季節のうつろいのなかで
お箸
柿の実に手をのばす
居間から漏れる明りに照らされて、庭の木に生る橙色の実は、つやつやときらめいていた。
何年も前、娘の
「結衣、どうしたの。今日は結衣の机の材料を買わないといけないんだよ」
「パパ、わたし、柿育てたい」
何を言い出すのかと思って結衣の視線の先を見てみれば、どうやら結衣は、奥に見えるポップの中に「柿」という字を見つけて足を止めたらしかった。
「柿を育てるなんて言ったって、そうそう簡単に育つものじゃないよ」
幸信がそう言っても、結衣は聞く耳を持たない。
「ねえ買ってよ、この前テストで三つも満点を取ったでしょ」
結衣が珍しく物をねだるものだから、幸信はたじろいだ。結衣はなおも真剣な眼差しで続ける。
「満点取ったらご褒美買ってくれるって、パパ前に言ってたよね」
「言ったけどね、植物を育てるのは大変だし、それにうちの庭は狭いだろう。苗木を買ったって、とてもじゃないけど柿なんて育てられないよ」
「育てられるもん。それに、パパだって柿好きでしょ」
母親譲りの頑固さで「柿を育てる」の一点張り、しばらく言い合って、終いには幸信が結衣のまっすぐな目に根負けし、机の材料のほかに柿の苗木も買って帰ることになった。
家に帰るやいなや、結衣は「早く植えよう!」と庭へと走り出した。幸信は呆れながらもそれを微笑ましく思った。幸信が車から荷物を降ろしている頃には結衣はもう庭に入って、幸信を急かすように庭をぐるぐると見まわっていた。大きな柿の木が自分の家の庭に生えているのを想像しているのだろう、その目線は地面ではなく空の方を向いていた。その空はどこまでも続くように真っ青で、綿菓子のような雲が幾ばくか風に流されていたのを幸信はよく覚えている。
「パパはシャベルをとってくるから、結衣は少し待ってて」
幸信は庭の方にそう一声投げて、倉庫にシャベルを取りに行った。倉庫の奥にしまったシャベルを取るのに難儀していたとき、結衣の「パパ!はやく!」という大きな声が庭から聞こえた。幸信はくすくす笑いながら「はいはい」と返し、埃をかぶったシャベルの持ち手を掴んだ。
しかし、幸信がシャベルを持って庭に来た頃には、結衣は幸信を待たず軒先に置いてある砂遊び用のスコップを使って庭に穴を掘っていた。そんな小さなスコップで掘ったってたかが知れているのによほど待ち遠しかったんだな、と幸信は静かに微笑んだ。夢中になって掘っているのだろう、結衣は幸信が来たことに気づいてなかった。
「あれ、待っててって言ったじゃないか」
そうわざとらしく拗ねるように言ってみると、結衣はやっと気づいたようで申し訳なさそうに顔を上げた。
「ごめんなさい、待てなかった」
「いいよ。じゃあ、苗木はそのあたりに植えようか。そこならスペースも十分そうだ」
「だと思って先にやってたの」
そう言って照れくさそうに笑う結衣を見て幸信は、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
それから幸信がシャベルで穴を掘りそこに苗木を入れると、結衣は嬉しそうに「森のくまさん」を口ずさみながら土をかけていた。それに合わせて幸信も一緒に歌うと、結衣はさらに嬉しそうにして歌を続けた。少し外れた音程が、幸信には可愛く思えて仕方がなかった。そして、植え終わって早々に「柿、はやく食べたいね」と笑って、土まみれの手そのままに結衣はじょうろに水を汲んでいた。
その日の結衣の笑顔が、楽しそうな声が、自分のどこか深いところで、金平糖のように甘く、しかし小さなトゲを持って沈んで動かないことを幸信はわかっている。いっそのこと柿なんて実らなければ良かったのに、そう思いながら飲み下した酒は、まるで味が感じられなかった。木のざわめく音や虫の鳴き声、そのどれもが秋の静寂の中でゆったりと混ざり合っている。幸信はそのどれに耳を傾けるでもなく、ただじっと、思い出に耳を澄まし、それを肴に酒をちびちび飲んでいた。
結衣は柿が大好きだった。柿狩りに二人で行った日には、農場いっぱいに生っている柿の実に目を輝かせていた。
「いっぱい採っていいの?」
ワクワクを隠しきれない表情で、結衣は農場のおばさんにそう聞いていた。おばさんに「いいよ」と言われると、パッと顔を明るくさせ、それから必死に柿の実を採っては大事そうに籠の中に入れていた。
採った柿を切り分けてもらってからは、結衣は柿のみずみずしさと甘さに顔をほころばせながら、嬉しそうに目一杯頬張っていた。
「美味しい?」
幸信がそう聞くと、結衣は頬いっぱいの柿を必死に噛んで飲み込み、笑った。
「うん、すっごく美味しいよ」
「それは良かったね」
「もっといっぱい食べたい」
「食べすぎは良くないよ」
幸信のその言葉に結衣は「はあい」と少し不満そうに答えた。そんな表情も幸信には愛おしくて、幸信は柿と一緒に幸せを咀嚼し、大事に飲み込んだ。
それから、結衣は最後のひとかけらを「トクベツだからね」なんて言って、いつも連れて歩いていたずんぐりむっくりのテディベアの口に近づけて遊んでいた。そしてひとしきり二人で柿を食べた後、結衣がテディベアの腕を動かして「モットタベタイヨ、オカワリチョウダイ」と幸信に向かっておかしな高い声を出すものだから、幸信はつい声を出して笑ってしまった。それを見て、結衣も楽しそうに笑っていた。もう随分と昔のことなのに、幸信には昨日のことのように思い出せる。そんなとりとめもない思い出さえもが、今の幸信にはきらきらと眩しくて仕方なかった。幸信は無性にむなしくなって、サンダルを履いて縁側からそのまま大した目的もなく、庭に出た。柿の木がより一層近く見える。柿の木はそんなに大きくないはずなのに、庭が狭いせいか、ずいぶんと大きく見えた。
ふと振り返ってみれば、先ほどまでいた居間の明りが大変心許なく思えた。今まですぐそこに座っていたはずなのに、まるで遠くに来てしまったような、森の奥に迷い込んでしまったような、何とも言い表せない心地がした。秋の夜長に冷やされた風が、幸信の頬を優しく撫でる。一人だという淋しさが、想いの隙間を満たすように、幸信の心になみなみ注がれていく。ああ、と嗚咽にも似た震えた声が、自然と幸信の口から零れ落ちた。俺は本当に一人になったのだ、数年越しの実感が切りつけるように身を巣食う。ただでさえ長い秋の夜が、延々と続く闇のように感じられ、ひどく寒気がした。
突然、強い風がびゅうと勢い良く庭に吹きこんできた。柿の木が大きく揺れ、葉と葉、枝と枝がこすり合いぶつかり合い、大きな音を立てた。幸信は風で乱れた前髪を直しながら、風の名残でまだ少し揺れている橙色の実をじっと見つめた。手を伸ばし、指先で少しだけ触れてみる。表面は少し粉っぽい感触がして弾力がある、どうやら収穫時期らしかった。
早く採らないと落ちて食べられなくなっちゃうよ、そんな声が居間の方から聞こえた気がして幸信は一瞬、呼吸を忘れた。この数年間、もう一度聞きたいと何度も願った可愛らしい声が、聞こえた気がした。しかし幸信はひとつ深い息を吸い、振り返ることはせず、瞼をゆっくりと閉じた。ここには自分以外に誰もいないことを、幸信自身が一番よくわかっている。
幸信は柿を収穫することに決め、柿の実を握り手首をひねって枝からもいだ。枝が反動でわさわさと揺らめいている。幸信の手の中でも、柿の実はつやつやと光っていた。
「今日はひとつだけにしておこう」
誰に言うでもなく幸信は独り言ちてその柿の実を服の袖で拭いた。柿の実はさらにつやつやと光り、みずみずしさを溢れんばかりに伝えている。幸信はその実を片手に、居間に戻った。やはり、というか当たり前なのだが、家には誰もおらず幸信ただ一人だけだった。
採ってきた柿を水で洗えば、輝きはより増した。何だかその輝きが、とても綺麗で悲しく思えて、自然と涙が零れた。一人でこれを食べねばならない、味わわねばならない、その事実への恐怖がミシミシと音を立てて心の内から這い出てくる。気づけば水を出しっぱなしにしたまま、幸信はしばらくキッチンで立ち尽くしていた。
ハッとして、今日の日付が変わる前にこの柿を食べなければ、と唐突に思った。なぜだか、今日これを食べることに意味があるように強く感じられた。幸信は水を止め、まな板を出し、包丁で柿を切り分けた。切ってみると、真ん中が少しだけ蜜状になって柔らかくなっていた。ちょうど、結衣が好きだった柔らかめの柿そのものだった。幸信はそれを小皿に盛って、フルーツフォークと一緒に居間に持って行った。
勉強机の上の写真立ての前に、その皿を置いてフルーツフォークを添えた。今となっては使われることのないその勉強机は、ひんやり冷たくて、悲しくて、それでも幸信は捨てられずに残したままでいる。
「ひとつもらうよ」
幸信はそう一言断りを入れてから、ひとかけらをつまんで口の中にほうった。柔らかな食感と甘みが口の中に広がり、優しい香りが鼻腔を通り抜ける。よく噛んで飲み下せば、何だかすっきりとした気分になった。ひとつ胸のつかえが取れたような気持ちがした。
写真立ての隣に飾られた不格好なテディベアは、少し埃をかぶっている。幸信はあの日を思い出して、言った。
「おかわりはいるかい」
そして、その言葉の馬鹿馬鹿しさとむなしさに、自分で笑った。
庭の柿の木も笑うようにざわめいていた。
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2019年10月提出分
お題:「テディベア」「収穫」「夜長」「森」
使用お題:すべて
お題がメインでなくフレーバー使用になってしまったのが一番の反省点です。
季節のうつろいのなかで お箸 @ohaohaOhashi
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