴史。

世界を支える重圧にもがき苦しみ、人生を捧げる覚悟を強いられ続けた貴族の暗部。

下手をすれば死よりも残酷かもしれない一族の歴史が私の中に再誕していくのです。

そして連鎖の終わりに差し掛かった時、遂に私は最も知りたかった記憶に触れたのでした。

(父様……)

尊敬する父様と……。

(母様……)

敬愛する母様の記憶。

若かりし頃、ツヴァイトークの運命を呪い心を闇に閉ざした父様。

そして闇を払う光として父様を支えた母様。

愛する人と結ばれるべく帝国に捧げた忠誠。

そして二人の間に授かった娘に注がれる愛情。

『愛らしいな……ねぇアザレア、僕は自分が人の親になるなんて夢にも思わなかったんだ、自分の家族がツヴァイトークの呪われた運命に飲み込まれる姿なんて見たくない、きっと子供が生まれても情を抱く事もないとね……だけどアイリスを見ていたら今までの考えが馬鹿らしくなってきたよ、自分の娘を愛せている事に驚いている』

『もうオールったら、貴方が自分の子を愛せない訳がないじゃない、貴方は自分で思っているより愛情深いお人好しなんですよ』

『おいおい、随分な言い草じゃないか?』

『だってそうでょ? 人前では眉間に皺を寄せている癖に部屋で一人きりになった途端に戦場で自分が殺めた命を思い出して泣き崩れるなんて、お人好しの証拠ですよ』

『……見ていたのか』

『はい、しっかりと……心の綺麗な人だと思いました、だから貴方を支えたいって身分違いにも思う様になったんですよ』

『……アザレア、僕はね今の帝国の……世界の在り方に違和感を抱いてしょうがないんだ、これから先もツヴァイトークが、もしツヴァイトークが根絶すれば他の誰かが世界を支える人柱として捧げられなければならない、そんなのはおかしいだろ? 誰かの犠牲の上に成り立つ世界なんて歪んでいる』

『オール……』

『僕は帝国に絶対の忠誠を誓った、身も心も捧げると……だけどね、それは皇帝に誓ったんじゃない、国に生きる全ての命に誓ったんだ……誰かが変えなくちゃいけない、この歪んだ世界の法則を、その為の流血が必要なら喜んで僕が流そう、そしてそれを最後の犠牲にしてみせる』

『本気なのね?』

『ああそうだ、アザレアはアイリスと一緒に帝国を離れてくれ、二人を巻き込むわけには……』

『私だけ置いてけぼりなんて許しませんよ?』

『アザレア……』

『ごめんなさい、ツヴァイトークに嫁いだ身なのに私はまだ貴族の責務を理解していないわ、正直責任の重さなんて感じてもいない……でもね私もアイリスの親、この子は私達の娘なのよ? 我が子の未来に幸あれと願うのは決して間違っていない、それだけは分かるわ……付いていきますよ、私が愛した人の行く末に』

『……すまない』

『もう、謝るんじゃなくて他に台詞があるんじゃないかしら?』

『そうだったね……ありがとう、アザレアに出会えて、アイリスに出会えて、本当に良かった』

父と母は強い絆で結ばれながら、私に留めどない愛情を注いでくれていた。

ツヴァイトークの血が、再誕が齎してくれた記憶を直に目に焼き付けたからこそ疑う必要はない。

父様は国反逆したのではなく、忠誠を誓ったが故に剣を振り上げたんだ。

形は歪んでしまったかもしれないけれど、帝国に本当の自由をもたらす為……何より私を呪われた呪縛から解き放つ為に戦ってくれたんだ。

父様、母様……お二人の血を引き継げた事を最上の誇りとして胸に刻みます。

だから見ていて下さい、お二人の愛娘の気高い姿を!

「羽ばたけイリス!」

掛け声に応じて力強く唸る黄金の大翼。

それは力強く跳ね上がると体を完全に重力から解き放ち、意のままに宙を駆け巡り始める。

ベルグリット流 隼の型 飛翔の陣。

本来ならば密閉された空間で壁や天井を蹴りつけ、時には床を転がる反動すらも利用して空間を駆け巡る高速移動術。

ですがイリスの大翼は技の制約を取り払ってくれた。

息を付く間を打ち殺して速度を増していく私の体はを完璧に光の域に達している。

遥か上空、雲が流れる高さまで辿り着いた時、地上で私を待ち受けるあの人に向かい切先を定める。

(参りますベルクリッド!)

頭部と脚部の位置が逆転しながら両手で金焔の剣を直線に定める構え。

ベルクリッド流 隼の型 奥義 流星。

剣と包術を自在とした時に完成する隼の型。それぞれいまだ歪にしか扱えない今はとても完成とは言える代物じゃない、だけどこれが今の私の全力だ!

足底に焔が灯り、熱された空気が質量を持ち合わせた。

「と・ど・けーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

力の限り、全身のバネで蹴りつけた私は一筋の流星と成り、寸分違わずあの人の下へ降り注いだのでした。

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