恋する乙女と譲れぬ戦い6

オーブンを開くと焼き上がった小麦粉と焦げたクリームの香ばしさが鼻を擽って思わず笑ってしまいました。

「よし、綺麗に焼けた」

取り出したクリームタルトをお皿に移して粗熱が冷めるまでの間にお茶を用意しましょうか。

今日のお菓子は甘味と酸味が強いから両方を邪魔しないアッサムにしましょう。

茶葉をポットに適量入れて、もう一つのポットには熱々のお湯をたっぷり準備します。

この茶葉は飲む寸前にお湯を注ぐのが一番香りを楽しめますから、挿れたてをお出しする手間は惜しみたくない。

次にレモンの蜂蜜漬けを薄くスライスして粗熱のとれたクリームタルトへ扇状に重ねていきます。レモンは予め皮を剥いておきましたから食べづらさは気にせず味わえるはずです。

このお菓子は小父様の一番のお気に入り。

今日は心労をかけてしまいましたからせめてものお詫びにお好きなものを用意しました。

「気休めですけど、これで少しはくつろいでいただきたいな」

医務室で処置を受けた私はアルテミシアが用意した馬車で屋敷に戻るとエリオットさんに無理やりベットへ寝かされ夜まで過ごしました。

医師が施してくれた包術の効きが良く屋敷に着く頃には体力も大分回復していましたから、動く事に支障はありませんでした。

考えてみれば私もアルテミシアも外傷らしい物は無く、体力を回復さえすれば問題ないと医師にも診断されたと言ったのですけど、エリオットさんは「念には念を重ねておまけに念を押さなければいけませんぞ!」と聞く耳持たないでベットに拘束するのでした。

実はお菓子作りもこっそりとやっているのです。

寝てばかりいるのは性に合いませんから、せめてご迷惑をおかけした小父様と心配してくださったエリオットさんにお返しをしたくて言いつけを破ってしまいました。

またお叱りを受けるでしょうけど構いません、受けたご恩に報いるのも貴族の務めです。

完成したタルトとティセットをワゴンに乗せて小父様の執務室に向かうとしましょう。

薄暗い廊下の先、執務室から漏れる灯りが目印に辿り着くとノックをするべく拳を握った時です。

「アイリスの容態はどうだ?」

疲れを抱えていると分かる小父様の声がドア越しに聞こえました。

「医者からは問題ないと言われているようですが、念には念を入れ今日の仕事は休ませております」

どうやらエリオットさんも一緒みたいです。

「賢明な判断だ、包術に体を晒すと言うのは術者の心と触れ合うのと同義、自分でも気が付かない傷を精神面に負っている可能性も考慮すれば処置を受けた上で休養をとらせるのは必要だろう、エリオットにも無理をさせたな、久々に屋敷を一人で管理してアイリスの有難さを知れたんじゃないか?」

「いえいえなんの……と言えれば良かったのですが、悔しくも以前に比べて体も動かないものでして、アイリス様が仕事をこなして下さるのが助けになっていたのだと実感いたしました」

小父様、私の知恵が及ばない深さまでご配慮してくださっていたのですね、無知な自分が恥ずかしい。

エリオットさん、貴方が鍛えてくれたから一通りの仕事を覚えられたんです、まだまだ教わりたい事が山積みですよ。

「旦那様、学園での一件を踏まえた上で例の話をどう進められるおつもりですか」

例の話……何のことでしょう?

「……ようやく腹が決まったよ、受けようじゃないか、それが国の平穏を保つ最適解だ」

達観されているのか、小父様の声は深く平坦です。

「よろしいのですか?」

「私如きならず者が今の地位を任されるのはこの上ない誉だ、であるなら私情を挟まず責務をまっとうするべく動かなくてはならんと頭では理解しているつもりだったが、今回の件でようやく踏ん切りがついた……アルテミシア・ノーラ・シルフールとの婚姻受ける事とする」

なんですって!。

(小父様が……アルテミシアと……結婚……)

言葉の意味は理解出来た、思考は嫌になるくらい冷静に状況を把握している。

だからこそ余計に驚きとストレスは勢いを増して心に押しかかって、瞬時にパニックへと落ちてしまった。

(嘘……誰か……嘘だと言って!)

「騎士団長の地位はいざ知らず貴族会の長までも平民上がりの私が兼任するのは貴族会第二席であるシルフール家にとって気の良い話ではないだろう、私とアルテミシアが婚姻を結べばあちら側は団長と貴族会の長と言う二つの肩書きを手中に収め、私はならず者では手に出来ない伝統ある血族の後ろ盾を手に入れ盤石の体制を構築出来る、ツヴァイトーク家の血族がアイリスのみとなってから繰り広げられてきた権力争いに終止符を打ち、帝国を成長させるためにはこれしかないだろう」

ツヴァイトーク家が力を失ったから小父様が代行を務めて下さっているのは重々承知しています、貴族であるなら政略結婚など珍しくもない、だけど……。

(嫌……)

愛しい人が居なくなってしまう。

(嫌だ……)

お慕いしても届かない恋だと知っていた。

(小父様……)

だけど小父様が離れていく未来が見えてしまったとしても。

「………………っ!」

最後の理性を振り絞って叫びたい衝動を殺して駆け出していた。

ワゴンにぶつかってポットが落ちるのも構わずひたすら走る、一刻も早くこの場から離れなくちゃ、そうしないと部屋に飛び込んで小父様に泣きついてしまう。

小父様への恋心を曝け出してしまう。

それだけは避けなくちゃならないから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る