恋する乙女と譲れぬ戦い5

凍てつく氷の厳しさが体を支配しています。

体温は奪われ、やがて命の灯も消え果てるでしょう。

ここまで体の自由を奪われるとてっきり意識も失うものと思ってましたが、存外私の神経も図太さは自慢の種になりそうなくらいあるみたいです。

しかし意識がある分、苦痛を明確に味わう必要があるのはどうにもいただけないのですが。

手足と言った末端から体温が奪われていくのがはっきりと分かり、冷たさを通り越して体を締め付けていくのは鋭利な刃物の如く痛みの筵。

だんだんと手足の痛みは消えていき、代わりに体幹へと筵はせり上がって来るのでした。

(呆気ないものですね)

挑発に乗り幼さに任せて剣を振るった矢先がこの末路、とても小父様に合わせる顔がありません。

(それでも……小父様……)

最後は愛しい人に抱かれるくらいは許してほしかった。

(思い出せば最初に助けて頂いたあの夜は小父様に抱きとめてもらっていましたね)

鎧越しでも伝わったあの人の熱さと優しさ。

分けて頂き大切にしようと誓った命。

(結局……無駄に、散らせて……しま、い……まし……)

そろそろ最後の時が来たみたいです。

(お、じ、さ……ごめ、ん……な……さ……)

意識が完全に堕ちようとしたした今際。

「アイリス!」

聞こえたのは愛しいあの人が私を呼ぶ声でした。

(おじ、さ……)

まさか最後の時に幻聴まで聞こえてしまうなんて、私は心底小父様を慕っていたのですね。

「アイリス聞こえるか! 今助ける! 意思を保て!」

まるですぐそこに小父様がいるみたい、そう思い込むだけで生きる活力が湧き出るが不思議です。

声のする方向へ向けて手を伸ばそうと力を込めました。

雪の重さにピクリとも動くのは叶いませんが、それでも声の方へ愛しい人を求めて伸ばしましょう。

求めても求めても触れているのは雪が齎らす冷痛のみ。

それでも諦められませんでした、例え幻聴であろうともあの人が呼んでくれるなら醜く浅ましく生に追い縋なくては。

そうして少しでも手を伸ばそうと足掻く中、指先に冷痛とは似付かわしくない温もりを感じました。

(これは……)

温もりは私の手を力強く握り締めると決して離そうとはしませんでした。

やがて視界は開けて外界の光が瞼を通して降り注ぎ。

「アイリス!」

優しくも力強い包容が全身を暖めてくれたのです。

温もりの正体は息を切らしたベルクリッド小父様です。

国の英雄たるお方がまるで捨て子みたいに震えています。

周りの目を気にして下さいと申し上げたいのは山々ですが、もう少しだけこの温もりに身を委ねるのを許してほしい。

「小父様、どうしてここに……」

「そんな事よりもアイリス、お前と言う奴は!」

私から体を離した小父様の顔は十年来の付き合いの中でも見たことはありません。

触れれば砕けてしまいそうに強張らせて、だけど表している表情は間違いなく怒り、そして目に涙を揺らがせて。

「命を粗末に扱うとは、この痴れ者が!」

バシッと言う音に合わせて左頰に痛みが走りました、小父様の平手だと思考が追いついたのはたっぷり十秒も経ってからです。

「教官からも聞き及んでいる、私との約束を破りアルテミシアと本気で相対したとな! お前の実力は既に学生の域を超えているのだ、だからこそ周囲に齎す被害が如何程になるのかも言い含めてあったはずだ! 強すぎる力は心を伴わなければ自身の身を危険に晒してしまうとも教えている! 他人が傷つかぬならば良いのではない、命の勘定にお前自身も数えるのを怠るな!」

まくし立てる小父様の怒声は恐くもあり、威厳に満ち、私の身を案じる優しさに溢れていました。

「ごめん、なさい……」

ですから謝罪の言葉も素直に口に出来るのです。

「ごめんなさい、小父様……」

「……はぁ」

息を吐き脱力した小父様はもう一度私を抱きしめてくださいました、先とは違って控えめな抱擁でしたが包み込まれる安心感は大きくなっている。

(小父様、ありがとう)

そっと小父様を抱き返して、心の中で感謝を伝える。

そうしないと小父様が泣き崩れてしまうだろうと思ったから。

一緒に暮らしたこの十年の間、私を大切に守ってくれた愛しい人を悲しませてしまった後悔を忘れてはいけないと自分に言い聞かせながら暫く過ごしてから、ようやく疑問を口にしました。

「小父様……どうして学校にいらっしゃるのですか?」

「ああ、それは……」

小父様は私から体を離すとそのまま杖を片手に立ち上がり、背後を振り返って。

「騎士学校の視察も団長の公務だからな、定期的に足を運んでいるのはアイリスも知ってるだろう、特に現役の騎士が編入するとなるなら尚更足を運ぶ必要はある、そうだなアルテミシア」

「……はい……」

私達より十歩ほど距離を置いた所にアルテミシアがいました。

彼女の顔は色が抜けて暗く決闘中の勇ましさは欠片も見受けられない。

「王に仕え国を守る騎士の役職を拝命しながらこの有様、学生を挑発しその上模擬戦を仕掛けるとはどういう了見だ! しかも最初は決闘として話を通そうとしたとまで聞いている、理由を答えるのだ騎士アルテミシア・ノーラ・シルフール、これは騎士団の長として親衛隊である貴様への命令である」

私への叱責が情動に突き動かされた人間ベルクリッドの激しさと優しさだとするなら、アルテミシアに向けられた冷たい詰問は騎士団長ベルクリッドの人の枠を超えた法の番人たる騎士として果たす責務なのでしょう。

怒りや憎しみなど感情を不純物として取り除いた騎士団長は等々と部下を問い詰めていきます。

小父様はとても静かです。

瞳は揺らがず、呼吸も乱れない、故に時が流れるほど空気は実体を得たかの如く心と体にのし掛かる。

「アイリスさんの腕が確か……見たかったのです……」

重圧に耐えかねたのかアルテミシアが小声で漏らし始めました。

「団長の秘蔵児である彼女を倒して、団長が教えて下さった竜王の型は隼の型に劣りはしないと証明したかったのです……」

「馬鹿な!」

アルテミシアの震える呟きは小父様に一蹴されました。

「詰まる所貴様は自身の腕が我が門弟における姉弟子に勝ると証明する為に決闘を行ったと言うのか、愚か者が!」

静かに空気を伝っていた小父様の声が遂に燃え上がりました。

「貴様に騎士を名乗る資格は無用! この時を持って騎士団長ベルクリッド・ファン・ホーテンが命ずる、アルテミシア・ノーラ・シルフールよ、貴様から騎士の称号を剥奪する!」

「そんな……」

青ざめたアルテミシアは小父様の足下に傅いて。

「団長! 今回の結末は私の未熟故に引き起こされたのは弁明の余地もございません、ですが称号の剥奪だけはどうかご容赦を! 騎士の名を守れるならば喜んで火炙りでさえ望みます故、どうか!」

アルテミシアが誰かに敬意を払う姿を初めて目にしたと気が付いた。

私へと振り下ろした自尊心に満ち溢れた剣筋は間違いようのない実力に裏付けられた彼女の生き様とも言える。

だからこそ彼女は自身より力の上回る人間には傅くのを厭わないのでしょう。

自尊心など簡単に捨てされるくらい騎士団長を崇拝しているのです。

「……ならばこの一件の結末について陛下にお言葉を頂戴せねばならぬ」

瞳を閉じながら話すのは一層冷静に言葉を選ぶ時の小父様の癖です。

「私の一存で称号を廃すのは団長の権利だ、しかし貴様はあのシルフール家に連なる者、迂闊に称号を奪えば反撃の狼煙を上げるやもしれぬ、だが陛下のお言葉ならば従わざるを得ないだろう、なにせ我らに騎士として称号を授けて下さったお方なのだからな」

瞳を開き露とも揺らぎを見せない瞳で小父様は告げました。

「改めて命ずる、アルテミシア・ノーラ・シルフールよ、今回の一件皇帝陛下のお言葉を持って今後の処遇を決するものとする、これが上級貴族たる貴様とシルフール家に対しての最大限の譲歩だ」

「御意に」

アルテミシアは傅いたまま命令を受け入れました。

「陛下にご決断を委ねて下さったご配慮、ありがたく頂戴致します」

「………………」

押し黙ってしまった小父様はチラッと横目で私に視線をくださると。

「アイリスの処遇についても陛下に委ねるとしよう、ツヴァイトーク家の家督は興ったばかりの私の家督より遥かに高い、そうするのが一番円滑に事が運べる筈だ」

「はい」

まだ冷痛に強張る体に鞭を打って私も小父様に傅きました。

「騎士団長ベルクリッド・ファン・ホーテン様のご意向に従います」

お互いの家督の重さを比べても団長と学生と言う立場を考慮すればまだまだ小父様に従わなくてはいけません。

ですが結果として小父様に守っていただいている形になってしまったのが不甲斐なくて悔しい。

「……教官よ、アイリスは治療が必要だ、至急医者に見せてやってくれ」

「でしたら私が連れて行きます」

私の運び役を名乗り出たのはあろうことか渦中にあるアルテミシアでした。

「どういう……つもりですか」

「別に、決闘は私と貴女の同意で行ったのですから多少なりとも場を片付けるは責任だからです、鍛錬場の修理も私の方で取り持ちましょう、よろしいですね?」

訝しげにぶつけた疑問にさも当たり前とでも言う態度で返されましたが、彼女の言い分も通る部分があります、これ以上小父様の手を煩わせれば公務にも支障が出るでしょう、それだけは避けねばなりません。

「でしたらお願いします、正直一刻も早く熱いシャワーを浴びたくて仕方ない、肩を借りますよ」

「言われなくても」

アルテミシアは私の左肩に右肩を合わせると軽々と立ち上がらせました。

別に体重に難がある訳ではありません、アルテミシアがただ馬鹿力なだけですからね、勘違いしないで下さいよ小父様?

「このまま医務室へ向かいます、小父様も公務にお戻り下さい」

もう一度瞳を閉じて、小父様は思案されます。

「……隠さずに心境を吐露するならこのまま付き添いたいものだがな」

「ただでさえ今も公務に穴が開いているのではないのですか? 私は大丈夫ですから戻ってください」

小父様の肩には国の行く末が掛かっていると言っても過言ではありません、これ以上この場で小父様の優しさに甘えるのは許されないと自分に言い聞かせます。

「……分かった、その代わり医師に診てもらったら今日は屋敷に帰りなさい、陛下に采配を委ねる以上気を揉んでも仕方あるまい、部下に馬車を出させるから体を休めるように……」

「馬車も私が手配しますわ、団長はお気遣いなさらず」

アルテミシアが苛立ちを交えた声音で小父様を遮りました。

「アイリスさんの言う通りです、団長は公務にお戻り下さい、あとは私が」

「……そうか……」

杖で左脚を庇っている小父様にとって凍りつくされた鍛錬場は劣悪極まりない環境ので筈ですが、鍛え抜かれた体幹と感覚を持ってして普段通りの足取りで私達から離れて行きます。

これ以上自分が出る幕はないと判断されたみたいです。

「アイリス、言いつけを守り体を休めるのだぞ」

出口に差し掛かる辺りで脚を止められると顔だけで振り返り私を尚案じて。

「アルテミシア、事態の処理が済んだら一度騎士団本部に来なさい、改めて話を聞かせてもらう」

部下に指令を出したのを最後に今度こそ小父様の姿は外へ消えて行きました。

考えてみればアルテミシアと二人きりになるのはこれが初めてで、命のやり取りすれすれの行いを演じた相手に支えられているなど、滑稽としか言いようがない。

騎士を志す身として屈辱です。

「敵に情けをかけなくてはいけないなんて、騎士として屈辱ですわ」

どうやら相手も似たような感想を抱いていたらしいです。

「団長命令ですよ、手を抜かないで下さい」

「そこまで品性の欠けた行いするわけないでしょ、あの方のご指示ならどんな汚れ仕事でも引き受けるわ、騎士を辞める以外ならね」

「拘るんですね、騎士である事に」

「当然です、私は騎士でなくてはならないの、私が私であるために……」

「私が私であるために……」

彼女が発した一言が私の中で妙に反響しながら留まって、やがて大きさを増して鼓動を早めて行きました。

(私は、騎士を目指す理由を持っているかな……)

家督を守る手段、貴族としての責務を果たす手段、小父様に認められる手段。

理由を挙げれば流れてくるのは騎士とは私にとって手段でしかない事実。

騎士を目指す根底に私と言う存在が抜け落ちているのです。

どれもこれも私が騎士で在りたいと願う動悸ではなく、願望を遂げるため騎士の地位を利用しようとしていると気がついてしまいました。

(そんな……私は誇り高く在りたいから騎士を志して……)

私には中身が無い。

胸の内にはぽっかりと空いた大きな虚無が漂っているだけ。

そうか、だから……。

(私は包術が使えないんだ)

幾度も幾度も突きつけられてきた劣等感。私は貴族の出でありながら証たる包術を行使できないのです。

(そうか……これが……私なんだ……)

力を求める芯が欠けた者。

自分の正体を悟った時、体から完全に力が抜けて、今度こそ意識を失ったのでした。

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