第54話「先生の過去を知りました」
しばらく経って、坂道が急になってきた。
カルデラの崖(火口)に近づいてきているのだろう。
「もうすぐ獣族のテリトリーを抜けられます。油断はできませんが、ひとまず安心ですね」
と、先生は言った。
「殿下、ご無事で何よりでした」
先生が俺を見つめて微笑んだ。
汗がにじんでいるが、それが痛みによるものなのかどうかは俺には分からない。
「すみません」
俺は思わずそう言った。
「なぜ謝るのです?」
「俺のせいで、みんなを危険にさらしてしまいました」
先生は俺の言葉に驚いた顔を見せ、すぐ微笑んで見せた。
「殿下はお優しいですね」
先生は俺の頭をなでた。
その手つきが優しくて柔らかい。
「殿下のせいでさらわれたわけではありません。それに、私たちが好きでやったことなのです。それでどうにかなっても、自己責任ですね」
アリスは俺のほうを見て、痛みに耐えた笑顔を浮かべた。
こんな草木に覆われた歩きにくい道を歩くだけで大変だろうに。
「は、失礼しました!」
先生はあわてて手をひっこめる。
「殿下に対して、なんてなれなれしいことを」
「なれなれしいだなんて思いません」
先生は魔族だし、もうこの国に縛られる必要もないし、そんなにかしこまらなくてもと思う。
「先生、僕はもう先生のことをただの先生だと思っていません。だから、そういうふうに距離をつくられるとちょっと寂しいです」
「殿下……」
抱きしめられた。
ものすごい力で。
目の前には巨大なマシュマロ。
先生の汗と植物の香りが鼻腔をくすぐる。
柔らかいお。
「殿下にお話しておきたいことがあります」
先生はそう言って、この話を切り出した。
先生には息子がいた。
先生が既婚者で子どもまでいたことが多少ならずともショックだったが、この話とは関係ないのでおいておこうと思う。
とにかく、先生は人間の男性と結婚し、半魔族半人間の子どもが生まれた。
その子の名前をミルという。
ミルは魔族でも人間でもない自分に悩んでいた。
一時期は、人間を忌み嫌っていたりもした。
つまりハーフ特有のアイデンティティクラなんとかってやつだろうか。
そういえば前世で、クラスに韓国と日本人のハーフがいた。
大して親しいわけではなかったから深いところまではわからないが、なかなかにきつそうだった。
日本人でないことに負い目を感じる、とか、世界から国籍が消えればいいのに、なんてことを吐露していた。
それが種族まで違うんだから、大変だったんだろうな。
魔族として育てられたミルは、父親とは母国語が違うから深くまで親子喧嘩もできないし、考え方もとらえ方も、容姿や流れる時間まで違う。
きついのは、先生もだ。
そんな息子に投げかける言葉が見つからない。
親として何もしてあげられない焦燥感があっただろう。
夫は、そんな思春期真っ盛りの息子をおいて先立ってしまったらしいし。
でも結局、そんな息子を変えたのは父親だった。
先生は最初、ミルは父親を亡くして落ち込んでいるのだと思い、そっと見守っていた。
そんなミルが突然、人間の世界で暮らしたいと言い始める。
メンヘラ屑親の金食い虫を養って幼い弟妹がいるから家を出られなかった俺からしたら、そんなの甘えにしか聞こえないが。
俺にはない深い悩みがあったのだろう。
自分基準のスケールでものごとを測るのはよくないな。
先生は最初、反対した。
魔族はコミュニティをそれほど大切にしない。
逆に、社会と秩序を重んじる人間の世界では、ミルは排斥の対象となる。
それが夫が魔族の世界でミルを育てようと提案した理由でもあった。
だから、危険だと言った。
このままここで暮らしていけばいいじゃない。
人間の世界なんて知らなくてもこのまま。
先生はそう言った。
『でも、このままでは、僕は何者にもなれない』
そんな息子の絞り出すような痛切な訴えが先生の心を変えた。
「私が守ってあげないといけないというおごりが、ミルを檻の中に追い詰めていたのだと気づいたのです」
先生は旅立つミルを見送った。
危なくなったら帰ってきなさいとは言わなかった。
それが親として、息子に対する礼儀だと思った。
様子を見に行ったりはしないと決めた。
見に行くことがミルを裏切る行為に思えた。
先生はそう言った。
それが正しい判断だったかどうかは、俺にはわからない。
先生は他の魔族と同じように、独身時代に戻ったつもりで生活を楽しんだ。
ただ一つ、ほかの魔族と違うのは、魔族は場所を転々と変えるが、先生はいつ息子が帰ってきてもいいように一か所に留まり続けたことだ。
夫と息子で暮らした家に。
「その日は、雲一つのない晴天でした。その日のことは良く覚えていないのに、なぜか天気だけは今でも鮮明に思い出せるのです」
息子さんが見つかりました。
同棲していた年下の女性が、息を切らして駆け込んできた。
そのただならぬ様子に、先生はミルに何かあったのだと分かった。
探してもいないのに、見つかったという表現。
いましたではなく、見つかったと。
その口調から、最悪の事態がよぎったという。
でもそれは間違いだと思った。
そう思いたかった。
人間と魔族との衝突はよくあるそうだ。
魔族が転々と住処を変えて、そこに人間がいれば、人間は自分たちの国を守ろうとする。
魔族は、それをジャマだからという理由だけで簡単に排除する。
ミルを見つけた女性は、革製品を作るのを生業としていたらしく、狩りにでかけていた。
そこで偶然、壊滅した人間の村を発見した。
ふつうは、壊滅させた当人である魔族が後片付けをする。
無作法な同族がいたもんだと彼女は思った。
彼女は、生き物の命を奪って革製品を作ることを生業としていたのに、どの種族の命も大事にする博愛主義だったので、人族の礼儀にのっとり遺体を焼き払おうとした。
そこに、魔族の死体を数体見つけた。
遺体を埋葬していないところをみると、このコミュニティは全滅している。
この同族たちは、後片付けをしなかったんじゃなく、できなかったんだと知った。
彼女はすぐに周囲を警戒した。
同族の犯行か。
獣族の奇襲か。
人族から思わぬ反撃に遭ったか。
彼女は気づいた。
人族と争った形跡以外が見つからないことに。
この魔族らを
これほどまでに魔族を追い詰めるやつがいるのかと彼女は戦慄した。
この場を離れなければと思った。
その人族が襲ってこないとも限らない。
ただ、何かひっかかる。
それが何かと周囲を見渡す。
すると、木にはりつけにされている人族の遺体。
よくよく見ると、どうも魔族に似た容姿をしている。
ミルだった。
ミルは死んでいた。
先生は大樹の根元に埋めた。
魔族の風習では、ミルはマジカとなり世界をめぐる。
ミルは。
なぜか人の世界に住み。
なぜか人のために戦い。
なぜか人のために命を落とした。
今さらミルの本心は聞けない。
ミルは世界の一部となってしまっている。
「できるなら、戻りたい。そう思わない日はありませんでした。ミルが死ぬ前に戻って、引き留めたかった。この戦いで命を失ってしまう、それでも人族の国を守るのかと。しかし、アラウラネが見せた幻覚の中で、ミルは言いました。人族を守るのは、私が夫を選んだ理由と同じだと」
あれは私が作り出した幻覚にすぎませんけどね、と先生は寂しそうに笑った。
私の中で、答えが出ていたのかもしれません。
先生はそう言った。
先生はミルのことを知りたいがために、人の社会に入り込んだ。
人族特有のよそ者への冷たさはあった。
弱さゆえの、コミュニティを守るための防衛本能だと思えば、気にすることではなかったらしい。
先生には時間も力も人柄もある。
先生は魔族の文化や考え方を出さず、人族の習慣や社会を受け入れる努力をした。
努力は苦にならなかった。
「それで、息子のもとに近づいて行っているような気がしていたからです」
その努力は徐々に、周囲を変えていった。
先生の周りには先生を慕うものが集まってきた。
それは王もだろう。
王が実力主義とは先生の言だが、実力だけで起用したわけではないはずだ。
やがて、先生はその国で重要な職を任されていく。
そこには、幼児期の王子の教育係も含まれていた。
「そこで殿下に会いました」
俺がミルに似ていたらしい。
………。
そうか、と思った。
俺はミルの代用品だったわけか、と。
先生は俺を見ていたわけじゃなくて、息子さんを見ていた。
そうか…。
「殿下、そのような顔をなさらないでください。息子を重ねてみていたこと、それは事実です。でもそれが全てではないのです」
そのような顔とはどのような顔をしていたのだろう。
こう見えても、見た目は子ども頭脳は大人だからな。
先生だって、子どもを失くしたらそういう心境にもなる。
それが俺で寂しさを紛らわせられるなら、それでいいと。
そう思っているつもりだったんだけどな。
それに、どちらかというと、先生のほうが悲しげな顔をしている。
「殿下には、私と獣人との戦いはどのように見えましたか?」
そう聞かれて、先ほどの戦いが脳裏に浮かんだ。
「息子への思いは、これからも背負っていくことでしょう。ただあの時は、」
まぎれもなくあの時の私は。
息子を救いたかったのではない、殿下とともに生きたかったのです。
殿下の存在は、それほどまでに大きいものになっていました。
私が気づかないうちに。
私の命を上回るほどに。
そして気づきました。
息子は大切なものを守ろうとして死んだのだと。
「殿下。私のことを、ただの先生だと思っていないとおっしゃってくださいました。それはこの話を聞いたあとでもそう思ってくださいますか」
先生から涙が流れた。
女性の涙に免疫がない俺はおろおろした。
アリスは先生の手をぎゅっと握った。
先生は微笑んだ。
先生との記憶をたどってみる。
教育係としての先生と、国を追放されてまで俺のめんどうをみてくれた先生を。
それらが演技だと到底思えなかった。
「先生、僕は」
答えなんて、もうすでに決まっていた。
「僕は、先生はすでに特別な存在だと、そう思っています」
「殿下……。私は、私も……。殿下にとって一介の教育者に過ぎない私が、殿下を特別な存在と思ってもいいのでしょうか」
「もちろんです」
しっかりと、そう答えた。
先生は涙を手の甲で拭う。
目元がやや涙で腫れていた。
「殿下、さあ行きましょう! 殿下がつくる世界を私は見たいのです!」
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